針供養について

2月8日は全国的に針供養が行われています。

と言っても京都では12月8日に行われ関西以西はこれに習い、東海から東北は2月8日が多いようです。

元々、12月8日と2月8日と言うのは「事始め、事納め」の日として祭礼がおこなわれていました。今はほとんど絶えて無くなった行事なのですが、江戸では竹の棹の先に竹で編んだ笊を差して家々の軒に高く掲げていました。この起源は諸説あるのですが、どれも取って付けたような理由なのでご紹介するのは遠慮させて頂きます。

そもそも「事始め、事納め」自体が12月と2月のどちらが始めで、どちらが納めなのか文献によってばらばらだという珍しいケースなのです。

2月8日と言うのは本来これも旧暦なので、今年は3月13日にあたり初午の日と重なっていて、一説には12月からこの日までが実質的な冬の農閑期であり、稲作中心の農家では厳冬期間の屋外作業を避けて屋内作業を中心に行い無理をして体を壊さぬようにとの戒めであったとも言われています。風邪が命取な時代の知恵でもあったようです。

この為、寒冷な関東以北では「事始め、事納め」の行事は盛んで豪雪地帯では最初から屋外作業が不可能なので行事はなく気候の比較的温暖な関西以西では、2月8日の行事はほとんど行われず一年の納めの儀式として12月8日に針供養のみが広がったとも言われていたりします。

針を供養すること自体は京都市西京区嵐山の法輪寺にて奈良期に行われたとの縁起があるのですが、日時、真贋は定かではありません。(ご存知の方がいらっしゃればご教示下さい)

江戸時代に入ってからは慶安年間(1648−52年)には「事始め・事納め」の行事が江戸市中で行われていた記録があるが針供養は各地の淡島神社の縁起に現れるのは明暦年間(1655−57)以降で若干のずれがあったりもします。

現在は各地の寺院や神社でも針供養は行われますが、起源は淡島神社であることはほぼ疑いはありません。

淡島神社の本源は和歌山県の賀田神社だと伝えられています。淡島神社の縁起はちょっと異色で住吉大明神の奥様だったのだけれど、婦人病になって嫌われてしまい
紀州・淡島に流されて鎮座し、その後、賀田の海女の守護神となり婦人病の守護神となり、女性全体の神となったとされています。(祭神は少彦命ですが、信仰は淡島大明神)また淡島は雛人形の起源であるともされ、淡島神社はお雛様の祖神であるともされています。

この為、現在では地方の淡島神社の分社では3月3日の雛祭りに、いっしょに針供養をする地域もあったりします。

江戸時代、性病だけではなく婦人病全般は婚姻に差し障りが大きく医学もこの分野は非常に立ち後れていました。この為淡島神社は最初は遊郭や性的な事に従事する女性の守護神として崇敬を集め、そのうち婦人病の神として急速に広まりました。これには「淡島願人」という願人坊主が全国を回っていた為でもあるのですがやっぱり、困った弱者の処に、このたぐいが現れるのは昔から変わらないもののようです。

そこから転じて、女性の守護神として崇拝を集めるに至り当時の女性の金銭に交換出来る技術として最も一般的であった裁縫の神ともなり関東中心に行われていた事納め事始めの祭礼の間の日時がちょうど室内作業である針仕事に集中する時期と一致していたこともあって針供養が行われるようになったとの説が有力だったりします。

これが転じて仏教の虚空蔵菩薩が知恵や技芸の守護仏であるとこらから、針供養だけが独立して虚空蔵菩薩を本尊とする寺院に広がり関西を含む全国的な行事へ拡大したのではないかとの説が強いようです。

テレビや新聞を見ると現在では裁縫学校の行事だったり、リサイクルの一部や、「針に感謝する行事」なんて薄っぺらい理由のようになっていたりもします。

一針一針大切な家族の衣服を縫い、一針一針縫う事で生活を支えていた江戸期の女性達が女として健康でいられるからこそ、針仕事が出来る感謝を、そして家族が健康でいるからこそ、縫える衣服への感謝をそして万感の思いを込めて針を奉納した心をちゃんと伝える行事として残って欲しいなぁって思ったりもしています。


江戸のつれづれ
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