2月14日 土曜日 さよなら戸越
はじめてこの町に降り立った4年前の2月。その日、僕は新しく入社する会社から紹介された不動産屋さんと一緒で、町には大雪が降っていたのを覚えている。そんな寒い日の夕方、東急池上線・戸越銀座駅の改札を出た僕らの目の前には、右を向いても、左に向いても、どこまでも続いていそうな、長い長い商店街が、ひたすらまっすぐ、果てしなく伸びていた。人であふれかえった商店街には、魚屋さんや、八百屋さんや、お肉やさんがあって、洋食屋や、中華料理屋や、お寿司屋があり、金物屋や、傘屋や、履物屋があった。どの店も、昔から当然のようにそこにあり、ひとつひとつの軒先に、僕の知らない物語が宿っているような、そんな佇まいをしている。町の人々はみんな、両手に買い物袋を下げて歩いていた。大型量販店でもないのに、生活に必要なものが全部揃いそうなこの街に溢れる活気は、100mごとに立っている看板に書かれた「好きですこの街 とごしぎんざ」の文字に説得力を与えていた。僕は駅を降りたばっかりで、まだ目的の部屋を見る前であったが、街の活気を目の当たりにし、こういう町に住んでみたいと思ったものだった。 「東京は人が住むとこやないよ」と、東京から福岡に戻ってきた人はよく言う。東京はそんなイメージであったが、こんなに生き生きした商店街は、もはやモータリゼーションのえじきとなった地方都市では、なかなか見られなくなってしまっている。そういう地方都市の新興住宅地に比べれば、ここの方が、はるかに人間らしい生活が送れそうであった。そして偶然ではあるが、僕が見た部屋の中で一番僕の条件に合う部屋は、結局この戸越で見つかったのだった。それ以来、僕にとって東京とは戸越のことであり、僕の本拠地であった。街には都営浅草線・戸越駅、東急池上線・戸越銀座駅、東急大井町線・戸越公園駅と3つの駅があり、どこに行くにも不便をしなかった。おいしいラーメン屋でも、おいしい寿司屋でも常連となった。会社から戸越に戻って、店の大将やママたちと、なんてない話をした。それは一人暮らしである僕が、人のいない部屋に戻る前のひとつのクッションとなり、僕を支えてくれているような気がしていた。クリーニング屋のおばちゃんは、汚れたYシャツをいつも奇麗にしてくれたし、はずれたボタンだってつけ直してくれた。酒屋の旦那は、いつも僕にだけ1円以下を切り捨ててお勘定をしてくれた。そんな住み慣れた街であったが、部屋の契約も2月19日で切れ、結婚を控えた僕は、もっと広い部屋が借りれるところに移ることになったのだった。
引っ越し当日の土曜日の朝。忙しくて、まともな引っ越し準備が出来ていなかったので、作業はなかなか大変だったが、2時間くらいで、本やCDで溢れていた僕の部屋はからっぽになって、そのかわりに、引っ越し屋の2tトラックの荷台がいっぱいになった。僕の部屋からは、愛着とかシステムとかこだわりとか意志とか生活感とか、そういうものをひっくるめて、何も無くなってしまって、そこは、あっという間に僕の部屋では無くなってしまった。まるで、ただの「箱」みたいだった。夕方に不動産屋が、僕の敷金で補う補修工事の計算をしにきて、その見積書と引き換えに、部屋の鍵を返す頃には、なんだか他人の部屋にいるような気がしてきた。見積書を見たら、預けている敷金とぴったり同じくらいの額だったが、面倒くさいので文句も言わず部屋を後にした。僕の部屋は空っぽになってしまったけど、部屋を出た後に通った戸越の街はいつも通りであった。寿司屋やラーメン屋の大将も、たぶんこのままだし、カレー屋のマスターも、酒屋の旦那も、クリーニング屋のおばちゃんも、ずっとここにいることだし、また暇を見て遊びにこようと思う。実は、僕が来た4年前にくらべても、戸越の街並はけっこう変わってしまった。もともと、ここに根ざしていた店が無くなって行き、巨大資本に支えられた、チェーン店が増えてきている。ある程度はしょうがないことだけど、ずっと後になって僕がまたこの街に来た時に、この4年間の僕のゆかりの店が、そこにあり続けることを願いながら、僕は新居へ向かうのだった。