前編 〜運命〜 


 街中を歩いているとおかしな風景が見えることはないだろうか?自分とは関係のないことだと割り切ってしまうことはたやすい。しかしそこであえて一歩踏み込んでみるとどうなるだろうか。もし今度そのような場に居合わせたら次はその中に入り込んでみるといい。絶対に後悔するから…

 俺は自分にも他人にも嘘はつかない性質だ。また自分の正しいと思ったことは信念をもって突き進んでいく。それが俺なりも正義であり、今までの25年の人生で得られた教訓の一つだ。人はたまに俺を暑苦しい熱血漢、とかうざったい奴、などと称するが他人に流されたせいで何か自分に嘘をついてしまった、などでは笑えない。

 また、俺は今まで反省はしても後悔はしない、ということを眼目に入れて生きてきた。定期テストや部活の試合、大学入試や就職活動など今までの俺がしでかしてきた失敗は数知れずだが、その度に後悔だけは絶対にしないようにしていた。ただし、反省はしてきた。後悔と反省の違いは後ろ向きか前向きか、とか次につながるかつながらないかなどがあるが、俺はそうではなく意識的にするかしないかだと思う。というのも、後悔は意識しないでも勝手にしてしまう感情だ。しかし、反省は意識して我が身を省みる行為だ。つまり意識して悪い行動をする馬鹿はこの世にはいないはずで、先程の前向きだの後ろ向きだのはそれの一環だ。だからこそ俺は今まで意識して後悔はせず、意識して反省するようにしてきた。それは今回も例外ではない。

