1月2日 日曜日 夢の箱根駅伝
特に目立った夢を持たない少年時代の僕が密かに抱いた、数少ない夢のひとつに箱根駅伝があった。小学校時代より、なにもしなくても学年の3番以内に入る持久力を自然に持ち合わせた僕は、中学校に入り陸上部に入部した。人より早く走ること、練習によりそれにどんどん磨きがかかっていくことに快感を覚えた。走っても走っても落ちないスピード(むしろスピードは上がってゆく)。力つきそうなランナー達を一気に抜き去る快感。これは、その能力を持ち合わせた人間にしか分からない。人間が自分の体の性能を100%発揮し、それが他の個体より優れていることが証明される瞬間。これが陸上競技の醍醐味である。たいしたレベルではなかったが、それなりにそんな醍醐味を感じはじめていた中学三年生の頃だったと思う。正月に延々と流れる駅伝の映像。圧倒的早さで、他の大学を抜き去ってゆく選手。走っている途中で体に異変をきたし、途中で棄権を余儀なくされる選手。バトン代わりのタスキを、大会の運営上の理由でつなぐことができずに繰り上げスタートする下位大学の選手の無念な表情。そこには体ひとつ、自分の足のみで戦う若者たちのドラマがあった。僕が中学生の頃の箱根駅伝は、大東文化大学や順天堂大学が強豪校であった。中学生の僕に羨望のまなざしを受けた彼等の中で、僕が特に憧れた選手がいる。彼は箱根駅伝往路の最大の見せ場である山登り(5区)のスペシャリストと呼ばれていた。真ん中分けのさらさらヘアをなびかせながら、そこが坂であることに気付いていないかのように、颯爽と山を駆け登り、他の大学の選手を次々と抜き去った。5区は、その過酷なコースゆえに、ゴールをした各校の選手は道路に倒れこみ、チームメイトに抱えられて自校の陣地へ運ばれることも多い。しかし、僕が憧れていた大東文化大学の奈良選手は何人もの選手を抜き去り、区間最高記録をたたき出したにもかかわらず、ゴールしたあとも誰の力も借りずとも軽快に歩き、笑みさえ浮かべながらインタビューに答えるのであった。この格好良さたるや、僕がこの文書をパソコンにうちこみながら、思い出し涙がこぼれ落ちるほど強烈に記憶に残っていて、とにかくドウショモウモナくかっこよかったのである。中学生時代の僕は、家のテレビでその映像を見ながら、将来は大東文化大学に入って、ライトグリーンとオレンジのユニフォームに身をまとい箱根駅伝の5区を走ることを夢見ていたのであった。
その後、陸上をやめてしまった僕は、箱根駅伝を目指すこともなくなったが、今年の正月は、人生初、東京で過ごす。東京でしか見られないもののひとつに、生の箱根駅伝が真っ先に頭に浮かんだ。僕はそれがどうしても見てみたかった。元旦の夜を妻の実家でお世話になった僕らは、2日の早朝に家をでて箱根駅伝のコースへむかったが、準備にもたついたせいで、応援しようと目論んでいた「札の辻交差点」についた頃には、選手はそこを通過してしまっていた。でもどうしても、生の選手を見たい。僕らは車で、そのまま、コースの第二京浜を南下し選手を追う。選手たちが走っているらしきあたりの上空には、2機のヘリが飛んでいて、沿道には応援を終えた人々が帰路についていた。箱根駅伝の残り香は確かにある。基本的には、最下位のチームの後は白バイが封鎖し、一般車は伴走ができないようになっているので、なかなか追い付けなかったが、スタートの大手町から20数キロ離れた「鶴見中継所」付近で隙をついて選手に追い付くことができた。屋根を開けた車で最下位の拓殖大学から、首位の東海大学まですべての大学をゆっくりと追い抜きながら選手に声援を送った。(通常、一般車がランナーの横にくることは少ないので、声をかけると驚いた選手達と目が合った。)途中でパトカーから「一般車は伴走しないで下さい」と怒られながらも念願がかなった。その後、先回りをして車を止めてから、沿道からも声援を送った。実況が聞こえない分、ただの駅伝大会風だったのも否めないが、当日の沿道の雰囲気や、見なれた有名校のユニフォームを見れただけで僕はご満悦である。ちなみに、この後は皇居の一般参賀に参加して、陛下に旗を振った。旗ばっかり振った1日であった。そして、旗を振るほうではなく振られるほうになろうと、今年以降の目標を定めたのであった。
山梨学院大学の黒人ランナーずるいじゃんとか言わない。
彼等だって血のにじむような練習をしているんです。
ちなみに今年の彼は12人抜きしてましたけどね。