おかしなふたり 連載141〜150

第141回(2003.1.20.)
「ハァ?」
 紅い唇を歪めて言う花嫁。
 それはそうだろう。まさかそんな反応が返ってくるなんて思いもよらなかったのだ。
 確かに噂では聞いたことがある。出稼ぎで都心のタクシー会社に勤めている地方のドライバーの中にはタクシーの運転手の最大の職能であるはずの地理の認識能力を著しく欠くものがいる、と。酷いときにはお客に道案内をさせる上、地元にたったひとつしか無いタクシー会社で競争にさらされずにやってきたので客に対する“サービス”の経験が無く、タメ口、命令口調当たり前の横柄な運転手が横行している、と。
 ごく普通・・・って今はそうじゃない気もするが・・・の高校生である歩(あゆみ)はタクシーを個人で利用した事など経験が無い。だからこんなことを言われる心構えが全く出来ていなかった。
「あ、あの・・・」
 花嫁は混乱した。
 どうしていいか分からなくなったのだ。
 頼りにして飛び込んだタクシーに“道が分かりません”と言われて一体どうしろというのか?
「ちょっと・・・道聞いていいですか?」
 そういって携帯電話に手を伸ばす。
「あ、はい」
 この可愛い声が憎たらしいが、とにかくそう答える。
 タクシーの運転手は見たところ二十台前半、入社直後というのは嘘ではなさそうだ。その彼が助手席に乗せてあった大きな地図帳を広げながら携帯電話のボタンを押している。
 な、何でもいいから早くしてくれぇ!
 花嫁は祈っていた。


第142回(2003.1.21.)

 何でもいいから一秒でも早くここを離れてくれ!
 という言葉が喉まで出かかったが、止めておいた。
 何しろ周囲は芋を洗うような車の群れがびっしりと根を張って全く動かないのである。
 この東京のど真ん中・・・じゃなくてこの辺はもう神奈川か・・・で、急行も止まる大きな駅を出たタクシー乗り場のある道路が一車線しか無いってのは一体どういうことなのか?
 当たり前だが、タクシーってのは構造的に言えば普通の乗用車と全く変わりが無い。つまい、四方八方の窓から中身が見放題ということになる!
 勢いあちこちを見回してしまうことになる純白のウェディングドレス姿の歩(あゆみ)。
 これまでに経験したことのない「ドレスで座る」というこの行為。
 ドレスの内側のつるつるの生地がしゅるしゅるに滑って一体どこに腰を落ち着けていい物やらよく分からない。その上脚全体がざらざらのストッキングに覆われているのでその感触のコントラストが・・・。
「あ、もしもし俺だけど・・・」
 車内に甘いお化粧の香りが充満する。
 決して悪い匂いでは無い。だが、それは一歩間違えれば授業参観のおばさんたちが発散させている匂いと同じでもあった。
 そして、こればかりは実際に着てみなければ分からなかったことだが、ドレスというのはこれまた独特の匂いがあるのだ。形容が難しいのだが、カニカマボコみたいな匂いというか・・・。誤解を承知で言えば“イカ臭い”のである。
 後部座席をたった1人で占領するかの様な膨大な量のスカートを操りつづける歩(あゆみ)。
 この姿勢では、どうしても“自分の身体を見下ろす”ことが多くなってしまう。
 そして、スカートの海の中からぽかん、と飛び出た上半身の付け根が目に入る。
 きゅうっ!と引き締まったその腰・・・。
 ドキッ!とした。
 自分の身体なのにドキッ!とした。


