夢見るナタリー


に続く、誰かの物語だといいけど。

 あたしの中で何かがはじけていく、始まりの時があるとすれば、それはいつ来るのだろう。誰も知らない透明な日々。何も背負う必要なんてない、って信じていたのに、だんだん廃棄ガスで汚れていくベランダの洗濯機みたいに、あたしもだんだんすすけてくる。あたしもだんだん、普通になってく。あの人たちを破壊したい、爆弾でも落ちりゃいいんだわ。と考えていたあたしはもはやどこにもなくて、その人たちとうまくやっていける日々を思っている。それはそう遠くない。あたしが正直とか素直っていうのに生まれ変われば済む話だ。いやでも本当はそれじゃ済まない。だってあたしはもともと素直だったんだから。それは本当、だけどね、周りの人が・・・
 というような日記を考えていると、誰かが寄ってきて口をパクパクさせた。ドラッグのせいじゃない。幻覚なんかじゃない。いや勿論、私はドラッグとかセックスを持ちこみたいわけじゃない。ただ私ってこういう人なのよ。ちょっと変わってるの、だからそれは何か別のもののせいじゃないって知ってほしかったの、これで私の普通なのよ、わかる?
 でもその人は多分、私の言いたいことなんてわかってない。だから本当は殺してやりたい。だいたい、あのメールは何?あのふざけた、同窓生を気取った他人行儀な、それでいて馴れ馴れしいメール。第一、誰から私のメールアドレスを聞いたの?誰が私のメールアドレスを売ったっていうのよ。
「じゃあ、どっか、飲みに行こうか」
とその人の口がまるで蓄音機みたいにずっと開いたまま言ったので、私は蓄音機と一緒ならジャズバーがいいなと思いながら歩き出したけれど、蓄音機のついた顔を持つ男が案内したのはヤキトリ屋だった。
 この状況は何だろう。わかってるわ、勿論わかってるわよ。この歳になっても小さいヤキトリ屋しか入れないあなたのことはわかってる。でも今日は私との再会の日じゃない?何年経ってもあなたの声は私に届かない。信じられないことだけど、私はあなたを許してる。おかしい、どうかしてるわ。だってあなたが私にした仕打ちは一生忘れない。でもどうしてかまだあなたの声が聞けない。声が聞けないっていうことは、本当に、本当に、本当に信じられないことだけど、あなたのほうが立場が上なのよ。どうしてこうなっちゃうんだろう。全ての状況は私が支配して当然なのに。あなたときたら、何その格好?その格好じゃ、確かにヤキトリ屋しか入れない。それにひきかえ、見て、あたしのこの素敵なワンピース。あたしはケンゾーも好きだし、ギャルソンも好きだけど、本当はツモリチサトが好きなの。そうね、確かにこんな田舎を歩く格好じゃないかもしれないわ。だけどこんな田舎に似合う服なんて持ってないし。
「久しぶりやな〜。最後に会ったのいつだっけ?」
なんて言わないで。そうね、確かに六年振りというのは滅多にないことだけど、私は最後にあなたに会ったときを覚えているわ。最後に声を交わしたのも、姿を見たのも勿論覚えている。教えるつもりは全くないけど。やだ、ちょっと、砂肝が先でしょ?勿論塩に決まってるわ。いきなりハツなんて頼まないで、お願いだから。
 よりによって、私が全てを許している男がこうも田舎くさく、洗練と程遠いところにまだ居るなんて。こうも恥ずかしい思いをする悲劇的再会になったなんて、まあ大体予想はついていたけど、私の完璧な終わりのシナリオからまたひとつ遠ざかった。だが今日は、確認の作業をしに来たのではない。流れを変えなければ。

