1. 202号室
遠くでサイレンが鳴っている。どこかで火事でも起こっているのだろうか。それにしては、ずいぶんと近いような気が……
飛び起きた。耳元で携帯電話が最大級の音量で鳴っている。慌てて電話に出ると、さらに大きなキョウコの声が響いた。
「ケンジ!? なにやってんのよ、今何時だと思ってるの!?」
「ん、今……あぁ!? 1時半」
「待ち合わせ何時だと思ってるの!! 12時よ、ジュウニジ!! わかってるの!」
そうだ。今日は久しぶりに映画を見にいく約束をしていたのだ。それなのにぼくは気分よく、今の今まで寝過ごしてしまったのだ。
とりあえず謝ろうと思い、
「ごめん、ほんと。悪い」
と神妙な声で言ったが、
「今日という今日は、絶対に許さないからね! もう帰る!!」
プ、ツーツーツー。切れた電話を手に、ぼくは布団の上で思いっきりうなだれた。
ああ、今度もこのせいで別れるのか。
ぼくがキョウコに出会ったのは、前の彼女に振られた直後である。
ぼくの前の彼女というのは、大学内でも目立つきれいな子だった。付き合う前からぼくはもちろん好きだったけど、その他大勢のひとりというだけで、特に告白もしなかった。彼女がぼくを選んだのだ。今もって、なんで彼女がぼくを選んだのか、よくわからない。
最後の日、ぼくは、一生懸命走っていた。どうしてこんなに人があふれているのだろう、渋谷の人混みの中を掻き分け掻き分け、肩にあたる人みんなにすみません、すみませんと謝りながら、ぼくはひた走った。
待ち合わせのHMVの前に、彼女はいた。いつも通り非のつけどころのないきれいな格好をして、ふわりとしたスカートを穿いていた。長いストレートの髪をひと房、指にまきつけて遊んでいる。
ぼくは彼女に近づいたとたん、思いっきり頭を下げた。
「ごめん、ほんとうにごめん」
彼女は別に怒っていないような口振りでこう言った。
「珍しいね、どうしたの? ケンジくんが遅刻するなんて」
ぼくは、正直に話した。じいちゃんが倒れたという連絡が家に入って、病院に寄って来たということ。とりあえず大事には至らなかったものの、しばらく入院することになったということ。君に連絡しようにも、すでに家を出た時間だったこと。(そのときはまだ携帯を持っていなかった)
彼女は長い髪をかきあげながら、黙って聞いていた。そして、最後に言った。
「どんな理由があっても、わたしを待たせるなんて許せないの」
そして彼女は立ち去っていった。
ぼくは唖然として彼女を見送るしかなかった。
何故だ? 正直に話したのに。たしかに連絡ができなかったのはぼくが悪かったけれど、たった一回の遅刻で恋人としてのぼくの存在が否定されてしまうのか? 就職試験じゃあるまいし。
怒るよりも嘆くよりも呆れてしまい、ぼんやりと彼女の去って行った方を見ながら、ぼくは壁に寄りかかっていた。
「あきれちゃうわね」
小さな声が隣から聞こえた。
振り向くと、ニットの帽子に革ジャン、リーバイスの背の低い女の子がいた。その子はぼくの方を見るでもなく、雑踏をぼんやりと見ながら、
「あたし、ああいう女の子、嫌い。なに様のつもりよ。ああいう子はね、自分中心に世界が回ってると思っているのよ」
ぼくは自分の彼女を見知らぬ女の子に頭から否定された。それにも関わらず、怒らなかった。正直言えば、ぼくもそう思うときがないわけではなかったからだ。ぼくはすぐに怒るたちではないけれど、気がつくと彼女に振りまわされていたような気がする。
「あんた、何分遅れたの?」
初対面の相手にあんた呼ばわりされてしまった。でもなんだか素っ気なく素朴に聞いてくるので、思わず答えてしまった。
「ぼく? 20分、かな」
「あたしの友達なんて、1時間が当たり前よ。約束の時間に家をでるんだから。一応毎回文句は言うわよ、彼女のためにも良くないし。でもね、許せちゃうのよね、なぜか」
ぼくはその女の子の話に惹かれて思わず聞いてしまった。
「なんで許せるの?」
その子は相変わらず雑踏を眺めながら、淡々と話した。
「だって、あたし、その子のこと、好きだから。遅刻はたしかに欠点だけど、それ以外に素敵なものをいっぱい見せてくれるから」
瞬間、ぼくは、なんでだろう、むっとした。
「友達って、男?」
そこではじめて、その子は正面からぼくを見た。ものすごく目の大きな女の子だった。その大きな目で、ぼくの目をじっと見た。
「…女の子、よ。あんたには関係ないでしょ?」
おおありだ。ぼくはそのとき、彼女に振られたばかりだというのに、目の前の女の子が好きになってしまったのだから。
それが、今の彼女、キョウコ。
キョウコはどこか変わっている。はっきりどことは言えないのだが、例えばぼくの(元)彼女にあった媚びがまったくない。男に対してだけではなく、女にも子供にもおとなにも媚びた態度を見せない。
こんなことがあった。
ぼくのアパートの1階には、三歳くらいの女の子がいる。キョウコによるとりかちゃんという名前らしいのだが、このふたりがまた仲良しで、気がつくとぼくを放っておいてふたりで遊んでいる。
