「序章 始まりの終わり」
夢を、見ていた。
それは、とても幸せな夢だ。
とてもとても、幸福な夢だ。
広がる国は豊かにやさしく、其処に生きる民は当たり前に泣き、笑い、愛して、ささやかな日々を生きていく。
大きな争いは無い。飢えも乾きも無い。明日を疑わなくていい。
昨日の次の今日、今日の次の明日、それが来ることを当たり前に想っていられる。
傍に居る人が、明日には居なくなっているかもしれない等と、喪失の不安を、想わなくていい。何十年も前、其れが叶うことだけ信じて戦った。
だが、結果はどうだ。今、目の前に広がる光景は。
黄昏の赤に染まる、何処までも荒涼と焼け焦げた大地に、累々と屍が横たわっている。
男も居る、女も居る。兵も居れば、そうでない者も居る。
笑って逝ったのか、怒りや悲しみ、諸々の苦しみ、浮かべて逝ったのか。
それすらも明らかでない程の、無残に傷つけられ、焼け焦げた死体たち。
未来を奪われたものたちの抜け殻。見渡す限りの荒野に、斜陽の光にたゆとうように散乱している。
其の中央に折れた剣を支えにして立つのは、老いたる王。
長く伸びた髪も髭も白く染まり、日に焼けた肌は皺が深く刻まれ、齢を重ねているものの、其の体躯は未だ弱々しくは無い。
厳しく強く、だが英明と優明を併せ持つ風貌をしていた。
外套も、鉄と銀で飾られた鎧も、元は高貴なものであったのだろう。しかし、今は色が判らなくなる程に泥濘と血に汚れている。
それでも尚侵されざるは、王が其の身に纏う真の高貴と威厳。
二度とこんな光景を見ない為に、かつて永い戦を戦い抜いた王は、金と黒の瞳を、深い皺を刻む口元を、苦渋の色に歪ませた。
彼はもう名目上は王ではない。暗き血に呑まれた孫の一人に城を追われ、守るべき家族は殺され、国土と地位は簒奪された。
だが、彼の心は、けして折れることの無い心根と、其の性根そのものは王のままだった。
だから、彼は王なのだ。今、この、滅びつつある国の。
名前だけは残るとも、受け継がれた本質を喪うであろう国の、最後の王なのだ。自分たちのしていた事は、全て無駄だったのか。
ただ、運命の上に踊ったにすぎなかったのだろうか。
否。
自らの考えを老王は否定する。
それでも残るものは、受け継がれるものはあるだろう。必ずある。
西の海、親友の一族の治める島へと逃がした曾孫は、何かを継いでくれるだろうか。
其の血の中にある光と闇を、思いを、願いを、知ってくれるだろうか。
今は只祈ることしか出来ない。最早、それしかできない。老王は余りにも傷つきすぎていた。大切なものを守るために、戦い、何本もの矢を受け、槍を、刃を其の身に刻まれた。
若き頃のままに身体は動かなかった。だが、それでも宿る心は喪われた日々に劣らぬ。
己の身に致命の傷を負いながらも、彼は差し向けられた軍勢を退け、曾孫と孫嫁、それから僅かな家臣を逃すことに成功した。
代価は、自らの命だった。冷たい死がひたひたと近づいてくることを感じても、老王は後悔していなかった。
守りたいものを少なくともひとつ守れたのだから。心残りは数多い。だが、笑って逝こう。
そうでなければ、先に逝ったものたちに、顔向けできない。
身体中が痛む。酷く、寒い。身体が、鎧が、重い。
立ったままに最後を迎えようと想っていた。だが、折れた剣がそれ以上王を支えられずに倒れたとき、王の身体もまた、朽ちた大地に沈んだ。
立ち上がろうと足掻こうにも、もう一歩も動けない。指の一本も自由にならない。
援軍が万が一にも来れば、自分の命のときが自然に尽きる其の前に、全ては終わるだろう。王は残された時間に、かつての友を想った。愛した妻を想った。共に歩んだ臣を、慕ってくれた民を。
喪われたもの、去っていったものたちを想った。
そして、最後に、故郷を想った。今は何処にいるとも知れぬ、彼の養父を想った。
