ベル・ハウス


2.101号室

 午後四時。里香がやっと眠ってくれた。
 しばらく寄り添ったままでいたが起きそうにもないので、香織はそっと里香のふとんから体をすべらせた。
 足音を立てずにそぅっと台所に立ち、お湯を沸かす。そして小さくて真っ白なティーポットを用意。茶碗も同じ真っ白なもの。一人暮しの時に近所の雑貨屋で買った安物だけど、香織にはとても大事なもの。
 今日の紅茶は……桃にしよう。
 缶を開けるだけでほのかな桃の香りが漂う。スプーンニ杯の茶葉を温めたティーポットに入れ、お湯を注ぐ。キルト生地のカバーをかけ、3分間。この時間が楽しい。その日の気分によって、その日の天気によって、その日の里香によって、その日のもろもろによって味は変わる。今日はどんな味になるのだろう。
 三分が経った。注ぐと白いティーカップに鮮やかな朱色が満ちてくる。半分くらい注いだところで、まずはストレートティー。
 ふぅ。今日の味は……ちょっと淋しい味がする。
 土曜日だというのに、夫の聡は出勤。気分転換に散歩に行こうにも、外は春のしとしと雨。里香は外に出れないものだから家の中を駆け回り、知ってるかぎりのいたずらをして、やっと眠ってくれた。ハイハイのころの方が、どんなに手がかからなかったか。
 家の中が静かなせいか、上の階の物音がかすかに響いてくる。
 上の部屋の住人は、二十五歳くらいのOL。朝は必ず七時半に出勤し、毎日残業して帰ってくる。九時や十時はあたりまえだ。あまり夜遊びが好きではないらしく、酔って帰ってくることはたまにしかない。
 香織はひそかに上の人が気になる。香織も、四年前まで同じように働いていたからだ。同じように一人暮しで。
 たまたまある年、友達とスキーに行った。そのとき友達が連れてきたのが聡だった。
 最初は別になんとも思っていなかったが、スキーの写真が出来たとかでもう一度みんなで集まった時、聡といろいろな話をした。それがきっかけだった。
 それまではひとりでいても楽しいことがたくさんあった。映画を見たり、ショッピングをしたり。ひとりでいるのがまったく苦痛ではなかったので、それなりに楽しんでいた。
 でも、聡といると、ひとりでいるときより楽しかった。だから、結婚したのだ。
 (でも、恋愛と結婚は違うのよねえ)
 恋愛はつねに楽しいこと、きれいなことのみを選び取ろうとしている。ところが結婚となると、そうはいかない。きれいなものも汚いものも、すべて分かち合うのだ。
 ニ杯目の紅茶はミルクを入れて。
 夫の聡は現在コンピューター関係の仕事をしている。仕事の中味は詳しく分からないが、忙しい時は毎日のように残業で、深夜十二時を軽く過ぎてしまう。そんな生活が続くと、家での彼は必要な言葉以外口にしない。
 「ごはん」「おふろ」「ねる」
 香織の話など、聞こうともしない。一度、来年の里香の幼稚園について話し掛けてみたが、「おまえがいいと思うようにしてくれればいいよ」で済まされてしまった。それ以来、相談なんてしようとも思わない。
 どうして? なんでわたしはひとりぼっちなの?
 春の雨のせいか、気分が暗くなっていくのが自分でもはっきりとわかった。
 夫がいなければ、子供がいなければ、わたしはもっと自由なのに。

 次の日は昨日と違い、とてもいい天気になった。
 「パパ、遊びに行こうよぉ」
 休みの日、聡は午前中いっぱい起きない。里香は聡が久しぶりに家にいるのに自分と遊んでくれないのが不満で、彼のふとんのまわりを走り回っている。
 「だめだよ里香、パパ、疲れてるんだから」
 たしなめると、里香はじーっと香織の顔を見た。
 「どうしたの? ママの顔になにかついてる?」
 里香は一人前に小難しい顔をしている。
 「どうしたのよ。おなか痛いの?」
 里香は小さく「それもある」と答えた。
 「どうしたのかしら?へんなもの食べたかなあ。昨日のごはんは……」
 「キョウコちゃんが言ってたとおりだ!!」
 いきなり里香が叫んだかと思うと、聡のふとんにもぐりこんだ。そしてふとんの中で寝惚けている聡相手になにやら話している。
 なんなのよ、もう。わたしはそっちのけって訳?
 香織はふてくされて、訳のわからないふたりは放っておき、台所で片付けを始めた。
 しばらくして、聡が起きてきた。珍しくすでに着替えている。
 「どうしたの?どこかでかけるの?」
 無意識に声が尖ってしまう。
 聡はなぜか目をそらしながら、
 「あのさー、今日おれ、一日里香のことみてるよ。たまにはさ、ひとりで映画でも観に行ってくれば?」
 「どうしたのよ、突然!?」
 香織はびっくりして手にした洗いかけのお皿を落してしまうところだった。まじまじと聡の顔をみる。里香が生まれてから今まで聡がそんなことを言ったことは一度もない。
 「どうしたって……別に、どうした訳でもないけどさ、たまにはいいじゃん?」
 視線を合わそうとしない。かといって、怒っているわけでもない。……そうだ、聡のこの表情は、照れているときのものだ。
 「……里香になにか言われたの?」
 「うーん、まあ、それもあるんだけどさ。おれ自身もいろいろ思うところあってさ」
 「どんなこと?」
 聡はますます照れてしまい、しどろもどろになってしまった。
 「どんなって、いろんなことだよ。いいじゃないか、べつに」
 ふふふ。香織は笑ってしまった。言葉がうまくでてこない聡は、結婚前もこうやってごまかしていたことを思い出して。
 ふと、心がやわらかくなった。
 「じゃあ、お言葉に甘えてもいい?」
 それを聞いて、聡は喜んだ。
 「いいよ、いいよ、行って来なよ!」

