クミコハウス / 素樹文生


「クミコハウス」というのは、インドのバナラシにある日本人宿の名前である。日本人宿というのは、世界各国に自然発生した、日本人旅行者が集まる宿のこと。いままで、いろんな国を旅行したけれど、日本人は本当にどこにでもいる。だから観光立国に生きる人々は、日本人旅行者をターゲットに商売をして銭を稼ぐわけだ。ターゲットを絞ることで、他との差別化を図り、狙いどおりの客を効率良く引き寄せる。日本人宿はそんな銭稼ぎの最たるものだ。日本人宿は、たいてい日本語が達者な現地の人が経営していて、旅人が残していった日本語の文庫本の本棚があり、泊まった人がいろんな旅の情報を書き残して行く情報ノートがある。そこは日本人同士の情報交換の場であり、いろんなリスクに神経をすり減らすバックパッカー達が、ひとまずの安心を得られる空間というわけだ。

 日本人宿については賛否両論で、圧倒的な安全性や日本語が確実に通じる安心感がある一方、せっかく外国にきているのに、なんでわざわざ日本人が集まるところにいかなきゃいかんのだ、という意見もある。僕はどちらかというと後者だけれど、ガイドブックには載っていない旅行者ならではの生の情報というのもあるのも事実。一概に毛嫌いする必要はなかろうとも思う。かくして僕もインドのバナラシに行ったときに、クミコハウスをのぞいてみた。ガイドブックには「インド人と結婚した久美子という名の日本人女性が経営する日本人宿」といったような説明がしてあった。そう、日本人が経営者なのである。そういった意味で、このクミコハウスは特殊であり、その特殊性ゆえ、あまりに有名過ぎて、半分観光地のようにもなっている。日本人宿消極派の僕も「ちょっと覗いてみるか」と、立ち寄ってみる気になったというわけであった。結局のところ、部屋は一室空いてはいたものの、有名店ならではの、こっちが「お世話になります」といわなければいけないような、妙な空気が気に食わず、クミコハウスに泊まる案は却下したのだった。

 そんなクミコハウスを題名に掲げるこの本は「素樹文生」という若い作家の(若いっつーても、俺より年上だが・・・)、アジア横断旅行記である。正確に言うと、アジア横断旅行中に起こったエピソードをネタにしたショートエッセイ集。彼は「上海の西、デリーの東」という(明らかに村上春樹の「国境の東 太陽の西」を真似てるよね)題名の、まさにアジア横断旅行記でデビューした。もともと広告代理店や出版社に勤めていた彼は、会社を辞めてアジア横断の旅に出る。その時に綴った旅行記が、とある編集者の目にでもとまり「上海の西 デリーの東」を出版。僕は古本屋で、題名に惹かれて偶然に彼の本を手に取るのである。そして、この「クミコハウス」は、その「上海の西 デニーの東」のサイドストーリーのようなつくりになっている。彼の文章は、いい意味でも悪い意味でも素人っぽい。彼の文章を読んでいると、僕でも書けるんじゃないか(いや、たぶん書けないんだけど)って思うくらいの文章。だけど、それは下手くそとか、そういうことではなくって、例えばクラスのとなりの席の奴が、本を出すっていうんでいつもよりがんばって、表現も工夫して書きました!的親しみやすさなのである。どのショートエッセイも、バックパッカーに必ず心当たりがあるような、良くある出来事が話の種になっている。本当に良くある話ばかり。しばらくそんな旅行から遠ざかっている僕は、この本を読んでまた旅情が掻き立てられたのであった。そんなよくある話を、彼はとても上手に、読みやすくまとめている。特に、そのなかに物乞いの子供の話があって、今回はそれにまつわる話を紹介してみようと思う。

 アジアでなくても、貧しい国を旅行していると、表情のない目で物乞いが寄って来て手を差し出す。そのなかにも子供も多く、国によっては相当しつこくついてくる。彼等の表情の薄さや、必死さを見ていると、本当に心が痛む。同じ年頃の日本人の子供で、あんな表情をしている子なんてそうそう見ることはない。しかし、貧しい国では大人から子供まで、そういった光のない目をしながら、生き続けている人たちが悲しいことにたくさんいる。そうはいっても、彼等にそうしょっちゅう金やモノを渡すことはない。渡すといっても、日本円でいうと5円とか10円とか、そんなものなのだけど、それでもその旅行中に会う全ての物乞いに金を渡し続けるわけにはいかないし、もし、あなたが、その誰かに金を渡そうものなら、それを目にした他の物乞いが殺到し大変な目に遭うことになる。中途半端な気持ちで、施しを与えるとちょっと痛い目に遭う、なんていうのもバックパッカーに共通の経験なのだ。

 この「クミコハウス」でも、そんな物乞いにまつわる話がある。ヤンゴンでしつこくついてくる女の子がいて、例の如く、そんなに簡単に金やモノを渡すわけにもいかないので、相当のあいだ無視を決め込んでいたのだけど、あまりにしつこいので、とある悪趣味な思いつきをして、それを実行したというものである。その悪趣味な思いつきとは、その女の子が自分についてくる間に、必ず立ち止まり見上げる黄色いワンピース(あきらかにそれを欲しがっている)があって、それを突如買い与えるというモノである。そのワンピースは日本円で2000円弱程度なのだけど、この国の平均月収の半分にあたるという。いわんや、物乞いの女の子の家(家があるかどうかも分からないけど)の収入から考えれば、ものすごい額のものを突如買い与えられたということになる。ワンピースを買って「はいよ」と渡すと、女の子は目を白黒させて、何が起こったか分からないという顔をしていたという。状況の意味を解した彼女は、無表情の顔から一転、素敵な笑顔を一瞬見せてその場を立ち去る。後日、作者は当然ものすごい数の物乞いの子供に囲まれることになるのだけど。

 実は僕も同じようなことをしたことがある。それは、クミコハウスがあるインドのバナラシでのこと。宿の客引きをやって小遣いを稼いでいる10歳くらいの少年がいて、その子が街で僕を見つける度にしつこくついて来ては、コーラを買ってくれだの、時計を買ってくれだの、ここでズボンを買えだの、僕の写真を撮ってくれだの、しつこく付きまとってくる。しかし、彼が他の物乞いの子供たちと違ったのは、圧倒的に愛想がよく、可愛げがあったということである。最初は無視をしていたのだけど、その愛想の良さに負けて、僕は数日間、彼と行動を共にした。コーラを買ってやったりした。彼はコーラを手にするなり、いきなりイッキ飲みをして炭酸に驚き、周りにコーラをぶちまけたりしていた。コーラを飲んだことがなかったようだった。そして最後の日に、それまで撮った写真が今すぐ見たいから、今すぐ現像に出せと言い出した彼のために、36枚撮りのフィルムを1本分使って、彼を撮影した。彼は36回分試行を凝らしていろんな珍妙なポーズをとった。その光景はなかなか愉快で、今でもその時のことをよく思い出す。一緒に現像に出しにいった。彼は自分の写真など持つはずもなく、36枚の写真を手にしてご満悦だった。もう1年前の話だけど、彼は今どうしていて、あの写真はどうなっているのかなぁ、なんてよく思い出す。

 それは僕個人の話だけど、この「クミコハウス」には、アジアの一人旅にまつわる、いろんな話が多彩な写真とともに掲載されている。手軽に読めて、ちょっとした旅行気分に浸れるいい本だった。

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