—スコットランド、アイラ島— 1997年6月
紺碧の空と海との間に、陸が現れた。ひとりの老婆が、
「あそこが私たちが降りる島なのかね。」
と興奮した様子で話しかけてきた。
エジンバラから西へ三百キロ、スコットランドの西端キンターヤー半島の窪み、ケナグレイの港からアイラ島行き、夕方六時のフェリーに乗った。アイラ島は大西洋に広がるヘブリディーズ諸島のひとつで、ちょうどアルファベットのEを反対にして、いびつにしたような形をした、南北に40km程の小さな島である。
「そうですよ。」
私たちも初めて来たのに、確信したように答える。
誰も彼もが立ち上がって船の先頭に集まってきた。たった二時間の船旅だが早く大地に降りたいという気持ちがはやる。空色に白いクロスのスコットランドの旗の先でぐんぐんと陸が迫ってくる。
ポートエレンの町だ。小さな湾沿いには一様に白い家が建ち並び、入り江には数隻の船が浮かんでいる。ひっそりとして、愛らしい町だ。
案内の放送が始まると、皆待ちきれないように下の車置き場に降りてゆき、私たちも青のフィアットに乗り込んだ。船のお腹が開いて一台一台を陸へと吐き出してゆく。
初夏を迎えて、この島ではやっと夕刻が始まろうとしていた。太陽がやや下向きになり、白い家々に斜めの陰の線をつけている。
写真: Hans Hardam
ただまっすぐと一本道が地平線の先まで伸びていた。地図をあらかじめ見ていた夫は迷うことなく、白い家々の並ぶメインストリートを通りすぎ、海岸線をしばらく走り、ボウモアという首都の町を示す看板を左へ90度、田舎道へ入った。そして、右へそれるとその道は、突然現れた。
両側には黒く盛り上がった大地が茫々と広がっている。ピートだ。ピートは腐った草と海水を含んだ泥土で、乾かして燃料やこの島の名産でもあるウイスキーのフレーバーに使われている。ピートの先にはゆるやかな線となって丘が空へと進み、雲が目に見える速度でふわり、ふわりと流れている。途中、羊に注意、の赤い標識がアクセントのように一本道の脇に立っている。
丘の上に遠く一軒の白い家が見えた。クローバーの白い花がぽっかりと漆黒の大地に生えているみたいだ。カセットからケルト語で歌うエンヤの澄んだ声が外の風を伝えるかのように鳴り響く。
湾曲した道に変わり、海岸線を走る。海岸には家路にもどる羊の親子がのんびりと歩いている。太陽の位置が低くなり、私たちの車の影も海岸線に沿って動いているのが見える。海の反射で車の中がきらきらと眩しい。私たちは無口になっていた。