ワーキングホリデー

Ⅲ.希望

「合格、おめでとう」
テーブルを挟んで、健人が先に口を開いた。
「ありがとう。 あなたのおかげよ」
「城には、いつ行く予定?」
「まだ、決めていないわ」
食事が運ばれて来る。
里香は、食が進まない。
「明日、一緒に行こうよ」
去年のことが思い出される。
一緒に行くと、約束していながら、前日に別れた二人。
「ええ。 楽しみだわ」
里香は、気のない返事をした。
明日になれば、また健人の気が変わるだろう。
里香の心に影が落ちる。
健人のデンマークでの新しい生活の話はやはり、里香にとって新鮮なものだった。
あの夜の出来事が、嘘のようにも楽しい時間が流れていく。
健人との再会は、神様のいたずらだと、里香は思いながらも、その時の流れに身を任せる。
食事を終え、ストロイエを二人で歩く。
コペンハーゲンの夜の街は、クリスマスの装飾に彩られ、ロマンチックな趣きがいっそう深い。
となりに健人がいる。
里香には、それだけでよかった。
この時間を大切にしよう。
二度と逢えないと思っていた健人と過ごす時間が、神様のご褒美なのだと、里香は改めて思う。
「寒くない?」
健人が、手を握る。
胸がきゅんと締めつけられた。
この幸せが、永遠に続けばいい。
時間が止ればいいと、里香はまた祈る。
ホテルの部屋に戻っても、健人は帰る素振りを見せない。
何か、落ち付かない様子が気になったが、里香は気付かない振りをする。
「里香……」
健人に声かけられ、ドキッとした。
「もう、結婚する気はないのか?」
その質問は、あまりにも唐突だった。
「………」
言葉に詰まる。
思いなおしたように、毅然とした態度で、言い切った。
「もう、結婚はしないわ、きっと」
「今は、一人なの? 彼とは、一緒に暮らしていないの?」
和志との暮らしは変わらない。
健人は、何が聞きたいのだろう。
「今も、一緒よ。 でも、結婚することはないわ」
何かから、逃げるように、目を伏せた。
長い沈黙が続く。
「里香に渡したいものがある」
健人が小さな箱を差し出した。
黙って受け取る。
「開けてみて」
小箱には、指輪が、入っている。
「合格のお祝いだよ」
ぶっきらぼうに後姿のまま、健人が言う。
「里香、デンマークで暮らす気はないか? いや、ここで暮らさなくてもいい。 里香には、里香の夢があるから」
「でも……」
健人は、何を言っているの?
頭の中が白くなっていく。
今、何が起きているのか、わからない。
「結婚しよう」
その一言に、里香は、言葉を失った。
涙だけがあふれて、言葉にならない。
「びっくりするのも、無理はない。 一緒にいると、疲れると言ったのは、俺だし」
健人の言葉に、身動きが取れない。
結婚……?
わたしと、健人が……?
「里香に逢いたかったよ」
健人は、一方的にも似ているように、話し続ける。
「もう、里香に逢えないと思っていたから、デンマークに残ったんだ。 昨日、メール読んだ時、チャンスだと思ったよ」
「でも……わたしは、健人より、ずっと年上だわ。 離婚歴もあるし……」
身体が硬くなる。
あふれる涙は止らない。
いままで、健人との結婚を夢見たこともあった。
それは、叶うことのない夢だったはずだ。
そう、これは夢なのだ。
夢に違いない。
里香は、言い聞かせる。
朝、目覚めたら、なにも残らない夢だと……。
「あなたは、私の何を知っているの? 私は、あなたをなにも知らない。 健人のことは、何一つ知らない」
涙で、声にならない。
聞き分けのない子供のように、ただ、泣きじゃくるだけで。
「里香……」
健人がキスをする。
腕の中の心地よさ。
肌の感触。
キスに酔いしれたまま、夜を過ごした。
冬のデンマークだというのに、澄みきった青空の下。
里香は、フレデリクスボー城の前に立つ。
「健人。 私にとって、あなたは、希望だったわ」
ポツリと、里香が話す。
「あのあなたを失った時から、ここが私の希望になった。 あの日、一人でここに立ったとき、来年もここに来ようと、思ったわ」
となりで、健人が微笑む。
「あなたに恥かしくない生き方をするためにも」
「里香、Jeg elsker dig」
里香は、うなずいた。
「今度、ここにくる時も一緒だよ」
健人が握った手に力がこもる。
「Jeg elsker dig」
この言葉を、ずっと待っていた。
里香も、微笑み返す。
水面を渡る風が、二人を暖かく包む。
健人のキスも、春風のように甘かった。

( 2006/12/3 )

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