第143回(2003.1.22.)
 な、何て綺麗なんだろう・・・。
 反射的にそう思ってしまった。
 し、仕方が無いじゃないか!今の身体はこんなんでも、心は男なんだからな!
 きゅうっ!と引き締まった腰、そこに入っている皺の光沢がなんとも美しい。そして上半身を包み込むドレスの表面の刺繍・・・。解放気味の胸元には胸の谷間が・・・。
 ガクン、と車が動き始める。
 やった、・・・やっと・・・。
 ふと見ると携帯電話で話し終わったらしい運転手がハンドルを握っている。
 信号が変わったのだろう。
 とにかく、電車の中で結婚式状態からは逃れることが出来たみたいだった。
 一瞬だけ駅の方角を振り返る。
 そこには“タクシーに乗る花嫁”を一目見ようと多くの観衆が覗き込んでいたのだった。
 イヤリングをちりり、と鳴らして反対側の道も見る。
 そこも同じだった。
 学校帰りの学生や、昼日中から繁華街をうろついているおばちゃんなどがみんな振り返っている。・・・って、あれうちの制服じゃないか?
 漸く車が少し加速する。
 亀が歩くよりも遅い段階では着いて来た観衆も、逆にこの混雑具合が災いして次第に取り残されて行く。
 十数メートル進んだ。
 歩(あゆみ)からは当然ながら四方八方の窓を通して外界の様子が分かる。
 だがそれは、外からも同じ様に見えるということだった。
 実際には走る車の中の乗客を、街行く人々がどれほど注意を持って見ているか知れた物では無い。だが、それはごく普通の格好をしている場合である。純白のウェディングドレスなど、これ以上目立つ衣装もあるまい。
 歩(あゆみ)にとっては看板を掲げながら走っているも同じだった。
 座席にうずくまろうとも思ったのだが殆ど意味が無さそうだったので辞めた。
 全身に視線という針が突き刺さるような思いで一刻も早く自宅に着いてくれることを願った。


第144回(2003.1.23.)
 漸く2車線にさしかかる。
 この辺まで来るとやっと「ワン・オブ・ゼム」になった気がして来る。
 意味は無いんだけどじっと下を向いた。ウェディングヴェールも同じく垂れ下がる。
 何だか現実味が無い。
 この見下ろしている純白の生地の洪水は現実なんだろうか?
 タクシーの車内独特の匂いがする。運転席の白いカバーとつるつるの手袋が擦れる。
 ・・・さっきから全然進まないな。
 顔を上げた。
 また一車線の道に突入していた。
 まあ、歩(あゆみ)の住んでいるあたりは典型的な住宅街なので、どうしてもこうした寂しい感じになる。しかし巨大なアパートなんかに住んでいなくて本当によかった・・・。この格好で階段を駆け上るとかエレベーターで5階に帰るとか考えられ無いし。
 し、信号だ・・・。
 そう、タクシーは信号で停止していたのだ。
 車というのは一見便利な様だが、しょっちゅう停止を繰り返すものなのである。もう全身で実感していた。
 メーターを見る。
 すぐそばの窓に貼り付けてある「初乗り」は660円とあるが、1,000円も半ばを越えている。

 回りを見回すと、それほど人通りが多くないところまでやってきていた。普段使わないルートを通っているので自宅にどれ位近いのか分かりにくいが、雰囲気的に近寄ってきているのは分かった。
「〜ですよね」
 運転手が確認を求めてきた。


第145回(2003.1.24.)
「あ、はい。そうです」
「〜のどの辺ですか?」
 まっとうな質問である。そんな町名だけで自宅までたどり着ける訳が無いのだ。
「近くに来たら案内しますから」
 だからこの高い声が嫌なんだよ〜、と思ったが仕方が無い。今は肉体的には女になってしまっているのだから。この風体で男の声が出る方が不自然だろう。
 実に生活感のある街並みに差し掛かっていた。
 そこらじゅうに平屋の民家が建ち並んでいる。
 下手をするとタクシーすら不釣合いになりかねない。ということはそんな所にウェディングドレスが似合うはずも無かった。
 コンビニの角を曲がる。
 あのコンビニなんて、駐車場なんて全く無い。まるきり道に面している。まさに地元住民のためのお店に違いなかった。
 ああ、コンビニ行きたい・・・。
 ごく普通の男子校生の心根が漏れる。
 だが、こんな披露宴姿で行けるはずも無い。そもそもカバン自体が消滅しているのだ。
 カバンも、財布も・・・あの中身どうなったのかなあ・・・。
 車内でスカートめくり上げて探索したけど見当たらなかったし・・・でもあそこにあった可能性は決してゼロじゃないしなあ・・・。
 タクシーは何だか森みたいな所にさしかかりつつあった。
 いや、正確には道の脇に森みたいな木が沢山生い茂っている場所である。
 神奈川県というのは中途半端にあちこちに自然が残っている。
 30度はあるのでは無いかと思える坂をパワーを振り絞って登り、車内まで暗くなる。
 “一体どこに連れて行かれるのか?”という気分になる。
 だが、タクシーは確実に歩(あゆみ)の自宅に向かっていたのだった。


第146回(2003.1.25.)
 
