どれ程前からだろう。
世界を悲しい空気がずっとずっと包んでいた。
焼き尽くされて荒れ果てていく世界。魔物が闊歩して安全なところなんて殆どない、世界。
遠い噂に聞くところには。
曰く、幾つもの国が滅んだという。
曰く、多くの人々が殺されたという。
其れは全て、「星呑の銀」、「背徳の煌銀」とそう怖れられる、ひとりの人によって為された事だとも。
けれど、今日も明日もその先も、僕には変わらず。
少しずつ枯れつつある深い森の小さな小屋で無為に暮らしていた。
大切だった家族は既に無く、喪うものはもうなくて。
ただ、命か世界かどちらかが終わるまではそうして過ごして行くんだと想っていた。
──あの人に、会うまでは。
7th Moon
僕の名前は、スィニエーク、という。
この世界に存在する二つの種族、ドラゴニアと人間との混血。所謂ハーフだ。
ミーティアでは、ハーフは忌み子だと言われている。
よく想われることは殆ど無くて、大抵生まれて直ぐ、下手したら生まれる前に殺されてしまう。
生き残っても酷い迫害にあうか、道具扱いされて生きるしかない。
僕もずっとそう、だった。名前も無くて、ずうっと人の間を点々としていた。
ある時、怪我と病気で死に掛けて捨てられた僕は、ひとりのプリエステスに拾ってもらった。
桜色の髪と紅水晶の瞳が印象的な、眼鏡をかけた女の人。
それがリピスお姉さん。僕の、家族になってくれた人。
明るいさっぱりした人だった。ハーフだとか気にならないって笑ってくれた。
彼女は名前をくれて、自分のすんでいる人里はなれた小屋に連れて行ってくれた。
怪我と病気の治るまで、昔話をしながら横にいてくれた。
リピスお姉さんは、昔に家族をなくしたらしい。お母さんと、お母さんが再婚するはずだった人。それから義理のお兄さん。
お母さんの再婚する相手のひとはドラゴニアだったらしい。リピスお姉さんの故郷はブレイジアで、だから。
其れがばれてしまって三人とも殺されてしまったのだそうだ。リピスお姉さんだけを残して。
一人ぼっちはさびしい、とお姉さんは其処まではなしたあと、すこしだけ寂しそうに微笑んだ。
それから、怪我と病の治るころ。いくところがないなら、此処にいてくれる?と、そうお姉さんは僕に問いかけた。
初めてかけられた言葉はやさしい呪文だった。否、なんてなくて。
何も無かった僕は、その日からお姉さんの弟になった。
しあわせ、だった。お姉さんと暮らした一年はとても穏やかで、幸福な時間だった。
リピスお姉さんは、色々なことを教えてくれた。言葉。生きていくための方法。知識。家事。
それから日常の些細なこと、喜びや笑顔や、たくさんの物語と歌を。
ずっと、いられると想った。僕とお姉さんでは寿命が違うから、何時かはきっと分かれることになると、知っていたけれど。
それはまだ、ずっと先のことだと想っていた。
──なのに。ある日、終わってしまった。唐突に、優しい時間は。
この辺りは人の気配も無くて、静かだった。ずっと。
だけれど、ある日に魔物が出た。凶悪な魔物だった。
お姉さんはその魔物に殺された。でも、半分は僕のせいだ。僕を、庇ったから。
魔物は何とかお姉さんが倒してくれた。だけれど、傷が酷くて、血もいっぱい出て。
僕は血の力で治そうと想った。ハーフの血にはふしぎな力がある。
それは、瀕死のもの──魂を賭せば死者さえ癒せる奇跡の力だ。
でも、お姉さんは其れは駄目だと止めた。自分はもう助からないから、其れをしたら貴方が死んでしまうから、と。
それでも、よかった。僕は、よかった。お姉さんが助けられるなら。
この体が光になって消えてしまっても良かった。それくらい、お姉さんは大事な、家族だった。
その気持ちを言いながら手首を切った僕に、お姉さんはやさしい微笑みを浮かべて、力を使った。
お姉さんはプリエステスには珍しい、月魔法の使い手だった。