身体は此処に朽ち、魂は愛した人たちの待つ悠久の死者の園に行くのだろう。
けれど、心は、この心だけはあの風の国に帰るのだ。
戦に勝利してから、結局一度とて踏むことのかなわなかったあの地。
幼き日、何も知らず幸福な日々をすごした。一番やわらかな時間とあたたかな思い出の降り積む場所。
この父祖の土地を故郷同然にいつくしんでもなお、心のどこかで唯一の帰る場所と定めていた。
殆ど利かない視界の中に、鮮やかにイメージが広がっていく。
広がる色彩は日向の金。果てない草原。吹き抜ける風の中を、駆け抜けていく。
金色に染まる草の海の果てで、微笑んで迎えてくれるのは、ただひとりの家族。
情景の中の自分は、王でもなく、曽祖父でもない、只の個人。ひとりの子供に帰って。
腕を広げて迎えてくれる家族に、身体ごと抱きつく。
「ただいま」
そう告げれば、養父はただ微笑んで抱きしめてくれる。
抱きとめてくれる腕は温かく、やさしくて、いとおしい。
かつては世界の全てにもひとしかった感覚に包み込まれる。「…………?」
王はひとつ瞳を瞬いた。幻想で無い、確かな感触を感じて。
崩折れた王を抱き上げるのは白い繊手だ。生まれてこの方、荒事も家事も一度もしたことの無いような、うつくしい手。
王は大きく瞳を瞬く。其の手を、覚えていた。それは遠い昔、自らを慈しんでくれたものの手だった。
掠れる視界を懸命に結んで、老いた王は手の主を見上げる。
自分を覗き込んでいる、青みがかった銀の眼差しと目が合った。王の血塗れの顔に落ちかかる長いやわらかな髪は銀真珠の光輝。
どちらも稀有な宝玉のような、この世にまたとない色合い。王は他に、こんなにも綺麗な色彩の持ち主を知らない。
ただひとり、自分を育ててくれた、半神の養い親を除いては。
男とも女とも付かない、人にはありえぬ玲瓏たる面。髪の狭間から除く長く尖った耳は不老不死たる古代妖精の証。
白と蒼が貴重の詩人の装い。百年近い昔からけして変わらぬ容貌に、王は微笑みを向けた。
曇りの無い、子供のような表情。最大級の親情と朽ちることの無い敬愛を込めて。
こうして、王が詩人に会うのは、あの長い長い戦の最後、古の魔王を討ち取って以来のことだ。
懐かしく、嬉しく、死を前にして尚語りたいことがたくさんあった。
けれどもう、殆ど残されていない時間に、王はただ思ったままの言の葉を口にした。
「…父上さま…来て、下さったのですか」
切れ切れに零した声に、美しき詩人は、清らなる声音に、哀しみとも笑みとも憤りとも付かぬ複雑な彩りを乗せて、言葉を返す。
「馬鹿な子ですね。どうして、私を呼ばなかったのです。
呼んでいれば、貴方がこうして命数尽きることもなかったのに」
「呼んで、いたならば、私は…もう、二度と貴方と見えることがなかったでしょう……。
それだけは、……嫌だったのです。私の…存在に賭けても」
「ほんとうに馬鹿な子。それでもね、わたしはあなたを愛していますよ。ただ一人の、わたしの子。
貴方の最後の願いを聞き届けましょう。其れが、わたしからの餞です。あなたが、安らかに眠れるように」
王の応えに、詩人の静かな表情が微か、動いた。それは泣き笑いのような顔。
そうして、やわらかく相手の血塗れの髪と顔を拭ってやりながら、詩人は問いかける。
死に行くものの末期の祈りを、願いを聞き届ける。それもまた、この詩人の役割であるのだろう。だが、願いと、そう言われても、咄嗟には思いつかない。
心残りは余りに多くて、其の全てをかなえることなどいくらこの人でも出来ないと思うから。
会いに来てくれた。会いに来てほしかった。そのことを思うとそれだけでとても満たされる。
彼の人に看取ってもらう。それは願っていたことだったので。
けれど、同時に申し訳なくも思う。この人はまたひとりになるのだ。
