「一章:楽園の島の青年」
1.
広大なるセクンドゥス大陸。其処はいくつかの国家の林立する大地であった。
西にあり大陸最大の強大な力を誇るはリンドヴルム帝国。
西南にはそれに抗するカルワリオ聖王国。
東に広がる草原の地を有するレラ・チセ地方。
北東に極寒の気候に生きるヘルシンキ皇国。
中原にフィーユドゥレイヴ地方都市郡。
レラ・チセより海を越えた彼方、異邦の文化圏、秋津。
以上の国家が、セクンドゥスにおける主な勢力として知られる。百十年前、大陸の全ては、魔の世界より現れた異形の魔物に支配されていた。
地は悲しみと怨嗟の声に満ち、嘆きの焔が天をも焦がす、余りにも暗き時代。
人が人であることが否定されるような、明日もをも知れぬ日々が続いていた。
それを打ち払ったのが、レラ・チセに育ち、大陸で二番目に古いリンドヴルム王家遠縁の血を引いていたリーンハルトである。
彼の名は最も新しい英雄として知られる。其の悲劇と共に。
魔物と其の王を倒した彼は、王の位を引き継ぎ、一度は滅んだリンドヴルムを再興した。
周囲には彼と共に戦った盟友たちの国があり、彼らの助けも受けつつ国は緩やかな再興を果たし、やがては大陸随一の国家にまで成長した。
平和な数十年の時代の後に、英雄王は早逝した愛妃との間に生まれた我が子に位を譲り、穏やかな余生を送るはずだった。けれどもそれは、彼の孫の一人によって奪われる。
どれ程立派な王、豊かな国であってもそれに不満を持つもの、或いは下克上を起こさんとするものが居ない訳ではない。
彼らを束ね、リーンハルトの次孫ゼルギウスは、兄たるハインリヒを父王の暗殺を企んだものとして刑死せしめ、
其のことに悲嘆し無気力となった父を傀儡に、リンドヴルムの変革を行い始めた。
王国を帝国へ、魔物の動きの活発化を理由とする明らかな軍事態勢の強化を行い。
其の事に反対を唱え、またハインリヒの子と妻を庇ったリーンハルトを、
かつての大戦で魔物の毒に犯されて狂った、帝国に仇なすものとして粛清したのを皮切りに、
体勢に反するものたちを次々と手にかける、恐怖の独裁政治を敷いて行った。
妹マクダレーナは、父の変わりようと兄と祖父を死に追いやったゼルギウスの所業に悲嘆して自決した。
周囲の国々は其の様子を危ぶんだが、予想に反し、急速な破滅には至らなかった。
けれども徐々に行われていく改革は止まることなく。
帝国となったリンドヴルムは、各国に緊張をもたらす、不気味な沈黙を守り続けた。
そして、十年。
リンドヴルムは隣国に牙を向く。フィーユドゥレイヴへの突然の出兵。
瞬く間に都市郡の半ば近くが帝国の支配下に置かれた。其れは波紋を呼ぶ。戦乱の時代の幕受け。
大陸を包む気風が次第に剣呑な色を含み始める中。
リンドヴルム西の海に浮かぶ、楽園の如き島。西海の宝珠と名高い中立地帯ノルアヴァ島。
この地より、物語は動き始める。
剣戟の音が聞こえる。馬が駆ける。砂塵が舞い上がる。
乾いた風は鉄錆びた血の匂い。朽ちていく無数の命。広がるのは屍の山。
怒号、悲鳴、嘆き、叫び。それら全て飲み込むような戦渦。
戦場。その中心にメルヒオルは立っていた。
彼自身の、柘榴石にも似た暗く濃い色の赤髪を、靡かせながら吹き抜ける風の匂い。
じっとりと白い肌を汗ばませる大気の熱さ。踏みしめた地面の長靴越しにもざらついた感触。
何もかも現実以外の何物でもないような、そんなあやふやでない確かさを持っている。
けれど、金と青の瞳に今映りこむ、この光景を彼は知らない。剣と鎧の重みも。血肉の感触も。こんなにも近く感じたことは無い。
メルヒオルのそんな困惑と裏腹に、彼の身体は其れが当たり前のことであるかのように、手にした剣を振るい進んでいく。
刃が一閃する毎に重い音を立てて倒れこむ敵兵たち。胸に沈むような感触も何も。其の全て、酷く鮮やかだ。駆けて行く先には人がいる。敵陣の只中。其の人物は異彩を放っていた。
ゆらりと熱風。肩までの雪のような髪が、相手の外套の裾が揺れる。其処にいたのは白い仮面に顔の上半分覆われた男だった。
顔の下半分は染み無き白い肌に皺ひとつもなく、微かに尖った滑らかなラインを描く輪郭を持つ。
まだ若い。だが、戦場にあって消えぬ存在感。服装から見ても、敵方の将なのであろう。
瞬きする間にも、メルヒオルの側らしい兵士たち、取り囲んだものたちが次々と打ち倒されていく。