 俺が勤めている会社は米の会社だ。俺はその中の外回りで、いつも試供品を片手に商品を置いてもらえる店を探している。しかし米など既に店にあるのは安くてうまいものばかりなので、新しく入ってくる味がよくわからない高額な商品を好き好んで店に置いてくれるところなどなかなか存在しない。ほぼ確実に損するのだから。俺はいつものようにいろいろなところをまわって全て空振りだった。もう既に慣れっこだったが、特に暑いその日は全て空振りという事実が妙にこたえ、クーラーのよく効いた喫茶店に入って放心していた。そんな時だ、歳は10代後半から20代前半まで、俺より少し若い風体の男が入ってきた。入り口についている鐘を鳴らしながら入ってくるそいつは一人だったが、耳にピアスをして髪は金髪、服も今風の洒落たものを着ていて、普通の黒髪にスーツ姿である俺に比べて輝いて見えた。店員に案内されて俺の隣に座ったそいつは椅子に深くかけて横柄な態度をとった。アイスコーヒーを飲みながらそちらを見ているとこちらの視線に気付いたのか、こちらを見ると急に俺に話し掛けてきた。
「よう兄ちゃん。何か俺に用?」
「いや、別になんでもない」
「それだったら人の顔じろじろ見たりはしないだろ。何か顔についてる?」
と言ってかばんから鏡を出した。なるほど、最近の若者は常に鏡を持ち歩くのか。俺が学生の頃は外見に気を使ったことなんて全くなかったなぁ、なんてことを思いながらしげしげと自分の顔を観察するその男を見ていた。
「おい、別に何にもないじゃん。一体何があったんだ?」
「だからなんでもないって。ただ格好いいなと思ってな」
「お、わかる?いつもこういう格好していると親にあからさまに嫌味言われるんだよねぇ。この感性がわからない親で理不尽だよ」
と早口でまくし立てた。まぁ確かにそんな格好していたら親はさぞ悲しかろうな。もし俺に息子が出来てその息子がそんな格好してたら正座させてずっと説教するかもしれない。
「なんにしてもさ、この格好のよさがわかるいけてる兄ちゃん、名前はなんていうの?俺の名前は榊忠志だ。趣味は音楽、職業は不定期護衛業務さ」
と自己紹介をしてきた。風貌に似合っていない名前が気になったがそれは敢えて触れないでおくことにした。それにしても一体不定期護衛業務とはなんだ?
「俺は桜庭恭平。米の会社に勤めている。不定期護衛業務とはなんだ?」
「へ〜、なんだか名前に合ってないねぇ。そんな名前よりも『権田岩太郎』みたいな感じの方が似合ってるのに…」
「ほっとけ、よく言われる。で、不定期護衛業務とは?」
「まぁ一言で言えばボディーガードみたいなものだ。婆ちゃんが隣町まで行きたいけど荷物が重いから無理、という場合はかわりに荷物を持ってやったりおぶってやったりする。また、国家機密クラスの重要なものを運ぶ際にもそれを命をかけてどこまででも護衛する。実力はピカイチだが、気分が乗ったときしかやらないので『不定期』護衛業務なんだ」
今のセリフ、もしこの世にうさんくさいセリフコンテストとか、説得力のないセリフコンテストというのがあれば恐らく準グランプリくらいは取れるだろう。婆さんの荷物運びと国家機密が同格など極めてうそ臭い。第一国家機密などがもしあったらそれ相応のプロに依頼するだろう。こんないかにも最近の若者、といった者などには絶対頼まないだろう。それと、もしそんな重要なことをやっているならば初対面の俺なんかには言わない、それもこんな人が多い喫茶店などでは。そして何より自分で『実力はピカイチ』とか言ってたら世話がない。それでもこの奇妙な人間に興味を引かれた俺は話を続けた。
「へ〜、それで報酬は?」
「依頼に応じて変わる。それは応相談だな。何、兄ちゃんも護衛を頼みたいの?」
「いや、今のところ特にないよ」
というより仮にあったとしてもこいつには頼まないだろう。
「まぁいいや。もし何かあったらこれに電話してよ。暇なときならいつでも駆けつけるよ」
と言うとかばんの中から11桁の電話番号が書いてあるメモ用紙を出して俺に渡すと一息でオレンジジュースを飲み干し、そのまま帰っていった。そう、そのまま金も払わずに…店員が慌てて外に出るが時既に遅し、若さを侮るなかれ。数秒の間にもう見えないところまで走り去っていた。店員は慌てていたが、結局ジュース一杯ならいいか、という結論に達したらしい。その結論が出てみんな落ち着いたようだった。そう、備え付けのナプキンやら砂糖やら金を入れると占いの結果が出てくるような機械なんかが全部なくなっていることに気付くまでは…俺は何かあっても絶対にあいつには頼まないと心に誓った。

 そうこうしているうちに時は3時をまわり、あと1軒まわれるくらいになった。丁度いいと思って店を出ると相変わらずの熱気でやる気が削がれたが、これから夏場は毎日こんな生活が続き、その度にそれから逃げるわけにはいかない、と思って強引に歩を進め、ようやく予定通りの場所へ到着した。最初から無理だと知って店へ行くのは何度やってもどうも好きになれない。例えるならば歯医者へ行く子供のような気持ちか。絶対にやらなければならないのは知っているができることならば少しでも先送りにしたい、そんな状況は誰でも日常的に感じることはあるだろう。ただ俺の場合それが毎日の仕事なだけだ。

 そして交渉に当たると、いつも通りの難色だった。人間は生来消極的な生き物で、既に知っている安心できるものを好む。その中で価格が安ければ言うことなし。そのどちらも揃っていないうちの商品など買う客は普通はいなく、だからこそ店も難色を示すのだ。しかし今日だけは少しだけ事情が違った。難色とは言ってもいつも端から相手にしてくれない他のところとは違い、多少建設的で、具体的にこの商品の長所と短所を述べて現状から考えて、と真剣に分析してくれるのだ。しかしそこからは俺のプロとしての腕の見せ所。ただ単にごり押しをするのではなく引く所は引き、押すところは押す、という普段の俺ならば絶対にしないような微妙なことをやるのだ。まぁそれで成功した試しは今まで一度たりともないのだが…だが、今回の俺はなぜか急に強気で、全く引かずに押しまくった。今日はなぜだかいつもよりも押しができて、しかもそれが吉と出ていた。そしてその結果成功したのだ。初めての取引の成功、俺はたまらなく嬉しくなってその店でこれでもかというくらい買い物をして帰った。これというのも、さっき会った榊とかいうやつの押しがきいたからだろうか。あいつが押しまくってて俺が特に何も出来なかったからそこで鬱憤が貯まっていたのかもしれない。調子に乗った俺はジュース一杯もロクに飲めないようなやつなんだから次に会ったら食事でもご馳走してやろうと思った。

