「サトルが死んだ」
ソーホーの薄暗いパブの片隅で男たちが話をしている。
「πの人間ってのは、サトルのことだったのか」
「あぁ、そうみたいだ。スコットランド・ヤードのコネクションから連絡が来た時には正直、俺も驚いたよ。まさか教団の幹部が教団の計画を邪魔立てするようなまねをするとは」
「で、アックス。例のジャパニーズは予定通り動いたのか」
「いや、どうもうまくいかない。思い通りにはならないんだ。何かが波長を乱してるみたいだ」
「連れの男か」
「分からない。教授かもしれない」
「もし、教授なら」
「サトルと同じ運命だよ」
遠く離れたロンドンで男たちがそんな話をしていることなど、和美たちは知る由もない。長い沈黙が続く。隆次は再び教授に問い掛ける。
「教授、あなたは知っているんでしょう? 悟がここに来た本当の理由を」
教授は窓の外を眺めたまま、振り向こうとしない。
「教授!」
隆次は問う。
「なぜ、なぜ悟は…」
「隆次君、君が知りたいことは一体何だい? 和美さんのことかい? 悟君のことかい?」
「二人には切っても切れないつながりがある。違うんですか?」
「では聞こう。たとえば悟君のおばあさんに隠し子がいたとしよう。それを君が詮索することに何か意味があるのかい?」
「隠し子…」
「例え話だよ。だが、人の過去が君にとってどんな意味があるんだ」
「俺は和美に何が起こっているのか知りたくて…」
「君には無理だよ。今、君たちの周りで何が起きているのか理解することは不可能だ。相手が悟君だからこそ私は協力した。その悟君がいなくなった今となっては、もはや教団の計画にブレーキはきかない」
「教団の計画?」
「そう、教団の計画…」
電話が鳴った。教授が受話器をとる。短い会話の後、教授は驚きの声をあげる。
「悟君の遺体が消えた」
電話を切った教授は隆次と和美に向かってぼそりとつぶやいた。
「何者かが侵入した形跡はないらしい。忽然と消えてしまった、と」
「それって、一体どういうことなんですか」
その事実をどう受け止めていいのか分からず、戸惑いの表情を浮かべて和美が聞く。
「そんなこと、私に聞いても分からん」
教授は明らかにいらついていた。怒ったような口調で和美に答える。
「キリストか、あいつは」
教授が電話で聞いた話は、まるでキリストの復活を示唆するようなものだった。
同じ頃、同じ内容の電話がπのロンドン支部にもかかっていた。電話を切ったアックスはほくそえむ。
「さすがはマザーの末裔、ってところだな」
「どうした」
「スコットランド・ヤードからですよ。ドクター・ナガセ」
長瀬、と呼ばれた男は自分の知らない言葉に表情を曇らせる。
「スコットランドがどうした」
「いえ、スコットランド・ヤードってのはロンドン警視庁のことです。ドクター。教団の者が少なからず潜り込んでおりまして、それなりに情報が漏れてくるんですよ」
「それで、そのロンドン警視庁は何と?」
「ミスター・サトルの遺体が消えた、と。それもまるでキリストの復活を思わせるように」
「私はキリスト教について詳しくないので、よく分からんが、それは一体どういうことかね」
「監視付きの遺体安置所から忽然といなくなった。第三者が侵入した形跡はなく、目撃者もいない。まるで自らの足で歩いて出て行ったかのようだ、と」
「選ばれし者は再臨する、とでも言いたいのかね。あれがマザーの末裔だからなんだと言うんだ。まったく、これだから白人どもの考えていることは…」
「ドクター、お言葉を返すようですが、中尉の再臨計画はジャパニーズであるあなた方が考え出したこと。我々ロンドン支部は中尉の残した論文を忠実に再現できる場所を提供しているだけです。そして中尉はその論文を七三一部隊で書き上げた。私に言わせてみれば、日本人こそ何を考えているのか分からない人種です。それはともかく、サトル復活の件はπの誰かが仕組んだものでしょう。死んだ人間がよみがえるなど…」
再び電話が鳴る。アックスが受話器をとる。
「Hello, this is Ax speaking...」
そして受話器を取り落とす。
「どうしたんだね、一体」
長瀬がアックスの落とした受話器を拾い上げ、電話に出る。
「長瀬だが、どちらさんかね?」
受話器の向こうから若い男の声が響く。
「悟です」
「き、君は死んだはずでは…」
「あいにく、我が教団にはスコットランド・ヤードに少なからず信者を潜り込ませてあるので、一人の東洋人の死を偽装することなど、たやすいことなんですよ、教授」
「そ、それで一体何の用だ。死を偽装してまで何をするつもりだ」
「今、エジンバラ大学のマーティン・スチュアート教授のところに二人の日本人がいる。それを消していただきたいと思ってアックスに電話したんですが、アックスはどこに?」
「死んだはずの君の声を聞いて動転しているよ」
「そうですか。では長瀬教授、教授から伝えておいてください。スチュアート教授は現在、詳細については知らない様子だが、情報を探っているもようなので、注意が必要です。もはやπにとってあの人の存在は必要ない。そして、彼のもとにいる日本人の男女も、これ以上生かしておくと教団に害を及ぼす恐れがある。特に女の方は、記憶が戻らないうちに消してしまわなければ、取り返しのつかないことになりかねない」
「だが、あの永井和美とかいう女は貴重な実験材料だとアックスが…」
「実験は失敗だ、長瀬教授。あれは消す以外にない」
「失敗…」
「あぁ。どうも別の人格に支配されているようだ。もはや我々にコントロールすることは不可能と判断した。したがって、破棄する。これは私の決定だ。何者も逆らうことは許されない」
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