駅にして3〜4ほどだっただろうか。
 それほど手前から電車を飛び出したことになる。
 自分の住む傍にこんな場所があったなんて知らなかった。
 歩(あゆみ)は今の自分の姿にも構わず外を眺めてしまう。
 人通りが殆ど無いことも後押しになっただろう。
 ほんの少しだけ日が傾いてくる。時間にすれば3時を越える位だろう。こんな時間に学校が終わるのもテスト期間ならではである。
「どちらから・・・です?」
 遂に運転手から質問が漏れた。
「いやその・・・」
 確かに聞き辛かっただろう。
 電車の駅に隣接したタクシー乗り場に純白のウェディングドレスで飛び込んできたのである。まともな理由では無いだろう。
 普通の女性はウェディングドレスでは電車には乗るまい。というか街中に出てくることも無いだろう。
 式場から逃げ出してきたのかそれとも・・・。運転手の方にしてみれば聞きたくてたまらないだろうが、正面きって聞き辛いことこの上ない。
「あ、いいです」
 気を遣ってくれた。いい人だ。
 やっと見覚えのある地形が見えてくる。
 花嫁は身を乗り出した。
「そこを左に曲がってください」
 聞きなれない自分の声で指示する。
 指差すその指先にまでぴっちりと純白の手袋が覆っているのが思い出される。
 運転手の顔写真と名前が描かれているプレートが目に入る。「山口 賢」とあった。
「はい、左ですね」
 助手席に乗っている雑誌がするり、と乱れる。
 そこには誌名ははっきりと分からないが、黒光りするモデルガンが表紙に踊っている雑誌があった。そういう趣味なのだろう。
 そうか・・・今って“男と女”なんだ・・・。
 やっと歩(あゆみ)は理解した。何しろ今の今まで男同士の積りだったからである。
 この珍妙なお客にこの人はどう思っているんだろう・・・。複雑な気分だった。
 自宅が見えてきた。


第147回(2003.1.26.)
 
ああ、やっとこの苦行から解放される・・・。
 長かった。ここまで来るのが長かった・・・。
 ここまで来てしまうとこれまでのことが懐かしく思い出されたり・・・するか!
「あ、ここです」
 遂に正面に乗り付ける。
 ここからがまた大変なのである。
 この短い瞬間の中で、さまざまな計算がヴェールに包まれたその頭の中を駆け巡る。
 大変だけどもとにかくスカートを全部抱き上げてうちの中に入る。
 ウチの中に誰かいるかも知れないけど・・・とにかく聡(さとり)の部屋の中に篭城するんだ。
 帰ってきさえすればなんとかなる。そうでもなきゃ・・・、聡(さとり)の携帯番号を無理矢理暗記して・・・家の壁に家族全員の携帯番号の一覧表があるのだ。みんな携帯に記憶させているから番号そのものは覚えていないので・・・そして電話を借りて連絡を取る。
 うちの母親は先日聡(さとり)にセーラー服姿にされていた時にもこちらを聡(さとり)と見間違えたのである。まさかトレーンを引きずって入ってきた花嫁が息子だとは思うまい。
 ・・・いや、だからと言って自宅に突然花嫁が突入してきた現実が変わる訳じゃ無いんだけどね。
 遂に停車した。
 ウェディングドレス姿の歩は、若干口紅のついた一万円札を純白の手袋でつまみあげた。
 メーターは2,000円の半ばを指している。
 しかし歩(あゆみ)の心は決まっていた。


第148回(2003.1.27.)
 
もしもここでお釣りを受け取ったとしてもまともにうちの中にまで持ち込めるはずも無い。何しろ自分のスカートすら満足に全て持つことが出来ないのである。
 移動することすら困難な衣装というのもどうかという気がするが、別に日常生活での動きの快適性を求めてデザインされた衣装などでは名インド絵ある。一生に一度の晴れ舞台で身に纏う為の、飾りなのである。
 ポケットの類もあるはずが無く、お札だけならともかく小銭については絶望的というしかない。
 ここはすっぱり諦めるに限る。
「2,640円です」
「じゃあこれ」
 一万円札を差し出す花嫁。
 タクシーの中のウェディングドレスというだけで相当に異常だが、花嫁が一万円札を差し出すというのもそうそう見られた光景でも無いだろう。
 ドアが開いた。
 まずは身体の中心をもっと外に出さないと。
 大量のスカートの生地をお尻の下に敷いたまま、ずるっずるっと重心を外のドアに向かってずらす。
 身体の中心部は動いてもそれに付随したスカートまでは中々ついて来てくれない。これは下手をすると、身体を一回転させてもスカートの縁は全く動かないのではないだろうか。それほどの量である。
「じゃあ・・・」
 といって手元の小さな計算機をパチパチやっている運転手さん。
「あ、いいです」
「えっ!?」
 少々驚く。そりゃそうだろう。額面の3倍近いおつりである。
「いいですから」
 タクシーの四方に解放された窓から自分の今の姿が丸見えだった。
 トレーンの塊を踏みながら何度もハイヒールのウェディングシューズが脱げそうになる。
 それにも負けず、とりあえず何とか片足を車外の地面にこつり、と付けることが出来た。
 同時に大量のスカートが地面に流れ出す。