 会社に戻って報告を済ませると、いつもならそのまま帰るのだが今日は違った。なぜか寄り道をしたくなったのでいつもは通らない繁華街を通っていろいろな店を見て回った。本屋へ行ってみると偶然あいつがいた。榊忠志、不定期護衛業務をしている手癖の悪いやつだ。
「おい、どうしたこんな時間に?子供はもう帰ってなければいけない時間だぞ」
「おお、昼間の兄ちゃんじゃん。いや〜、家に帰っても暇なだけでね。ちょっと立ち読みでもしようかと思って」
「は〜、何読んでるんだ?」
そう言って身をかがめて忠志が持っている本の表紙を見てみた。『日本経済と社会情勢』と書いてある。ちゃらちゃらした外見に似合わず固い物を読んでいるんだな、不定期護衛業務とやらもまんざらでもないかもな、などと思っていると中から水着姿の女の子が映っている雑誌が目に入った。
「おい、写真集を見るのにそんな手の込んだことはするな」
「だってよ〜、これ本当は18歳以下の閲覧は禁止されてるやつだぜ?あからさまに読んでたら店員にいやな目で見られるだろ?まだ17歳の清き少年である僕ちゃんにはあまりにも辛い現実…」
「いずれにせよばれてるっての。第一どこが『清き少年』だ。それならあと1年くらいは我慢しろこのバカが」
「そう言うけどさ〜…例えばあんたは今猛烈な腹が減って目の前にある高級レストランに入ったとする。が、食材が全て切れていて今は食えない。しかし3時間待ったらうま〜い飯をタダで食わせてくれるらしい。あんたはそういう時に3時間待つかい?」
「いや、そこまで待たないな。猛烈に腹が減っていたらどこか他の所へ行く。空腹は最大の調味料だ、なんでもうまく食えるさ」
「な?それと同じことで、俺も今は手段を選んでる場合じゃないんだ。だって見たいんだから」
「しかしそれとこれとは別で、そんなのはがまんできるだろう」
「おいおい、性欲をバカにするなよ?人間の三大欲求は食欲睡眠欲性欲、としっかり大きな物として扱われてるんだ。第一人間に性欲がなければ繁殖はあり得なく俺達はいないんだ。それにな…」
「わかったわかった。けどそれもほどほどにな」
「ああ、わかったよ。じゃあな」
と言って本を置くとそのまま立ち去ろうとした。だが俺は丁度いい機会だしお礼をしておこうとした。
「なぁ、腹減ってないか?ちょうど飯食いに行くんだが一緒にどうだ?」
「ごめん、今日金がないんだ」
本当は今日だけではなくいつもなのではないだろうか。
「俺がおごってやるよ。一人で食べるのもさびしいものだしな」
と、恥ずかしいから本当の誘う理由を隠して食事に誘った。
「まじで?俺見かけ以上に食うけどそれでもいいの?」
「かまわんよ。いくら食ってもいいさ」
「やった〜!ここんところ日に1食で腹へってたんだよ!よ〜し、今日は食いまくるぞ〜!!」
というと周囲の目も気にせずに大声を出して飛び跳ねた。その様子を見ていると今更ながら食事に誘ったことを後悔し始めた。