 あの人を好きになったときのことは全然思い出せない。あの人が何で悩んでいて、何を好きなのか全然知らなかったし、今も知らない。ただ記憶だけが深くなっていく。記憶なんて曖昧なのに、それはわかっているのにとても大事なものだと勘違いしてしまう。どうして?幼い頃の話などしたくない。知りたくない。確かめたくない。あの時、見つめ合ったときにあなたが何を想っていたのかなんて知りたくない。そういうのを全部抱えて走り去りたい、それなのにどうしてあなたは今目の前にいるの?どうして私はあなたの呼び出しに答えたりしたの。
 全部抱えて走り去りたいという想いは、実はずっと昔からあった。私はあなたから自由になりたかった。どうしてあなたはそんなに遠いところにいる偶像なの?そしてそれなのに、どうしてこんなに近い存在なの?昔昔、と言ってもそんなに昔じゃないけど結構昔に、あなたのことを風だと思ったことがある。風は、閉じ込めたら消える。あなたも風みたいにふわふわみんなの中を飛んでいてほしかった。私の目の前に姿を現さないで!ずっと遠くで、知らない誰かと知らない話をしている人でいて。私の周りを行ったり来たりしないで。惑わせないで。
 ふたりの私がいるように、私の中でふたりのあなたが私を一層困らせた。遠い遠い存在だったらよかったのに。私も普通の中高生みたいに遠くて一瞬のはかない片思いをしたかった。手作りチョコ?そう告白。古き良き時代の残骸、阿呆らしいイベントに参加して、私もせめて普通に過ごしたかった。想いを隠したりしないで、人並みに傷つきたかった。
 でもあなたは不意に私の心臓のすぐ近くをかすめて消える透明人間だった。目の前まで来たと思うと消える。不意に現れ、不意に消える。そんないたずらなやり方で、どうして私だけを苦しめるの?ほかの女の子たちと同じように扱って。醜い私を見ないで、ずっと無視して。だから私は、予定より早く走り去ることを考えついた。でもそれは不可能だった。今もあなたを捨てきれずにいる。私はいつも現実と喧嘩している。現実と反対方向へ向かってしまう。どうして?楽なほうに流れる性格だったはずなのに。未練がましいあたしなら最低、あたしをこうも堕落させたのは本当に全部あんたのせいよ。
 どうして有線なの?しかもどうして演歌じゃないんだろう、こういう汚い店は演歌のカセットテープが流れているものだと思っていたのに、どうしてポップスなんだろう。さっきまでパルコで流れていた曲がまた聞こえてくる。腐った歌詞、誰かの裏声がまた私を無意識に疲れさせる。あとちょっとで博物館に模型が展示されそうなこの店、そう全ての道具やカウンター、背もたれのないイスなんかが珍しく、初めて来たわという顔をしたかったのに、しっくりこない。
 でもいいの、今日はあなたと最後に会う日だから、何でも許してあげる。そうよ、この忌まわしい記憶から今日でおさらばだわ。あらいやだ、おさらばだなんて。古い言いまわし。でも、そうね、現実よ、行動は常に答えを出すっていうのは、ある意味当たってるかもしれない。だって、今日ここに来なければ、またおかしな記憶だけに振りまわされてたんだもの。悪夢が早く覚めますように。早く私が生き返りますように。
 こう考えてちょっと気分が良くなった私に、その男がまた一撃を食らわせた。
「最近、結婚願望強くてね」
なんですって?あなたが結婚?ちょっと待って、それはシナリオにはなかったはずよ。っていうかどうして私が動揺するの。結婚なんてちっとも似合わない、だいたいまだ少年じゃない。見た目も話し方も言葉も、どう考えても中学生から少しも成長してない。勿論私も。
 あと一呼吸ですぐに元通り、って思ったのに更にかぶせる言葉とは、
「ナタリー、俺と結婚する?・・・な〜んてな」
私はため息をついた。年をとった笑い方は、蛆虫みたいだわ。そんな冗談は通じないってわからないの?なぜ今日あたしはここに来たの?あなたを無視できないからでしょう。どうしてこのきれいな、あたしのきれいな、きれいな、きれいな生活にあんたみたいな蛆を介入させるかわかる?あんただけがあたしの思い通りにならないからよ。でもそれも今日で終わり、だから今日だけはそんな話をしないで。きれいに終わるかバカで終わるか、そのふたつはつまり同じことなんだけど、お願いだから一般的な人を演じていて。結婚なんて言わないで。そういう暗黙の了解は、あなたたち得意なんでしょ?
 あなたたち?
 心の中で言ってから、私はちょっととまどった。あなたたちって誰だろう?そう、遠い記憶の遠い人達。私が仲良くできなかった人達。私が必要とせず、むしろ無視して生きていきたいと思った人達。
 その男はさっきから黙っている。口が開いたままだったら、ずっと蓄音機だと思えたのに、口に見えてくる。今その唇にすごくキスしたい。キスしたいけど絶対にしてはいけない。絶対に絶対にそういうことをしてはいけない、この人の前でオープンになってはいけないと自分に言い聞かせながら、まずいジンライムを飲んだ。