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Act 3

約束の時間ちょうどに、事務所のインターホンを押す。
誠吾の事務所は、若者の街で知られる繁華街の裏通りにある小さいマンションのワンフロアだった。
ドアを開け、若い男が室内に招き入れた。
玄関付近で立ち止まり、中を見渡すと、そこには花屋で見かける大きなフラワーキーパーがあり、大小の花器が無造作に置かれている。
「優希、来たな。 奥に入れよ」
部屋の奥から誠吾の声が聞こえた。
「相変わらず強引よね」
目の前には、優希が知っている頃の誠吾とも昨日再会した時の誠吾とも違う男がいる。
部屋の片隅の事務所らしきところのソファにに腰を降すと、先ほどの若い男がコーヒーを持ってきた。
「昨夜、未来から聞いたんだけど、フラワーデザイナーになったんですってね」
「ああ。 インテリアの仕事をしていた時、花を扱うようになって興味を持ったのさ。 それから単身フランスに渡ったんだ」
「意外だったわ」
「そうか?」
「お前、変わったな」
「そ、そう?」
「俺の知っている優希はいつも笑っていたけど、今は世の中の不幸を全部背負ってるって顔している」
「……えっ?」
それ以上何も言えず、気まずい沈黙だけが続いていく。
そう言えば、もうどのくらい笑っていないだろう。
荒んだ毎日に笑うことも忘れてしまった。
改めて指摘されたことで、優希の中に孤独と絶望感が広がっていく。
「話というのは……」
先に沈黙を破ったのは誠吾のほうだった。
「仕事を探しているなら、俺の所で働かないか?」
「……私に同情しているの?」
「いや。 先月、アシスタントの一人が家の事情で田舎に帰って人手不足なんだ」
昨夜、未来が言っていた通りだった。
「おかげさまで、仕事も順調になってもう一人ぐらい人を増すつもりでいた矢先に辞められただろ。 昨日、優希に会ったのは天の助けだと思ったよ」
「そんな大げさな……。 でも、私にできるのかしら?」
「事務が中心だから、大丈夫だろ。 さすがに俺一人じゃ手に負えなくなった」
誠吾の元で働くことに抵抗感は残っている。
素直に受け止められない自分自身を持て余してしまう。
「時々、現場を手伝ってもらうかもしれない。 前のアシスタントと同じ条件で、月30万。 もちろん時間外も出す……」
悪い条件ではない。
アパートを借りても、一人で暮らしていくには充分すぎる。
「時間も不規則になるし、キツいことも多いと思うが、どうだ?」
「う、うん……」
三十歳を過ぎたバツイチの就職の厳しさは、この数日で嫌と言うほど感じている。
離婚を控えた今は、経済的に安定させることが最優先のはず。
これを逃したら次は来ないかも……。
優希にとって先の見えない恐怖こそが一番の不安であり、それに比べたら誠吾の元で働く抵抗感など問題にならないように思われる。
『まず経済的に自立しないと』
そう自分に言い聞かせた。
「がんばってみるわ」
「じゃあ、明日から来てくれるか?」
「よろしくお願いします」
「おい、河原! ちょっと来い」
若い男を呼ぶと、優希を紹介する。
「明日から事務員として来てもらうことになった澤口だ。 慣れるまで、いろいろと教えてやってくれ」
「澤口です。 お花のことはくわしくないのでいろいろ教えて下さいね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。 俺だってずぶの素人から始めたんですから、大丈夫ですよ」
はにかんだ笑顔に爽やかさを感じる。
うまくやっていけそうな気持ちになった。
新しい仕事に不安も残るが、職を得られたことで、肩の荷が降りた気がする。
「ところで優希。 ずっと実家にいるのか?」
「ううん、次は部屋探しの予定」
「そっか……」
「やっぱりお嫁さんがいると居づらくて……」
「従業員用のマンションがあるんだけど、お前住むか?」
「えっ?」
「河原は家から通っているが、前の奴は田舎から出てきていたから、マンションを借りていたんだ。 まだ解約していないし、優希の実家からも遠くない」
「そんな……。 住むところまで誠吾に迷惑かけられないわ」
「もちろん社宅扱いだから、家賃はもらうけどな。 2DKで月3万」
「少し考えさせて。 何から何まで誠吾の世話になるのがいいことだと思えないし」
「その分、しっかり働いてもらうから、気にするな」
「ありがとう。 その時は、よろしくね」
昨日までの闇の中から、これからの生活に明るく光を感じながら家に戻る。
今日の出来事を、実家の両親、未来や明美に報告すると、皆よろこんでくれた。
これで離婚ができると、離婚への決意も新たに、久しぶりに穏やかな眠りを手にすることができた、そんな夜だった。

( 2007/2/1 )

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