幾度こうして、彼は英雄たちの生と死を見つめ、見取り、送ったのだろう。
大陸の歴史を知り、これからもまた見、語り継いでいく詩人。
それは久遠長久に。不老不死たる半神としてただ一人この地に残った彼に与えられた使命。
永遠は途方も無い。百年そこらしか生きていない王は痛感する。其の孤独は、想像も出来ないほどの痛みだ。
乱れる呼吸の中、一息をついて、そして、王は意を決めた。詩人に願った。
「…では、貴方に任せたい。私の曾孫の行く末を、私の朋友の子らの進む先を。
かつて貴方が私を導いてくれたように。選択までの水先を、勤めて頂きたい。其の先にある未来を見届けてください。
──それが、私の願いです」
きちんと余すことなく聞き取ってもらえるように、荒ぐ呼気を整えて言った。
そんな事をしなくとも、養父は聞いてくれたろうけれど。
王の願いに、詩人は青銀色の瞳を伏せるようにして、静かに頷いた。
すこし俯くように、表情を隠すように。それは、養い子の願いと、其れと共にある気遣いを感じたからだ。
王は自分の気にかける子供たち、そのものたちとあることが、すこしでも詩人の孤独を癒せばいいとそうも思っていた。
きっと、それは無為にはならない。どちらの為にもなるだろうと。
「それから、もうひとつだけ……許されますか?」
「何でしょうか、…私に出来ることなら」
それから王は、つと思いついたようにもうひとつだけ囁いた。其れは詩人にしか聞こえぬひそやかな声。風すらも行方を知らぬ秘められた願い。
届いた思いに、詩人は一瞬、動きを止めて一筋、涙を零して泣いた。そして、幾度も頷いて相手の祈りを受け入れた。
「…ありがとう、ございます。父上さま…名残は、付きませぬが…どうやら…時間、の、ようです……」
詩人の応えに王は満足そうな表情を浮かべる。もう、恐くない。自分の死は絶望ではないから。
継がれていくものがあることは確かで、そして、この人が生きていてくれる。それだけで、良かった。
「…おやすみなさい…、……」
昔のように、お休みの口付け落とし、王の名前を呼んで、詩人は最後の吐息吐き出す王を看取った。
幸せなぬくもりの中で、眠るように、目を閉じた王は、そのまま二度と動かなくなる。
英雄と呼ばれた老王は、最後に夢見た帰る場所でその長い、波乱に満ちた生涯を終えた。「覚えていましょう。永遠に近い時間、わたしの命の、在る限り。
語り継ぎましょう。全て、すべてを。あなたの物語を、これから紡がれる物語を。それが、忘れ去られ砂塵に埋もれぬように」
其れは約束。其れは祝詞。祈りであり、幾度も繰り返してきた儀式でも在る。
地平線の向こう沈み行く赤光の下で、詩人は死屍たる王に誓った。
しばし、詩人は王の躯を抱き、名残を惜しんで其の汚れと血とを拭っていたが、やがて悼みを終えて、立ち上がる。
詩人は王を、否、王の冠という鎖を解かれた、養い子の亡骸を抱き、小さく古い呪いを唱えた。
其の身体を白い光が包む。其れは道となり、彼らを遠い地に運ぶだろう。
それは養い子が口にしなかった願いを叶えてやる為に。
このような、血生臭い戦場でなく、彼の愛したあの風の国に、帰してやる為に。
そうして、詩人は光の中に去っていった。
詩人の去り際溢れた清浄な光は、やがて荒れ果てた戦場を満たしていった。其処にある屍山血河を癒すように。
光が消えればあとはただ、死者も生者も無い、乾いた大地を風が撫ぜるように吹き抜けるだけの静けさが残った。
黄昏は去り、夜が来る。まるでこの先の時代を包む闇の、先触れであるかのように深く、暗く。偉大なる英雄、老いたる王の死。
それはひとつの物語の終焉。新たな物語の始まり。
物語が動き出すのは、十年後。
老王が死んだ王国を、はるかに離れた西の海。其処に浮かぶ小さな島から。
亡き英雄と其の血脈、思いを受け継ぐものによって、紡がれる。