-イタリア -ヴェネチア〜リド島
(一部抜粋)
「アクアミネラーレ コン ガス、ペルファボーレ」
覚えたてのイタリア語でそう頼んでから、由利子はすぐ後悔した。
もう6月だというのに夕暮れせまる運河から吹き抜ける風で、歯ががちがちと鳴るほどだった。
(私は今、映画『旅情』のなかでキャサリン・ヘップバーンがベネチアングラスの店の主人と偶然また会うことになる広場のカフェにいます。)
友人に宛ててそこまで書いたが、炭酸入りレモン水はさらに由利子の体を震えさせた。
いつもは無数にいる鳩もまばらで、観光客のために幾度となく奏でている楽団の『旅情』の曲も冷たい風にかき消されていった。
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気がつくと地下の部屋に通じる階段を降りた踊り場にふたりは立っていた。
由利子は何と言っていいのかわからずに顔をそむけたが、
隅にある丸テーブルの上にさりげなく置かれた1脚のワイングラスに眼を奪われた。
そう、これだわ。
由利子は少年のそばを離れて、ワイングラスに近づいてみた。
キャサリン・ヘップバーンがうらびれた骨董品屋のショウウインドウで見つけたのと同じ赤色で脚のところは透明なガラスになっていた。
光の当たらないところで見ると、それは血のように深く、重暗い色をしていた。
由利子が手にとって照明にかざしてみると、みるみるうちに生き返ったようなガーネット色に変化していった。
少年の名前はルカといった。
女の子の名前みたい、由利子はそう思いながら、大事そうにワイングラスの包みを抱えて通りにでた。
もう既に外は暗くなっていて、風はいつのまにか止んでいた。
夕飯を食べるために表へ出で来た観光客で、細い路地は前に進むのも困難なほど混雑していたが、あたりには暖かな空気が漂っていた。由利子はしばらく立ち往生を楽しみながら、ゆっくりとホテルへ戻って行った。
「ぼくはもう教会には行っていない。好きになれないんだ。」
ルカは声をひそめながらも強い調子で吐き捨てるように言った。
外へ出るとやっと呼吸ができるようでほっとしたが、ルカはまたどんどんと歩き出していた。
左へ折れたかと思うと右へ曲がり、また左側の橋を昇ったり、降りたりするので迷路のゲームをしているように
由利子はくらくらしてきた。
まさに、ラビリンスー迷路だわ、石の壁に圧迫されそうになりながら、
由利子は現実とは程遠い別の世界に来た感じがして少しこわくなった。
片手を伸ばしただけで十分届きそうな幅の路地の上には洗濯物が干されたり、
窓辺にはアザレアの花が飾られていたりしたが、不思議と人の姿はなかった。
由利子が顔をあげると、夜の空にちょうどそこだけ切り取ったようなレモンの形をした上弦の月がぽっかりと浮かんで、
こちらを見下ろしていた。
「送っていくよ。ホテルはどこなの?」
「ホテル・ルナよ。」
由利子がそう答えると、ルカは由利子が見ていた方角に顎をしゃくってみせた。
「あれもルナ(月)っていうんだよ。」
ルカはあたりまえみたいに、穏やかに微笑んで、ポケットに手を突っ込んだまま歩きはじめた。
由利子は両手を伸ばして、惜しげもなく太陽に向かって体を横たえた。
じりじりと光線が食い込んできたが、その後海風がやさしく体をなでていった。
腕から力が抜けていって、砂をつかむことができなかった。
張りつけになった状態のまま体が大地へ溶けていくようだった。
なんて自由で、なんて幸せなんだろう、由利子は再び力がもどってくるまで、目を閉じていた。
至福の喜びという言葉が浮かんできた。
サングラスをかけていても太陽はまぶしく、由利子は泣き笑いの顔になっていた。
ルカの煙ったようなグリーンの瞳に、日暮れの海の青が映って透きとおっていた。
それは胸をしめつけるように美しかった。
由利子には、その言葉は決して自分に向けられたものではなく、ルカの心からの孤独の叫びのように聞こえた。
手をのばせば触れられる距離にいながら、由利子はただ黙って隣にすわっていてあげることしかできなかった。
誰も他人の孤独を救うことはできないのだ。
何の前ぶれもなく陽はアドリア海に沈んでいった。
あたりは一段トーンの落ちた色合いに変わっていた。
ふたりは何かを共有したことのある昔からの友達のように無言だった。
誰もが永遠の時間を願うときほど、それは満ち足りた一瞬なのだろう。
ルカはまたマウンテンバイクにまたがり、海岸線を右に走って行くのが見えた。
角を曲がるとき、ちらっとこちらを振り返ったが、由利子は手を振る間もなかった。
バポレットの中は暗く、空も海も境界線のないミッドナイトブルーの闇に包まれていた。
由利子も保護色をまとったように、その濃紺の世界へ溶けていってしまいそうな気がした。
ここで文字どおり漂っていることが、今いちばん自然で完璧なことだった。
(わたしは他のどこよりもヴェネチアでこそ、よりよく自分の人生を考える。)
ブローデルはヴェニスについて語った本の中で、何度もポール・モーランのその言葉を引用していた。
由利子は歩きながら、この非現実で夢のように魅惑的な町の中でこそ、何かをたぐり寄せることができたのだと思った。
答えのない何かーただ漂うことに意味があるかもしれない。
広場には海水が染みでていた。
満潮時にはいつもラグーナからの水が入り込んで、ひどい時には、あたり一面水につかると聞いていた。
ヴェニスは沈みゆく町なのだ。
由利子はあちらこちらにできた水溜まりを跨いで、サン・ジョルジョマジョーレ島が見えるところまで歩いていった。
ふと、いちばん大きな水溜まりの前で由利子は立ち止まった。
その中にはきのうの夜ルカといっしょに見たのと、幾分たがわない月が映っていた。
今は由利子の足元で静かに笑みを浮かべてゆらゆらと灯火のように揺れていた。