使った力は転移の其れ。紫の輝きは僕を家から遠いところに飛ばした。
其処から死に物狂いで帰ってきたときには、お姉さんはもう、つめたく、なっていた。
もう物も言わなくなってしまった亡骸を抱き締めて、僕はたくさん、泣いた。
お姉さんの最後の言葉が無かったら、多分、その時に反魂していたと想う。
お姉さんの最後の言葉は、「生きてね。そうしたらきっとまた長い時間の果てに会えるから」。
強い、優しい思いを、踏み躙れなかった。お姉さんはたくさん僕を愛してくれた。
それに未だ全然お返しできてなかった。そんなお姉さんの最後の願い。それを裏切ることができなかった。
お姉さんのことは家の裏に埋めた。大事に大事に土を盛った。
それから、毎日花をお供えしてる。お姉さんはにぎやかなのが好きだったから。
あれから半年たつ。僕はまだ、生きていた。
なんにも、見出せるものの無いまま。お姉さんの残した小さな家を護りながら、生きていた。
家の近くで死体を見えることが増えた。今までは人を見ることすらまれだったのに。
魔物も、前よりずっと増えたみたいだった。世界を酷く悲しい気配が包んでいた。
ゆっくり、終わっていくような気配がしていた。
それでも外や人と殆ど関わることのない僕の時間は変わらなかった。
さびしい、といったら嘘になるだろう。でも、何処に行っても多分生きていけないだろう。
人の多いところ、それに荒れた世界では、ハーフとばれたらどういう目に合うかなんて解らないから。
家の傍にある小さな畑の世話をして、偶に狩りをし、木の実や茸を採る。
朝、日の昇るころに起きて、家事をすませ、日が落ちてお月さまが昇るころには眠りに就く。
森も枯れつつあるみたいだったけれど、まだひとりで食べていくのに困ることは無かった。
お姉さんの残してくれたたくわえもあったから。ただ、ひとつだけ困るのは花が見つかり難くなった事くらいだった。
そんなある日のことだった。
僕の家の近くには川が流れている。其処に水汲みに出かけたときのこと。
随分と遠くに上流を持つその川は、複雑な流れからいろんなものを川上から運んでくる。
変わったものとか、珍しいもの。稀に綺麗なものとか。──ただ、近頃多いのは、ひと。
物言わない、冷たく冷え切ったヒトガタ。つまりは、死体だ。
人の、死体。剣、だろうか。それで殺されたのだろう、恐ろしい程、綺麗な傷口。
苦痛に歪んだ表情の骸は、切り傷や突き傷が刻まれていることが多かった。
水で洗われて血が殆ど無いのが幸いだった。多分そうなっていたら見るたび取り乱していたと想う。
赤い液体に塗れて死んだ、お姉さんのこと、思い出してしまうから。
一度、多分近くから流されてきたのだろう、血塗れの遺体を見つけたときだけはどうしても耐えられなくて、吐いて、しまった。
それでも、その時も含めて、野ざらしにもしておけないから、見つけるたび、川上まで引き上げて埋めた。
お姉さんに昔教えてもらった方法で、女神さまに、安らかに眠れますように、と、お祈りして。
そんな風にしていたものだから、何時の間にか川の近くはちいさな墓地みたいになっている。
偶にお花を持って行く。近頃は探すのが大変だから、随分と寂しいことになっているけれど。それでもないよりはましだろうと。
今日も墓地の横を抜けて川に下りて行った。行きは軽い。桶に水が未だ入っていないから当たり前だけれど。
帰りは大抵水の重さだけでなく、足が重い。死体を見ることが多かったから。
前は半月に一度──それでも十分酷いのだけれど──だったのが、少しずつ増えて、酷いときでは毎日だったりしたから。
近頃は以前よりはすこし落ちついたようだったけれど。
今日の空は曇り空だ。重く垂れ込めた灰色の空。こんな空模様が長く続いている気もする。
雨が降ってくるかもしれない。泣いているみたいで雨はすこし悲しい。
そうなる前にと川べりに近付いた時、僅かに耳に届くような音。声じゃない。想い、だろうか?
