1月22日 土曜日 靴を磨く
僕は玄関に行って靴磨きセットのふたをあけた。結婚をしたとき、「大人」になった象徴として買ったもので、木箱に入ったものを奮発したのだが、実際はまだ3〜4回使っただけで、僕の足元は相変わらずおろそかになっていた。今日は靴を磨く。ずっとそう決めていた。今年が始まってから、3回目の週末にようやく休みを取ることができそうだ。通常なら、週末は計画を立てて必ずどこかに遊びに行くのだが、今日は家にいること自体が贅沢だ。頭の中を真っ白にしながら、黙々と靴を磨こう。
昔、銀座のお得意先に通っていた頃は、新橋駅構内の狭い小屋の中で細々とやっている靴磨き屋さんがあって、会社に戻る前によく立ち寄ったものだった。60近いおばちゃんが、若造の靴を500円で磨いてくれる。この時は、ちょっとした王様気分だ。小屋の中は2畳ほどの広さしかなかったが、外の喧騒からはしっかりと切り取られていて、時間はゆっくりと流れていた。靴磨きをされているときは、椅子に座って、おばちゃんたちの手元をずっと眺める。決まった手順で、いつものとおり靴をピカピカにするおばちゃん達の手つきが好きだったし、社会人になったばかりで、いろんなプレッシャーにさらされていた僕にとって、このささやかな王様気分は貴重なひとときだったと思う。そんな、靴磨き屋さんも4年前くらいに、突然、なんの前触れもなく無くなってしまった。僕のささやかな王国が消え、その後、靴も汚くなっていった。
薄暗い玄関で、木箱からクリームを出し靴を磨く。磨く手順は、かつて新橋駅のおばちゃんたちがしてくれたのを見よう見真似だ。僕の靴は、6月の新婚旅行の時にフランスで買ってきたけっこういい品。いい革靴は、手入れをすれば長く使えるからというので奮発したのに、こんなことではすぐに履きつぶしてしまいそうだ。それに、靴もきっと不本意であろう。15分ほどかけて磨いた靴は、ずいぶんと綺麗になったが、それでも新橋のおばちゃん達が磨いた靴の、約8割くらいの輝きであった。プロの技にはかなわない。それでもささやかな輝きを取り戻した僕の靴を眺めながら、無くなった靴磨き屋さんと、びっくりするくらいにピカピカになっていたあの頃の靴のことを、懐かしく思った土曜日の朝。
TOD'S