桜の花の命は、短い。
しかし、そこには、溢れ出す華やかさがある。
だから、人は、桜の花を待ち、心踊らせるのかもしれない。
風に舞う桜の花は、どこか寂しげで、儚い。
桜の花が咲いた。
春菜の心が落ち着かない。
約束は、遠い昔の戯言だったのかもしれないと、春菜の脳裏をよこぎる。
それでも、また約束の場所へと出かけて行くのだった。
満開の桜の下で、耕平の帰りを待つ。
大きな桜の樹の下で、大きなため息をついた。
周囲の賑わいと、艶やかさになじめない。
はらはらと、風に舞う花びらが、悲しさを誘う。
今年も、帰っては来ない。
わかっていたことなのに。
「どうして、ここにいるのだろう」
春菜は、苦笑いをする。
楽しそうな花見客を横目に、ただ流れる時間に身を任す。
遠い異国の街に、想いを馳せながら。
夕方の突然の雨に、帰路につく。
「今年も、花散らしの雨ね」
濡れた身体を、タオルで拭きながら、部屋の窓を流れる雨の雫を見つめ、春菜はつぶやいた。
花散らしの雨。
その言葉を教えてくれたのは、耕平だった。
「桜が咲くと、雨が多いだろう。 だから、花散らしの雨って言うんだ」
「花散らしの雨?」
「桜の花が終わると、春が来るだろ? 花散らしの雨が、春を連れて来るんだよ」
花のことなど、無関心な耕平が見せた意外な一面。
もう何回、花散らしの雨を経験したんだろう。
耕平は、帰ってこない。
見知らぬ遠い街で暮らす耕平には、春が来ないのだろうか?
窓から、外を眺め、耕平と出会った日を思う。
それは、春菜にとって、日常の一コマだった。
けして、特別でも、運命的でもない、出会い。
閉店間際、春菜が働く花屋に、耕平が飛びこんできたのは、桜が、すっかり葉桜となった頃だった。
「桜の花って、売っているの?」
息を切らし、いきなり、尋ねる。
街の花屋で、桜の花を置いてあるところは、珍しいはず。
花屋ならば、どんな花でも売っていると、思っている客は多い。
春菜は、「またか」と、心でつぶやいた。
「申し訳ございません」
営業用の笑顔で、頭を下げた。
「桜は、時期が終わっておりますから」
北国の桜が見頃だと、ニュースで流れていた。
東京では、桜の季節は、すっかり終わっている。
「あっ、そう。 桜の代わりになれば、なんでもいいよ。 梅でも、桃でも」
梅も、桃も季節はずれだ。
季節はずれの花をほしがる客も、珍しくはない。
しかも、桜の花がほしいという男性客は、滅多にいないが、とんでもない注文をするのは、男性客が多いのも、事実。
耕平は、その多くの客の一人でしかなかった。
「お急ぎですか?」
「ははは、彼女へのプレゼント」
日焼けした顔で、照れたように笑う。
「っていうかさぁ。 花見の約束をすっぽかしたんだよね。 だから、桜の花で誤魔化そうと思ったけど、だめか」
花を求める理由は、さまざまだ。
「こんな客もいるのね」
春菜は、少し呆れながら、「それは、残念でしたね」と、職業用の笑顔で、答えた。
「なにがいいと思う??」
「そうですね……今なら、鈴蘭など、お薦めですが……。 あとは……」
「ん? なに?」
「……後は、ひたすら、謝るのが、一番だと」
耕平が、唖然とした顔で、春菜を見る。
「はははは。 そうだね。 謝るか……」
「それが、一番、よろしいかと」
「ありがとう。 そうするよ」
さらに、照れて笑う。
「お役に立ちませんで、申し訳ございません」
春菜も、つられて笑った。
他に、他愛のないことを一言、二言話して、耕平は、鈴蘭のブーケを手にして、帰った。
たった、それだけのことだったのに。
花屋に勤めていると、いろんな客が来る。
その日の耕平は、少し変わっていたが、特別珍しい客ではない。
次の日には、耕平のことなど、忘れていた。
2.3日がすぎて、再び、耕平が、店を訪れるまでは。
それは、春菜にとって、思いもかけないことだった。