仮面の将の周囲から吹き上がる、黒い、この世に在りえざる焔によって。
男が笑うのが見えた。それは空ろに、それは冷たく。何処か、さびしげに。
形のよい白い繊手がメルヒオルに向けられる。瞬間、死神の腕にも似た、凍える黒い炎が打ち下ろされた。
其の寸前、メルヒオルの身体は左に跳んでいる。そうして、次の一撃がくるより早くに剣を構え、相手の懐へと切り込む。
仮面の男のほうは、其れを見越していたのか。風変わりな得物が虚空から抜き放たれる。
それは鎌だ。死神や、処刑人の持つような。不吉な新月にも似た形状の。
相手の武器とメルヒオルの向けた刃とがかち合う刹那。景色が、移り変わる。
炎が広がる。紅く、赤く。激しく、烈しく。全てを焼き尽くすように。
揺らめく破壊の化身に、焼き出されているのは、他でも無いメルヒオルの故郷たる街だ。
大切なノルアヴァリス。海辺に作られた白い美しい町並み。今度は其処にメルヒオルは立っていた。
普段は穏やかな活気に賑わう都市。けれども其れが、無残にも打ち壊されていく。
軍靴の音が無粋にも全てを踏み砕き、見知らぬ兵たちが我が物顔で、民たちを屠ってゆく。
どうにかしたくて、駆け寄ろうにも身体が動かない。指一本、自由にならない。
其の上、他のものにはメルヒオルの姿は見えていないようだった。
今のメルヒオルはまるで幽霊のような、空気のような存在になっていた。
ただ、目の前で影絵芝居のように繰り返される惨たらしい光景を、見開いた瞳に映し続ける他は許されていない。胸が潰されてしまいそうに重苦しく、痛んだ。
其の痛みに裂けそうになりながらひとつの事思い出す。
世話になっている侯爵とその在り処は無事であるかと。
見上げた丘の上、華美ではないがそれでも歴史を感じさせる小さな城。
其処からも不吉な黒煙が上がっていた。
煙の存在を認識したとき、唐突に身体が動き出した。
メルヒオルの意思によってでなく、身体が勝手に駆けて行く。丘陵に在る城へと向かって。
慣れ親しんだ門。それも彼方此方崩れかけていて。悼む間もなく潜った先、入り口のホールに広がっていたのは。
目を覆いたくなる様な無残な光景だった。
太い柱は倒れ、華美すぎないがそれでも美しい調度品が砕かれて転がっている。
しかれた赤い絨毯は、元の色よりも尚暗い色に沈んでいる。
其の上に倒れ伏した何人もの、人間だったものからあふれ出す液体によって。
其の全てが知って居る人間であり、メルヒオルは目の前が真っ暗になりそうだった。
それでもふらふらと辺りを見回す。其のなかに、生きている人間は居ないかと。
探すうちに、彼は、見つけてしまった。部屋の中央に一人の少女が横たわっているのを。
メルヒオルが誰よりもよく知っている少女だった。いとしい、幼馴染。仄かな思いを寄せる相手。
先ず最初に目に入った白い手。虚ろに宙を映す菫色の瞳。広がる柔らかい空色の髪。
愛らしい面には何の表情も無く。壊れた人形のように、力なく床に仰向いて倒れた肢体。
其の全てが赤黒い、泥濘のような液体に塗れて沈んでいる。
生命を失い只の物体となった骸。それは既に残酷な死の翼が舞い降りたあとだ。
認めたくなくて駆け寄り、抱き上げた身体はカクリと力無く、少しずつ冷たくなり、戻らない体温を感じさせる。
抗いようも無い事実が胸に届く。言葉にならない、叫びが、喉から溢れそうになった其のとき。
意識は、白く砕けていく。周囲の情景が白い明るい闇の中に薄くなり。──そして。
「…ま、……さま。メルヒオルさまっ!」
自分の名前を呼ぶ声と何かの落下音、それから身体に走った衝撃に、メルヒオルは目を覚ました。
どうやら寝台の上から落ちたらしい。腰の辺りをぶつけたのか、鈍く痛んだ。
見慣れた天井。窓から入る明るい日の光に照らし出されるのは何時もの自分の部屋だ。
顔を上げれば、寝起きのかすむ視界の中に、あきれたような顔をしている黒髪の青年が目に入ってくる。
其の姿はよく見知ったものだ。物心付くより前からずっと、傍に居たのだから。
其れを確認し、やっと今が現実なのだとわかって、メルヒオルは安堵した。良かった。あれは夢だったのだと。
ぼうっとした頭でひらりと右手を挙げ、呆けたような笑顔を向ける。
「ああ、フォウ…おはよう」
「おはよう、ではありません。今、何時だと思っているのですか!