 さて、どうしよう。
 着る機会のなかなかなかったよそいきのベージュのワンピースにヒールの靴を履いて、
 「いってらっしゃーい!!」
 というふたりの声に見送られて家を出たものの、思いがけない休日を手にして、香織は迷った。
 考えていたことはたくさんある。大好きなジョージ・クルーニーが出ている「オーシャンズ11」も観たいし、昔一度行ったきりのガーデンプレイスにも行きたい。ちょっと足を伸ばしてすっかりきれいになったという横浜のみなとみらいにも行きたいし、多摩川のほとりでぼーっとしてるのもいい。
 「おやめずらしい、ひとりでお出かけかい?」
 ちょうど散歩から帰ってきたところの大家さんに声をかけられた。
 「ええ、パパと里香にお休みをもらっちゃって」
 「ほーっ、いいねえ! たまには気分転換も必要だよ」
 大家さんのやさしい声に見送られ、とりあえず駅の方に歩いていく。
 どこに行こうかなあ。
 なんとなく足は駅に向かう。いつも見慣れた風景。商店街への道。
 (あれ?)
 小林さんの家の前で、ふと足を止める。
 庭先の桜が、枝を道路まではみださせていた。昨日の雨がしずくを残しているが、花はすでに五分咲きだ。
 香織は振りかえった。
 両側につづく住宅街。しかし垣根が、緑が、花が、空気がすっかり春めいていた。
 香織は今までまったく気付いていなかった。里香といっしょの時は常に下を見ながら歩いているし、まずまわりを見渡すような余裕がない。いつのまにこんなに季節がかわったのだろう。
 香織はちょっと楽しくなった。
 さらに駅までの道を歩いていると、道端の菜の花を見つけてますます嬉しくなった。
 そうして駅前の商店街にたどり着いた。
 どうしようかなあ。
 香織はちょっと迷ったが、少し歩き疲れたので近くの喫茶店に入った。
 『カサブランカ』
 店の名前と同じく、内装にはハングリー・ボガードやイングリッド・バーグマンの絵が飾られている。
 (聡と昔ビデオで観たなあ)
 聡は出来すぎててつまらない、といった。香織も出来すぎてるとは思ったけれど、バーグマンの美しさに見惚れてしまった。「君の瞳に乾杯」この台詞もこの映画の中でなら自然すぎるほど自然だ。
 「いらっしゃいませ」
 店の主人がテーブルにグラスを置く。
 「今日はお子さんは一緒じゃないんですか?」
 聞かれて香織はびっくりした。この店に入るのは初めてのはずなのに。
 驚いた顔をしている香織を見て、ひげの主人はにこにこと笑った。
 「ここからはなんだって見えるんですよ。あんまり流行ってる店でもないですからね。
 ひまなときは外をぼーっと眺めているんで、おぼえちゃうんですよ」
 ああ、なるほど、そういうことか。
 香織はホットティーを注文し、ガラスの外の通りを眺めた。
 知っている人もいる。知らない人もいる。みんな、歩いたりなにか探したり、ときには大声をだしたりしている。帰りかけて買い忘れたものを思い出したのか、今きた道をもう一度戻って行くおばさんもいる。
 こんなふうにたったひとり、ゆっくりと時間をすごしたのはいつ以来だろう。
 香織はなにも考えず、ただただぼんやりと時間が経っていった……

 「ただいまー」
 「おかえりなさーい!」
 里香と聡の声が迎えてくれる。
 「ママ、ママ、どこいってきたの?」
 「うーん、ヒミツ」
 「ええー、教えてよー!」
 「いつかね。はい、おみやげ」
 桜色のクッキー。『カサブランカ』の季節商品だ。
 里香はさっそくおみやげにとりかかった。香織は聡をみた。聡も香織をみた。ふたり同時にふふふ、と笑った。
 「パパ、お願いがあるんだけど」
 ん? 聡は真正面から香織を見る。
 「また今度、お休みちょうだいね」
 アパート・ベルハウスの101号室の住人たちは、ほんの少しの淋しさとたくさんの幸せで成り立っている。
 

 

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