 その後悔は見事に的中していて、忠志は信じられないくらい食べた。メニューを片っ端から頼んで、料理が来るまではうきうきとして喋りまくっていたが料理が運ばれてくるとマシーンとなって全く話さずに一心不乱に食べていた。一応財布には3万ほど入っているが不安になって外に出て金をおろしてくることにした。昔なら既に銀行は閉まっていて諦めるしかないが近頃はコンビニでも金がおろせる。便利な「コンビニエンス」ストアとはよくいったものだ。すると一人男が店内に男が入ってきた。チャラチャラした格好で肩で風を切って歩いていて周囲の人間が避けて通っていた。別にああいう頭の悪そうな奴に興味はないと思って視線をディスペンサーに戻した。すると突然大きな音がして、騒ぎが起きていた。そちらを見てみると一人の老人がその男とぶつかったらしく倒れていた。すると舌打ちをして
「邪魔なんだよ、前見て歩けこのクソ婆」
と言って自分の用であるらしい煙草を買うとそのまま店を出て行った。周囲の人間は非難の言葉と視線をばれない程度に送っていたが当の老人を無視していた。金を下ろし終えた俺は老人の手を引いて立ち上がらせて怪我がないのを確認すると店の外まで送ってやった。そこでふと疑問に思ったのが、老人に対して悪態を付いたあの声が妙に聞き覚えがあったのだ。なんとか思い返してみると、高校時代の部活の先輩だった。顔つきも確かに似ている。とても面倒見のいい先輩で、とても尊敬していたので今のことは俄かには信じ難い状況だった。
「人って変われば変わるものだなぁ」
などと一人で勝手に納得して話を終わらせたが、俺にはショックな出来事だった。そして店の中へ帰ってきて食料詰め込みマシーンの元へ行くと相変わらず詰め込むピッチは衰えておらず、呆れるくらいよく食っていた。聞く耳をもたないといった感じだったので一段楽するまで待っていると、なぜか急に止まって俺のほうを見てきた。
「よく考えたらこれ以上食べたら兄ちゃんの金がやばいかな?」
「今更そんなこと…気にするな」
と笑いながら答えた。それは俺の本心であり、特に気を使ったつもりはなかった。
「でもなぁ…まぁ食べ過ぎると太るしそろそろやめておくか」
「別にそれだけ痩せていたら大丈夫だろ?」
「いや、そうやって『今は大丈夫だから』って考えているとそういう小さな積み重ねがいずれ大きくなるんだよ。わかるかい、兄ちゃん?」
「まぁ、いいけどな」
そう言っている頭の中はあの先輩のことでいっぱいだった。
「おまえにとって『尊敬する人』はいるか?」
つい質問してしまった。それだけあの出来事は俺にとってショックだったのだ。
「俺」
その、あまりにも単純明解な返答にしばらく絶句してしまった。
「……じゃあ他には?」
「いないね。俺が尊敬するのは俺だけで、これは死ぬまで多分変わらないだろう。『尊敬する人』は俺だけだが『尊敬に値する人』なら少しはいるけどな」
と自信に満ち溢れた内容を言ってのけた忠志の顔は真剣そのものだった。
「そうか…まだ食わなくていいのか?デザートもあるぞ?」
「ん〜…遠慮しとくわ。今日はご馳走さん」
とだけ言って席を立つと出口へ消えてしまった。