今日は大事な用があると、ノルアヴァ候に御呼ばれになっているのでしょう?
さあさ、早く寝間着をお脱ぎになって支度を済ませ、出かけなくては! 」
メルヒオルの挨拶への返答が此れだった。矢継ぎ早に小言が突き出される。
ともすれば少女のようにも見える、中性的で柔らかな印象の面、一重の聡明そうな深緑の瞳をフォウは持つ。
けれども今は、余程メルヒオルの呑気さに呆れ、怒り、同時に心配してもいるのだろう。
眉が寄せられ、眼差しは少し睨む様にも似て、険しい印象を与えた。「うん…ごめん。今着替えるよ……」
夢身が悪かった、等とは言い出せずに、只少し胸に重いものの引っ掛かるような感覚を覚えつつも、メルヒオルは寝間着を脱ぎ始めた。
元よりどちらかと言えば鷹揚なメルヒオルの動作は、フォウにとってはまだ寝ぼけているように移ったのか。
「全く、メルヒオルさまは、ほんとに僕が居ないと駄目なんですから」
そんな事を言いながら、てきぱきとメルヒオルの着替えを手伝い始めた。
おかげで確かに着替えは手早く済んだ。そう凝っては居ないが、質の良さを感じさせる青色の上着と白い下衣。そろそろ夏が近い為に服も随分と薄手のものだ。
最後に鏡の前に連れて行かれる。メルヒオルの髪は柔らかい毛質で、短いにもかかわらずすぐ酷い寝癖がついて絡まってしまう。
自分で整えても良いのだが、フォウの方がずっと上手いのは確かで、今朝も櫛を用意して器用に梳き始めた。
メルヒオルが座った目の前に在る鏡に映るのは、年の頃なら十七、八の青年の、寝起きでぼんやりとした顔だ。
黒に近いような濃赤色の短い髪に縁取られた面は、海辺のこの辺りでは白い方に分類されるだろう。
母譲りか、どちらかといえば線が細いほうなので、頼りなく見えるのが本人としては悩みの種だった。
そんな彼の造作の中で一際目を引くのは、その金と青の色違いの瞳だ。
少し常人と瞳孔の形の違う金眼は、メルヒオルの一族にしか現れないものだという。
竜の血筋。そう言われている。こうして、見ていると確かに変わった瞳だけれど、そう大層なものとはメルヒオルには思えずに居た。
「はい、終わりましたよ。これでよろしいですね? 」
そうこうしている内に、フォウは髪の手入れを終えてくれたらしい。
成る程、鏡に映る自分の髪形は寝癖のひとつもなく丁寧に整えられている。
「ああ、十二分だよ。ありがとう、フォウ」
「礼には及びません。この後はノルアヴァ候にお会いするのですから、きちんとした身支度をしなくては、メルヒオルさまが恥ずかしい目にあうのですから」
ぴ、と軽く指を立ててそう言い始めたフォウに小さく苦笑する。このままだとまたお説教が始まってしまいそうだ。
だから、メルヒオルは早々に椅子から立ち上がってフォウを促した。
「そうだな。それじゃあ、行こうか。アシベルさまがお待ちなのだろう? 」
「…あ。そうでした。これ以上お待たせするのは申し訳ないですからね」
促されればフォウは頷いた。そうして、二人で部屋を出て行く。
フォウと話したおかげか、気持ちはやわらいでいて、廊下に出た頃にはメルヒオルは半ば夢のことを忘れかけていた。けれども、夢は古来より未来を見通すとも言う。
何処かで引っ掛かるものがあるのを無理に押し込め、メルヒオルはアシベルからの話とは何なのだろうかと考えることにして、城の主の部屋までの道のりを歩いていった。