第149回(2003.1.28.)
 両足を、というか両方の靴を地面に上手く接地させるのに苦労するのだから全くウェディングドレスって奴は・・・。

 ともかく、なんとかドレスの裾を踏まないように地面に両足を下ろす。そして、漁師が地引網を引き上るかのごとくずるずるとスカートの束をまずは車内から出すことに全力を傾注した。
 操る方の手までがつるつるですべすべの手袋にびっちり覆われているので、“うなぎを掴むよう”であるが、なんとかかんとかスカートを全て車外に出す。
 スカートの量だけでもかなりのものなのだが、実は“しっぽ”にあたるトレーンという部分はスカートと一体という訳ではなくて別パーツを取り付けてあるのだった。長い長いスカートの裾だと思っていたのだけど実は違うのだね。
 一生使いそうに無いいらん知識ばかりついてしまう歩(あゆみ)だった。
 小耳に挟んだところでは「十二単」(じゅうにひとえ)は重さ十数キロに達するそうだけど、このウェディングドレスだって軽く数キロの重さはあるのではないか。
 かなり固めのパニエがスカートの腰の部分に入っていて、ゆるやかなカーブを描いてスカートを盛り上げる役割を果たしているのだが、それでも尚スカート全体の重さに引っ張られて腰の部分の生地が張り詰めている。
 少なくともさっきまで着ていた学生服の数倍以上の重さがあるのは明白だった。
「いいんですか?」
 若い運転手が聞いてくる。
「いいですいいです」
 今度はこのスカートを持ち上げなくてはならない。
 少しは慣れてきた手さばきでトレーンをくるくるっと丸めて背中側の腰の部分にある脱着ポイントから手前に持ってきて、スカートと一緒に持ち上げる。
 スカート自体の強度がパニエによって補強されているので、割と一体感がある。二箇所を持ち上げればその間の部分は自然と持ち上がる。


第150回(2003.1.29.)
「ありがとうございました!」

 また慣れない声が響く。
「大丈夫ですか?」
 普段なら見過ごすであろう状況だが、突然駅から飛び出してきたウェディングドレスに1万円札を放り出して慌てて降りて行く様子を見て心配になったのだろう。
 はたまたこれは他人の嫁を逃走させるのに荷担してしまったのではないか?との思いもある・・・のかも知れない。
 両手にドレスを抱き上げた状態でくるりと振り返る。
 まだ一部は地面をこすっているみたいだけど、構っていられない。
 見た所、幸い入り口の扉の鍵はかかっていないみたいだ。
「ありがとうございました!」
 最後に一言言って、返事も聞かずに駆け出す。
 おつりは、何かと親切にしてくれた運転手への感謝の意味もあった。
 今時珍しい一軒屋である城嶋邸に突進するウェディングドレス。
 背後でドアの閉まる音がした。その後のタクシーには振り返らなかった。
 つんのめる様なハイヒールが歩きにくい。
 少し階段を上がったところに玄関がある。
 もうこれはスカートから手を離して回すしか無い。
 もう誰かが通りかかったら言い訳のしようも何も無い。
 一般民家に侵入(?)しようとしている純白の花嫁だ。近所の噂確定である。
 幸いな事に近所に人の気配は感じられない。意図的に気にしないようにしているだけなのかも知れないが。
 右手のスカートを解放する。
 あっ!と思った。こちらはトレーンを抱えている側だったのだ。
 しゅるるるるっ!とトレーンが流れ落ちる。
 ええいままよ!
 左手にはヴーケがあるのだ。
 つるつる滑るので難しかったが何とかドアを開く。