 次の日、会社へ行く途中に再びあいつに出会った。なんでこんなに偶然が起こるんだろう、というよりこれは「運命」というやつなのではないだろうか。
「おっす、昨日はありがとね。これでしばらくは飯食わなくても大丈夫そうだ」
「人間って本来食いだめする生き物じゃないんだがな…」
「普通はできないことでもそれが有用ならどんどん使っていくべきだろ」
「まぁそれもあながち間違いじゃないんだがな。ところで今日はどうした?学校はないのか?」
「学校なんて行ってないさ。何しろ俺は不定期護衛業務という仕事を持っている、プロフェッショナルだぜ!」
プロというくらいならせめて喫茶店のジュース代くらいは払えるようになってくれ。
「そういやそうだったな。昨日も聞いたがその外見を見るとどうしても学生って感じが抜けなくて…」
「俺はあんたと違って若々しさがあるんだ」
「悪かったな。昔からふけ具合に関しては定評があるんだ」
「や〜な定評…どうせなら『早食い』とか『いやらしさ』とかが欲しいもんだよ」
どっちも欲しくねぇよ。
「おっと悪ぃ、電話…ちょっと待ってな」
と言ってかばんの中から大きめの携帯電話を取り出した。二つ折りが主流な今日、あんな古風な携帯を若者が持っているとは思わずなんだか嬉しくなった。そして電話の相手と話している忠志の口調はいつも通りだったが、表情は真剣そのもので、これはこれでこいつにはいいんじゃないかな、と思った。
「仕事の依頼だ。これから隣町まで行くんだが一緒に行く?」
「なんで俺が…一緒に行っても邪魔なだけだろ?第一俺は今日も会社があるんだ」
「別にいいじゃん、一日くらい休んだって大して変わらないさ。それにあんたがいると仕事がうまくいきそうな気がするんだ」
「いや、そんなことは言っても…」
「さぁ、そうと決まれば善は急げだ!さぁさぁ乗った乗った!」
道路を走っているタクシーをとめると、その中に強引に俺を押し込みその後忠志も乗り込んできて、運転手に行き先を告げた。こいつにタクシー代を払える金はあるんだろうか?

 走っているタクシーの中で小声で忠志に聞いてみた。
「今回はどんな内容の依頼なんだ?初めての子供のお使いの護衛?それともばあちゃんのお供か?」
「拳銃の密輸」
念の為に聴かれてはまずい内容だったことを考えて小声で訊いた俺の配慮は全く無視され、運転手に明らかに聞こえる声の大きさで答えた。一瞬ぴくっと動いた運転手だったが、そのあたりはさすがはプロ、すぐに冷静になって運転に集中していた。
「何を言っているんだ。そんなことが許されるはずがないだろう」
「俺の仕事は護衛業務だ。相手の事情は関係ない。俺がすべきことはただそれを護衛するだけだ」
簡単に言ってのけた忠志の顔は氷よりも冷たく、仮面のように無表情だった。
「だからと言ってな…やっていいことと悪いことがあるだろ」
「俺がやっている仕事の中でもばあちゃんの荷物を持って行ったらまわりから誉められるが、そういう密輸の類はそうやって否定される。どうしてこれはだめなんだ?」
「なんでだと?そのような有害なものは人間が持っていると危険だから国が規制しているんだろうが。危険なものでなくても国が管理するのは全体がスムーズにすすむようにやっているんだ。機械の中で一つでも歯車が外れてしまったら機械は動かないだろう?それどころか歯車が壊れていたら機械を壊しさえするかもしれない」
「そうは言うけどな、今回の拳銃にしても他の人間がもし危険なものを持っていたとしたらそれに対抗するには自分も同じようにするか、ないしはそれ以上のものを持つしかない。戦争がそれのいい例だ。一つの国が銃を開発したらもう一つの国は戦闘機を作る。そうすると相手は戦車を作り…そういうような無駄な対抗が散々続いた結果が原爆だのなんだのだ。一定以上の危険性を持っていると焦って規制したりするが結局は怖いから他の国がそれを捨てるまでは自分の国も捨てることはできない。どんな綺麗事を並べても結局人間っていうのは自分が安心できる材料がない限りは満足しない生き物なんだよ」
忠志の言っていることは間違ってはいないが合ってもいない。だが俺はその意見を否定できるほどの持論がなかったので黙るしかなかった。久々に自分の無力さを痛感する場面だった。そうしてしばらくの間沈黙が続いていると目的地に到着し、運転手が後部座席のドアを開いた。忠志はすぐさま飛び降りると、そのまま一目散に走っていった。こんな場所においていかれても困る、急いで追いかけなければ、と思い俺も降りようとすると運転手から代金を請求された。なるほど、俺を先に乗せたのはこういう意味もあったか、なかなかやってくれるじゃないか。

