10月だと言うのに夏を思わせる暑い日。
都心のビル街は気温以上の暑さを感じる。
やっと小さな公園を見つけ、澤口優希は汗を纏った身体が崩れ落ちるように、木陰のベンチに腰を降ろした。
携帯電話を手にし、ためらいを振り切るようにダイヤルを押す。
「もしもし、優希だけど。 今夜、会えないかな?」
『あら? 優希からお誘いがあるなんて、珍しいじゃない?』
「……実は、別居することになったの」
『えっ? 何かあったの?』
「……う……ん……色々とね……」
言葉を濁す。
『わかった。 いつもの店に7時でいい?』
「うん。 7時ね」
電話を切ると、大きく溜息をついた。
出版社に勤める親友の北村未来に思い切って電話したものの、友達に頼るのは気が引けてしまう。
しかし、今の優希にはそんな悠長なことは言ってはいられない。
夫の英則と離婚を前提に別居するまでに、離婚について考えなかった訳じゃない。
「子供は産めない」と、医者に宣告された頃から夫婦の溝が広がっていたのだろう。
パートに出ることも考えはしたが、結婚後も仕事を続けたいと希望した優希に対して、英則は共働きを嫌い、懇願されて専業主婦になった経緯から、英則の承諾を得られるとは思えない。
時間を持て余していた優希が趣味を持ち、自分の世界を求めたとしても、自然の流れだった。
その為、家を空けることが多くなったことを心良く思わない英則とのケンカが絶えなくなる。
籠の中の鳥のように、外界とは遮断されているという孤独を感じていた。
日に日に夫婦の溝が広がっていく中で、英則の朝帰りがきっかけで夫婦の間にはさらに冷たい風が吹き込み、「離婚」の二文字が脳裏に浮ぶ。
偽りの生活に終止符を打つために家を出て、とりあえず実家に身を寄せた。
実家の両親は、急で結論を出すものではないからと言ってはくれるが、同居している嫁に気を使っている姿を見ると、なんとかしなければと焦る。
離婚するには、経済的自立が要求される。
だが、専業主婦の生活が長かった優希を採用しえくれるところはなく、今日だけでも2社の面接を受けたが、その反応は予想以上に厳しかった。
厳しい現実に愕然とし、これからのことを考えると絶望的になる。
未来に相談したところで、事態が変わる訳でもない。
でも、一人で絶望感を抱えていくには疲れすぎていた。
もう一つ溜息をついて「それでも行かなくちゃ」と勢いをつけてベンチから立ち上り、ゆっくり歩き出す。
慣れないパンプスに足は重くなり、次の面接会場に向かう足取りが鈍くなる。
足を引きずるようにして、地下鉄の階段を降りていく。
券売機前で走ってきた人にぶつかり、手にしていた小銭を落した。
ちょうど後から突き飛ばされる形で身体のバランスを崩し、その一瞬の出来事に立ち竦んでしまう。
「落しましたよ」
優希の視界を遮るように目の前の男が拾った小銭を差し出す。
恥かしさで顔を上げられず、下を向いたまま「すみません」と小さな声で礼を言い、小銭を受け取った。
「相変わらず鈍くさいな、優希は」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
目の前には、学生時代の恋人多田誠吾がいた。
「……誠吾」
「奥様がこんなところに何でいるんだよ。 着慣れないスーツなんか着て」
痛いところを突かれた。
専業主婦として緊張感のない生活に染った体にビジネススーツは馴染まない。
鏡やショーウィンドウに移る自分の姿が無様に見えたことを思い出す。
それを誠吾に言葉で指摘されたことで、絶望感がさらに深くなる。
「……面接……」
消え入りそうな声でぽつりとつぶやく。
「職探し……か?」
「う、うん……」
それ以上は何も話さない誠吾の後を無言でついて歩き、駅のホームに降りた。
誠吾に会ったのは、結婚前が最後だから、もう10年も前になる。
「なんで……?」
ベンチに座り、誠吾のポツリと漏らした言葉に答えるかのように、簡単に近況を説明した。
「誠吾は変わっていないわね」
優希の話を聞きながらも、何か考えている様子に、学生時代の誠吾の面影を見つける。
大学を卒業した就職後はすれ違いが多く、自然消滅のように別れた二人。
優希は社内恋愛で英則と結婚し、誠吾は勤めていたデザイン会社を辞めたと風の便りが知らせただけだった。
その後の消息を聞くこともなく過ぎた10年という月日。
滑り込むように電車がホームに着く。
ベンチから立ち上り、電車に乗り込む直前に誠吾は一枚の名刺を渡す。
「明日の一時にこの住所に来いよ」
「えっ?」
「いいな! 1時だぞ、遅れるなよ」
誠吾がそう言い終えると同時に誠吾が乗り込んだ電車のドアが閉り、静かに走り出す。
取り残された優希の手には"タダ・フラワーファクトリー"と記された名刺。
訝る思いを残しながら、反対側に来た電車に乗り込み、優希は重くなった身体を次の目的地に運んでいった。