ひどく、空っぽの音だった。さびしい、悲しい音。泣きたくなるような。
何処からするのかとその音の源探すように彷徨わせた、僕のぼんやりした視界に、酷く珍しい色彩が飛び込んできた。
一瞬、息を呑んだ。流されてきたのだろうか。川辺に留まっていたのは、天に輝くお月さまの色彩だった。
──言葉で表すのが難しいくらいの、とても綺麗な、銀色。
僕の目はあまり良くない。両目とも、昔たくさん殴られた所為で弱い視力しか持っていない。
だんだん悪くなってきているのもわかっている。遠くなく光を失うかもしれない。
それは怖くないといったら嘘になるけれど今は未だ其処まで不自由なかった。
ただ、あまり綺麗なものとか遠くからではわかりづらいのが哀しかったけれど。
そんなぼやけた目でもわかる。映った色彩がひどく綺麗なものだということが。それくらいの、珍しい、惹き付けられるいろ。
さっきの、虚ろにかなしい音はその色彩のあるほうからだった。
桶も思わず放り出して、駆け寄る。そして、益々驚いた。
その色彩は、綺麗な銀は。其処に流されてきた人の長い髪の色だった。
其処に倒れていたのは、流されてきたのは、未だ若い男の人だった。
人が流れてくることはさっき行ったみたいにたくさんあった。皆口を利かないものになってしまっていたけれど。
僕を驚かせたのは、その人がまだ生きていたからだ。生きている人が流れてきたのは初めてだった。
その人に意識はなかったけれど、目が悪い分僕の耳は鋭いほうで、酷く細い息が零れているのをその人の青褪めた唇から感じた。
生きているのが不思議なくらいの酷い怪我。ボロボロに傷ついた身体。川の水が冷たかったからか、出血はだいぶ抑えられているようだけれど。
開いたままの傷口は生々しく、凝り固まった血が彼方此方にこびりついていて、僕はひどくうろたえた。
それでも助けたい、と想った。目の前で死ぬ人は見たくなかった。
今までの人は助けるどころじゃなかったけれど、この人は未だ、生きている。
水の魔法、僕が使える唯一のそれで癒しを降らせてから、僕よりずっと大きい、その人の体をがんばって背負い上げた。
触れた身体は酷く冷たく、川べりまで引き上げた今までの亡骸たちを思い出させて、心臓が冷える。
でも、弱々しいけれど、途切れてしまいそうだけれどその人の鼓動は確かにあって、それを終わらせてしまいたくないと心から想って急いだ。
家に帰るまでの通い慣れた道のりが、ひどく長く、もどかしく感じられた。
凄く大変だった。山道なのもあったし、水を含んで重くなった衣服を着た大人の男の人の体は、予想以上に運ぶのが大変だった。
小さな体、非力で痩せた体が疎ましかった。どうしても引きずってしまいそうになりつつも、どうにか安静に家までその人を連れて帰れたときは心から安心した。
申し訳ないと想ったけれど、濡れた服を着せておくのは益々身体冷やしてしまうから服を剥いで、
水を拭ってから包帯を丁寧に巻いて、それから、改めてベッドに寝かせて布団をかけた。
本当は新しい服を用意してあげたかったけれど、生憎、この家には僕の服とそれからリピスお姉さんの服しかない。
僕の服だと明らかに小さすぎるし、お姉さんの服はそもそも問題外だ。だからその分、布団を多めにかけることに、した。
その後、慌しく暖炉に火を入れた。先ほど剥いだ寝ている人の服はその近くに干しつつ、寝台の傍座って、様子を見守る。
近くで見たその人は、髪の色彩だけじゃなくて、酷く綺麗な人だった。
寒さに青褪めている所為じゃなくて、滑らかに白い肌。睫が長く、整った横顔。
何処となく怜悧な月光めいた容姿は、今まで僕が見た中でいちばん、綺麗なものだった。
空から落ちてきたおつきさまのようだと想った。同じ男だけれど、何だかどきどきする。胸がちいさく不思議に痛むくらい。
そんな風にしているうちに、部屋はだんだんと暖炉の火で暖まっていく。
だけれど、血が足りないのか、長く水につかっていたらか、ちっともその人の体に体温がもどらなくて、困ってしまった。
最後の手段、だから、使うことにした。
先ず部屋を暖めてくれた暖炉の火を落とす。火事になってしまうと大変なので。
更に護身用のナイフをとってきて、寝台にそっと潜り込む。
それから、自分の手を傷付けた。零れる血を目を覚ます気配のないその人に注ぐ。
寝ている人の冷えた体温、少しでも暖められるように抱きつきながら。
ハーフの血が持つ癒しの力。どうしても助けたくて、使った。
これは、瀕死のものでも癒せる強い力だ。問題はひとつ、使った後、昏倒してしまうということ。
倒れている間に何かあったらどうしようかってそんなこと想うから、余り使いたくなかったけれど、そんなことも言っていられない。
僕には、此れの他には助けられる手段を持っていなかったから。
赤が滲み、倒れた人の傷を癒やしていく。それに安堵すると同時に、力が抜けて、五感が拡散していく。
落ちていく意識で、それでも祈った。
この人が助かりますように。目を、覚ましますように。
そう、願った。今までになく、つよく。