金を払うと忠志が走っていった方向へ全力疾走をする。全く、20代で大して運動が得意でもない人間が10代のいかにもスポーツマン、といった体型の男に体力で敵うはずがないだろうが。忠志の姿が見えないうちに疲れてその場にへたり込んでしまった。通勤用の馬鹿みたいに重いかばんを持って、動きにくい背広を着てのランニングという時点ですでに勝負は決したようなものだったが、昔はもっとならしていたんだがなぁ…なんて感慨にふけっているうちに現状を認識し始めた。そうだ、このままいったらあいつは密輸なんて言う馬鹿なことをするつもりだ。早く行って止めなければ!と思いしんどい体に鞭打って起き上がって走り出すと、後ろから強い力で引っ張られた。この忙しい時に一体誰だ?と思い後ろを睨み付けるとそこにはさっき走っていったはずの忠志が立っていた。
「おいおい、そんな恨みがましい目で見てくれるなよ…なんだか恐いぜ」
と言った忠志の体は明らかに退いており、そんなに俺は辛そうな目をしていたのだろうかと思うと吹き出してしまった。ってそんなことはどうでもいいんだ。
「そんなことじゃなくてなぁ、お前今自分が何するつもりか分かってるのか?」
「ああ、ついてこいよ」
と言って勝手に歩き始めた。全く、これがこいつのいいところであり悪いところであり…ってとこだな。まぁそれに付き合う俺も俺だが。そして商店街のような道へ。サラリーマンの出勤時間や学生の通学時間からは少しずれていて、そこにいるのはそろそろ活動開始しようとしている主婦や店を開けようといている人達だけだった。しばらく歩いていると、その中でもさらに人気のない裏道へと入った。そして忠志はさびれたバーのような店のドアを乱暴に開けた。古めかしいネオンがついたビールの看板には店の名前が書いてあったのだろうが埃と汚れで字が読めなくなっている。忠志の後に続いて店の中へ入ると、やはり外見通り、古くてぼろいだけではなく汚らしい内装だった。仮にも飲食物を取り扱う店ならばせめてテーブルの上に溜まった埃くらいは掃除しておいて欲しいものだ。それとも棚に入っている酒類はみんなインテリアのようなものなのだろうか。それよりも店主はどこだ?一人でそんなことを考えているうちに忠志は一番奥の席にふてぶてしくどっかりと腰掛けると、ぽつんと突っ立っている俺に目を向けた。
「どうしたの?どこでもいいから座ればいいじゃん」
「というよりここはなんだ?店主はいないのか?」
「とっくの昔につぶれたところらしいからね。これから来るのはここの店の持ち主で、昔はバーとして使ってたらしいんだけど今は他人に知られたくない会談などにしか使ってないんだってさ。まぁ一応棚に入っている酒なんかはちゃんとしたものらしいから飲みたければ飲んだら?結構好きでしょ?」
健康の為にたった今から禁酒することにしよう。こんな酒を飲んだら本当に体を壊しそうだ。第一、明らかにラベルが強引に探された形跡がある酒を『ちゃんとしたもの』といえるのだろうか。
「そんなことはどうだっていいさ。それよりもこれから来る奴ってどんな奴なんだ?」
「ん〜…説明するのは大変だな。百聞は一見にしかず、実際に見てみるといいよ」
イマイチ納得がいかなかったが、そう言われてこれ以上聞き続けるのも変なので俺も座って待つことにした。そしてドアのノブがまわり、一人分の影が見えた。

< 続 く >

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