3月27日 土曜日 風の歌を聴け


 「風の歌を聴け」。村上春樹の処女作であるその小説を本棚から引っ張り出して家を出た。ちょうど一年前のこの日にも、同じ本を読み返したのを思い出したからだった。今日は実家がある福岡に帰り、僕と妻と僕の両親とで、先週に済ませた入籍の報告がてら、夜に食事会をすることになっていた。妻は航空会社で客室乗務員をやっていて、土曜日の今日はたまたま福岡へのフライトがある。彼女が働いているところを見たこともないので、彼女が乗務する便に乗って勇姿を拝もうというわけである。空港に出勤する妻と一緒に朝の7時ごろには家を出て、羽田空港へ向かう。僕が朝、もたもたしたせいで妻はご立腹のようだった。羽田空港へ到着してモノレールを降りると、彼女は仕事の準備のため、いそいそと空港オフィスの奥のほうへ消えていった。僕はというと、羽田空港のベンチに座って、出発までの2時間、ポケットに入っている文庫本の「風の歌を聴け」を読むのみである。

 この小説を、僕に薦めてくれた人は、この本のことが大好きで、もう何十回と読み返したといっていた。その当時の僕は確か23歳で、本を薦めてくれた人も23歳だった。それまで、あまり本を読んだ事がなかった僕は、薦められるままに「風の歌を聴け」を借りて読んだ。故郷の町を出て大学に通う主人公「僕」が夏休みの間、自分の町にもどり、そこで友人の「鼠」とビールを飲みながらいろんなことを語りつづけていたひと夏を懐古するという内容なのだけど、実験的で革新的な構成になっていることもあり、はじめて読んだ時の印象は、なんだか支離滅裂で読みにくい本だと思ったぐらいであった。しかしその後、何度か読みなおしていくたびに、毎回違う印象を受けるようになる。結局のところ、この小説には無駄なところがないのだ。無駄がないとは、ひとつひとつのセンテンスに明らかな意図がきちんと存在しているということだ。それを直接的に語るのではなく、あらゆるメタファーを用いて、会話や物語が成り立っているのである。もちろんすべての小説はそうなのだけど、いま僕が語っているのは濃度の問題である。

 この小説の中には「真実なんてどこにもありはしない」と書いてあるし、それはそうだと思うけど、この小説には真実のかけらのようなものが凝縮されていて、それはまた、ものすごく切ないのだ。小説全体に漂うノスタルジーがそれに輪をかけていると思うのだけど、それは1980年に書かれたこの小説のもつ、実質的時代からくるノスタルジーではなく、もっと根本的な絶対的な心象のノスタルジーなのである。今と昔の間に流れる川があって、そのどっちも現実なのだけど、あい入れない差がある。どちらかに属して生きていかなくてはいけないのだけど、そんなことすぐには決められない。モラトリアムのなか、いろんな人や事や物が自分の周りでめぐっていた頃を思い出すのだ。そういった意味で言うと、初めてこの本を読んだ時の僕には、迷いや悩みや選択肢のようなものがなかったのかもしれない。僕は、川の存在にさえ気付いていなかったのだ。

 そんなことを考えていたら、妻から肩をたたかれて機内後方部へ連れていかれた。今、すでに僕は空の上にいて、いつのまにか僕の乗っている飛行機は福岡に到着しそうになっていた。後方部は、他の客からは見えない作業スペースになっていて、飲み物や紙コップがセットされている重機がたくさんあった。妻の後輩の子がいて、その子が「写真を撮ってあげますよ」と嬉しそうに言った。これは客室乗務員が夫や彼をはじめて自分の飛行機に乗せた時の儀式やイベントのようなものだ。そのせいか他の客室乗務員が次々と僕を見に来た。僕はカメラを彼女に渡して妻と記念写真を撮った。見世物のお役も終わった僕は、彼女の同僚の皆さんに一通りの挨拶を済ませた後、席に戻り、本の中に戻った。その後、飛行機はすぐに着陸体制に入った。故郷の町には不思議な空気の匂いがあると思っている。それは明らかに東京とも他の町とも違う匂いだ。「風の歌を聴け」を読んでいると、不思議とその匂いがするのだ。僕が今日この本を手に取ったのは、その匂いとか昔の自分と、今の自分を結んでくれる気がしたからかもしれない。この本を紹介してくれた23歳の彼と擬似的に再会し、自分も23歳の時に擬似的に戻るのだ。小説の中の「僕」が夏休みを終え、故郷の町から東京の大学に戻るラストシーンを迎える頃、反対に僕は故郷の町に到着した。ロックンロール。なんだか物語でも始まりそうな気がした、土曜日の朝。

夜に福岡城跡で花見をしたら、たくさんの大学生たちが楽しそうにお酒を飲んでいた。

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