このあいだなど、しばらくりかちゃんと遊んでいたかと思ったら、ぼくの部屋に戻ってきて、真顔で「りかちゃんのパパとママ、離婚するかもしれない」といきなり言った。
ぼくはびっくりして、
「りかちゃんが言ったのか? あんな小さな子にそんなことわかるわけないじゃないか」
するとキョウコは、こう言ったのだ。
「だって、ママのパパを見る眼が時々つめたいんだって。すぅっとするような眼でパパを見るんだって。りかちゃんはなんだかわからないけど、そういうときおなかがごろごろいいはじめちゃうの。子供って、知らないようで実はなんでも知ってるのよ」
こんなこともあった。
ぼくの大学はアパートから30分くらいのところにある。
その日実験が終わり校門を出たのは夜7時過ぎだった。
出たとたん、ぼくはだれかに体当たりされた。びっくりして声をあげると、泣きじゃくっているキョウコだった。
「どうしたんだよ、なに泣いてるんだよ」
キョウコは、うっ、うっとしゃくりあげ、なにか言おうとするのだがそれも言葉にならず、大きな目から次から次へと泉のように涙をあふれさせるのだった。
しかたなく彼女が落ち着くまで近くの喫茶店に入ることにした。
ウェイトレスの女の子が、(この男が彼女をふったのね)というような表情で見る。違うのになあ。しかし、疑われても仕方がないほど、キョウコは泣きつづけるのだった。
「それで? どうしたの?」
涙がようやくきれぎれになったころ、ぼくは訊ねた。
「ねこ、が」
「ネコ?」
「いなくなっちゃったの、ねこ」
「飼ってたっけ? ネコなんて」
ううん、とキョウコは頭をおおきく振る。
「駅に行く道のそばの、おうちのねこ。ねこ、…死んじゃったんだって」
そしてまたうわわわーっと涙があふれてくる。
どうして他人の家のネコなんかでそんなに大泣きできるのだ。
でもキョウコの泣き方は嫌いではない。あたしっていろんなことに感動してしまうたちなのよねえ、というふうに媚びてるわけではなく、悲しいから悲しい、だから泣く、というのがキョウコなのだ。
ぼくはそんな彼女を女の子だからというよりもたぶん人間的に好きなのだった。
とにかくキョウコは本気で怒ってしまった。彼女には(元)彼女に通用したような通常の手(たとえばプレゼントを買ってあげるとか)では許してもらえない。キョウコの気分次第なのだ。
いつまでも落ちこんでいてもしょうがない、と思いなおしたのは、それからしばらく経ってからだった。
ぼくは消えたデートの時間で、できるかぎりのことを始めた。
珍しくパジャマを洗い、布団も乾した。掃除機もかけたし、なんと床の水拭きまでした。二週間ほったらかしだった部屋の中が、生まれ変わったみたいにきれいになった。こういう仕事はとくに嫌いではない。
ひと段落して気がつくと、12月の小春日和。
散歩にでも行ってみるか。ふと思いついて外に出る。
外は風もなく、おだやかな天気だった。
なんだかこんな陽光の中で素直に謝ったら、彼女は許してくれるかもしれない。
そんなことを思いながら駅前の商店街までの道を歩いていると、向こう側から子供特有の甲高い声が聞こえてきた。
「それでね、りかちゃんはおもうのよ。ママはね、パパに自分のことみて欲しいだけなのよ」
「ふーん。それ、パパに言ったほうがいいよ。りかの考え、当ってるとあたしは思う」
キョウコとりかちゃんだった。
キョウコは正面から歩いてくるぼくに気付くと、
「やっと起きたの? ずいぶんと遅いお目覚めね」
ぼくはといえば、さっきまで怒り狂っていたキョウコがいきなり現れたので、うろたえてしまった。りかがぼくとキョウコをおもしろそうに交互に見ている。
「なんできたの?」
ようやくそれだけ言うと、キョウコはあっけらかんと答えた。
「怒って電車に乗ったらね、間違えてここに来る電車に乗っちゃったの。途中で降りてやろうと思ったんだけど、電車の中、ぽかぽかしててあったかいから寝ちゃって。で、天気もいいし、散歩しようと思ったら、そこの公園にりかとママがいたから一緒に帰ってきた」
「ママ、いないじゃないか」
「砂場にシャベル忘れて、取りに戻ったのよ。もうすぐ来るよ」
まったく怒っていないような口振りだった。ほっとして、ぼくは息をついた。
「でも、今日待ちぼうけ食わされたことは覚えてるぞ」
いきなりキョウコは怖い声をだし、ぼくを睨みつけた。
うろたえるぼくに、りかちゃんが言った。
「ちゃんとごめんなさい、しなさい!」
そうだ。こういう陽光の中では仮面はつけられない。
「ごめんなさい。二度としません」
キョウコはにっと笑って言った。
「二度と、は余計よ、先のことなんてわからないんだから。ま、今日の分は許してあげる。お陽さまとりかに感謝しなさい」
キョウコとりかちゃんは顔を見合わせてうんうん、と大きくうなずいている。
仲間に入れないぼく。でもまあいいか。この空間はぼくにはとても居心地がいいのだから。
アパート・ベルハウスの202号室の住人は、いつも通りノウテンキである。
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