2月7日 土曜日 戸越のラストウィークエンド 土曜日篇


 土曜日の朝。引越しを1週間後に控えて、僕は部屋の荷物をダンボールに詰めていた。昼飯時に、いらなくなった本をまとめて古本屋で売ったら1360円になったので、僕はそのお金を握り締めて、お気に入りのカレー屋さんに向かった。ここのカレーライスはなにも考えずに食べると、うっかり見過ごしそうなのだけど、よく味わって食べるとひとつひとつが、丁寧に作られていることがわかる。そんな良いカレーライスを出す店だ。その丁寧に作られた550円のポークカレーは、寡黙なマスターによって、寡黙かつ丁寧な手つきで作られ、まるで天皇陛下に差し出すかのように厳かに僕の前に置かれる。ジューシーで分厚いポークが入ったこのポークカレーも、引っ越してしまうと気軽に食べられなくなる。本当に寂しい。しかし気軽に来られなくなるこの店ではあるが、だからといって僕はポークカレーの食べ修めに来たわけではない。

 この店のメニューは550円のポークカレーを筆頭に800円くらいまでの定食が、ラインナップなのだけど、その中に僕が4年間、手がつけられなかった唯一のメニューがある。「上ポークロースカツライス:1450円」。安くておいしいカレーライスがメインの、この街の洋食屋で1450円ですよ。いったいどんなものが出てくるか興味はあるが、頼む勇気もなく4年の月日が流れてしまっていた。僕はそれを食べに来たのだ。僕がこの街でやり残した、ささやかな夢なのである。さきほど古本屋で調達した1360円を後ろ盾に、僕は満を持してマスターに注文をする。緊張の一瞬だ。「上ポークロースカツライス」。すると、無口なマスターはハトが鉄砲を食らったような顔をしたあと、「時間、かかるけどいいかな?」と照れくさそうに応えた。僕が4年間通い詰めた、この店「桐島屋」で寡黙ななマスターから聞いた「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」以外のはじめての言葉だった。「でも、一時間とかじゃないよね?」「いや、20分くらいだけど。大丈夫?」「大丈夫です」。

 上ポークロースカツライスは、普通よりかなり厚めに切られて、こんがりと揚げられたカツにデミグラスソースがかけられていてうまかった。量が多く、結局食べきれなかったが、夢は果たされた。閉店の2時頃に行ったので、給食を食べきれない小学生のように、店には僕だけになってしまっていた。僕はマスターに、引っ越しをしてもうなかなかこられなくなることと、このささやかな夢のことを話すと、笑っていた。「なかなか出ないんだよね。高いからねぇ」。このカレー屋は、この場所でもう20年もやっているとのことだった。20年前のオープン以来変わっていないであろう、年季の入った店内の雰囲気も僕のお気に入りの理由のひとつだった。この店がオープンした頃は、マスターも僕と同じくらいの歳だったのだ。そう考えるとなんだか不思議な気がした。「戸越に来たら、また来ますね」と僕が言うと、マスターは「当分はこのままだから」と言った。なんだか嬉しかった。

あなたを食べるのが夢でした。上ポークロースカツライス。

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