お稽古夜明け前
幼い頃の私は、実に掴み所のない子供だった。近所には同じ歳の女の子が私の他に3人も住んでいたのに、
私は彼女たちとは全然遊ばず、外で男の子たちと秘密基地ゴッゴに明け暮れ、家の中では大人しく一人で
「お姫様絵」のラクガキを描いている毎日だった。別に女の子を遊ぶのが嫌だったわけじゃなくて、当時の私は
本当に彼女たちの存在を知らなかった。世の中子供は男の子と私だけ〜!みたいな思い込みしてたわけで。
私自身も男の子かも?なんて錯覚してたかも?てくらいに女の子とは無縁な生活を送ってた。
強制的に女の子と遊ばせようと母も思わなかったので、私は好き勝手させてもらってた。一人っ子の私はマイペースを
絵に描いたような子供で、1人で空想したり自分で考えた物語の挿絵を描いたりして静かに大人しく遊べる子供だった。
思ってみれば私の妄想好きは先天的なものだな。物心ついた頃から気持ちの半分は現実世界になかった気がする。
1人で遊べる子供、むしろ、1人が好きな子供だったから、一人っ子でもちっとも寂しくなかったし、母が仕事の関係で他所様に私を預けるような場合も「ダダ」をこねたりせずに、
じっと彼女の帰りを待っていられる実に手のかからない大人しい子供だった。
父は教育関係の仕事をしているにも拘らず、自分の娘の教育には全くの無頓着で、私の教育は母親任せにされていた。
その母の方も、日中ダラダラ専業主婦しているので私が安心していると、突然仕事に出かける準備をしだす。
適当にお茶とお花の先生をしていた母は、週何回か教室へ出向いていたので、その場合は当時まだ幼稚園前の私はご近所の
ある家に預けられていた。
子供心に覚えているのだが、その家のおばさんが、
「○○さん(母の本名)も可哀想な事するねぇ。こんな小さな子を置いて仕事に出かけるなんてねぇ・・・。」と、
私の頭を撫でながら言っていた。
それを聞いても私が全然寂しくなかったのは、とても不自然な事なのだけど、それが生れ持った性格だから自然な事でも
あったわけだ。
このように外では遊びたい放題、家の中では妄想したい放題で、文字通り野放しに育てられていたので、
お稽古なんて全く無縁な幼年時代だった。もちろん、当時はイマドキと事情が違って、入園前にお稽古
している子供も希少だったと思うけど。
チントンシャン♪
5歳になる歳に近所の保育園に入れられた私は、そこでも本当に大人しい子供だった。
受け持ちの保母さんが「ナギちゃんはもう少し自分を出せるといいんだけど・・・。」と、母親にいつも
言っていたらしい。幼い頃の子供たちは精神的成長の幅が広く、所謂「早生まれ」は損だとか、女の子の方が
「おませ」さんだとか言われる事がよくある。私の通っていた保育園でも当然おませなリーダー的女の子がいて、友達
関係を仕切って支配していた。私は早生まれでもないし、背丈もどちらかと言うと高い方なのだけど、
本来の性格が「晩生」だったので、いつもリーダーの言うなりに動く都合のいい家来の一人だった。
私自身はそんな毎日に関しては、全然不満もなく静かに日々を送っていた。だって保育園から帰れば、そこには
大好きな1人の世界が待っている。テーブルの上でラクガキをしたり、折り紙を折ったりしているだけで、私は
幸せだったから。
そんな私の毎日を歯がゆく感じ始めた母は、入園前の放任主義とは打って変わって、突然の教育ママっぷりを
発揮し始めだした。以来、のんびり屋の私は母にムチ打たれながら血と汗と涙でお稽古道を極めて行く事に
なるのだけど・・・。話せば長いお稽古道だった。今だから語れる数々の体験話だけど、当時は辛くて、苦しくて、
涙が出ちゃう・・・女の子だもん・・・なんて調子の良いときだけ女の子になってたっけ。
何故、突然母は変わってしまったのか?
母自身が幼い頃から「花よ、蝶よ」と周りにチヤホヤされて育った
お嬢様だったので、その娘が「灰かぶり姫」である事に我慢ができなかったのだな、きっと。
何としてでも自分の娘は輝いてないと納得できないとの思いから、彼女は娘を磨く事に自分のイキガイを
感じ始めてきた。
他の子供と違う事をさせて目立たせようと思ったのか、まず彼女が選択した物は「お琴」だった。
今思えば、何故にお琴ってとても不思議だけど、そのあたりが母がちょっと的外れで抜けてるところだ。
母がお琴をどの程度弾けるのかは知らないが、何故か家の座敷の床の間には彼女のお琴が立てかけてあった。
運良くご近所にお琴の先生がいたので、わけもわからず私はそこへ弟子入りさせられたのだった。
その先生自身も所謂いいところのお嬢さんタイプだったので、ちょっと世間知らずなところが母と気が
合っていたのかも? なぜその人がお琴を勉強していたのかは未だに私は知らないけど、たぶん花嫁
修行の一つだったのかな?お茶やお花と同じようにお琴の免許もお見合いの釣書に書けるだろ?程度の
気持ちでやっていたのかもしれない。
幼い私は指に琴を弾くツメをはめさせられ、来る日も来る日もチントンシャンっと言われながら練習させられてた。
今でも覚えているのだけど、チントンシャンってピアノでいうところのドレミみたいなものだった。
練習なのに、時々和服を着せられたりしてた。あのまま琴を続けていたら私の人生違ってたかも?とふと思う。
琴に三味線に長唄に・・・今の私には絶対似合わない組み合わせなんだけど、もしあのまま続けてたらそれなりに
似合う女になってたかも?
同じ時期に、バレエ教室にも連れて行かれた。母自身が娘時代日本舞踊を習いたかったのに適わなかった
から、娘にはぜひ踊りを習わせたいと思ったらしい。日本舞踊とバレエじゃ全然違うと思うんだけど、
とにかく私は母に手を引かれ、当時としては珍しいバレエ教室の門を叩いた。
残念ながら母の目論見は見事にはずれた。私の体は木のように硬く踊る姿はピノキオみたいだったから。
はっきり言ってバレエの世界では通用しない体の硬さ!幼くしてこの硬さは何?と、母は呆れかえって
憐憫の眼差しで私を見つめた。
バレリーナは一抹の夢に終わったけど、琴の稽古は続いた。
本来大人しい子供だった私は文句ひとつ言わず、母の言うなり状態だったけど、ある日
突然母の方から突然の方向転換が・・・。
どうやらご近所で情報を集めた結果、自分がとんでもない時代錯誤なお稽古道を娘に歩かせていることに
気づいたらしい。
「お琴はやめにして、今からピアノをやりなさい!」
ご近所の同年齢の女の子が全員オルガンを習い始めていたらしい。近所にいっぱい生徒さんを集めて教えている
先生がいて、そこでオルガンを習いいずれはピアノに移っていくシステムらしかった。
私の近所の女の子が全員その先生に習い始めたと聞いた母は、焦って申し込みをしてきたらしいのだ。
その日から試練の日々が始まるなんて、のんびり屋の幼い私は夢にも思わなかったわけだが・・・。
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