夢の花、現の闇 〜四〜
「え?」
美智子の言葉に雅枇は思わず振り返る。
庭の手入れを終え、あずま屋に来た美智子に茶を淹れているところだった。
朔夜は二日前に、神戸に経っていた。
今日は日差しが随分夏を思わせるほどで、少し暑いくらいだ。
「……こんなことを、雅枇さんに相談するのもおかしいのかもしれませんけど…」
俯きながらそう切り出した美智子の髪が日に透けてきらきらと美しい。
「朔夜さまは…私のことがお嫌いなのでしょうか」
「まさか、そんなわけはないでしょう。いつも仲良くしていらっしゃるのに」
「…ええ。とっても優しくしてくれるのですけど…」
赤くなって俯く彼女に、雅枇はふと思い当たってにっこり微笑んだ。
「もしかして、かの様にお孫様の顔が見たいとでも?」
一瞬、驚いた顔で見上げてから、すぐに美智子は俯く。
「ええ…数日前に言われたんですけれど……」
ほうっと溜息を吐いて美智子は湯のみを手に取った。
「私もこちらに嫁いでからもうすぐ2ヶ月…慣れないことばかりで必死になっていたのもあってすっかり忘れていたのですけど……よく考えてみればもうそんなに経つのに、と不安になってしまって……お恥かしいことですけれど…」
茶菓子の包みを弄びながらもじもじと呟く美智子に、雅枇は新妻の愛らしさを感じて目元を緩ませる。
「大丈夫です。朔夜様も忙しい方ですので、美智子様と同じく忘れてしまっているのかもしれませんよ」
「…でも……」
「もし、よろしければ私の方からそれとなく申しておきますけれど…でも、それよりは美智子様がお話をされたほうがよろしいでしょう?」
「そうですけど…でも、一体なんと……」
「大丈夫ですよ。多分、美智子様がそんなに案ずる必要はございません。神戸からお戻りになったら、きっと何か嬉しいことが起こりますよ」
「でも…でも、私不安ですわ。だって朔夜様はあんなに素敵なお人…きっと神戸に別の女性を……」
そういって大きな目をたちまち潤ませてしまう。
雅枇は笑いながらそっと肩を撫でた。
「大丈夫です。朔夜様はそんな方ではありません。長年お傍にお仕えした私が保証します。…だから、そんな哀しい目をしないで下さい。美智子様」
「…雅枇さん…本当におやさしい方ですわね……」
声を殺して泣き出した美智子に突然縋りつかれ、雅枇は一瞬驚くが、何も言わずに背中を撫でた。
「雅枇さん、ちょっと…」
「ああ、美智子様ですか?お入りください」
夜、離れに訪れてきた美智子は、とても子どものような上気した顔をしていた。
「夜遅くにごめんなさい。月下美人が咲いているの。私、初めてあんな立派な月下美人を見て、あまりに嬉しくて…」
「ああ、そうでしたか」
「雅枇さんもご覧になりません?納屋のほうの月下美人なんですけれどね、ちょっと喉が乾いて台所に行ったときにちらっと見えたから…」
「ええ、行きましょう」
立ちあがった雅枇に、美智子はぱあっと笑顔を広げた。
本当に、子どものように喜怒哀楽が顔に出る人だな、と思いながら部屋の明かりを消す。
「お部屋のすぐ傍の月下美人はまだ咲いてませんのに、納屋のほうだけ咲いているなんて…」
「花にも性格がありますから、きっと主が帰って来るまで待っているのでしょう」
庭を横切り、朔夜と美智子の部屋の前を通って納屋へと急ぐ。
「そうね、朔夜さまが帰ってから咲いてくれるのだったら、3人で見られますものね。楽しみだわ。…その時は3人で冷やしたお酒を呑みましょう」
はしゃぐ美智子に、雅枇はくすくすと笑いながらついていく。
納屋は母屋の裏側、ちょうど隠れた位置にある。
その納屋の傍に、一株だけ植えられた月下美人が、月明かりに蒼白く照らされて大きく花弁を広げていた。
「ああ、いい香り」
走り寄る美智子の傍に、雅枇が近付こうとしたとき。
「…っ?!」
突然、後頭部に鈍い痛みを感じて、その場に倒れこんでしまう。
痛みに顔をしかめながら、なんとか顔を上げて何が起こったのか把握しようとした。
「朔夜だけでは飽き足らず、美智子さんにまで手を出そうとしているなんて…本当にお前は売女の息子だよ」
「………か…の、さ…」
白髪をゆるくまとめ、寝間着姿の大奥が立っている。
その後ろには、確かこの家に雇われている用心棒。
「………………」
薄らぐ意識の中で、かのが自分を何か汚いものでも見るような目で見下ろしているのがわかった。心の中で、美智子のことが気がかりで、それでもそれ以上意識を保っている余裕はなかった。
—————月下美人の香りが強い。
玄関の戸を開けて、顔を覗かせると、そこで掃除をしていた侍女が、まあ、と顔を綻ばせて大声で叫んだ。
「大奥様、奥様、だんな様のお帰りですよ!!」
途端に、奥からぱたぱたと足音がして、二人の女が笑顔で出てきた。
「お帰りなさいませ、朔夜様」
「ただいま」
朔夜は鞄を侍女に渡し、奥から出てきた、かのと美智子に笑いかけた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、朔夜さん。疲れたでしょう。さあ、お風呂に入って汗を流してらっしゃい。その後にお夕飯にしましょう」
かのは侍女にすぐに夕飯の準備をするように言いつけ、美智子は浴衣の準備を、と朔夜を自室へ誘う。
「まあ、これはもしかしてお土産ですか?楽しみだわ」
美智子が朔夜の持っていた紙袋を受け取りながら嬉しそうに目を輝かせる。
それに頷き、朔夜は玄関を後にしようとして、立ち止まった。
いつもなら侍女よりも早く自分を出迎える、世話役の姿が見えない。
「………雅枇はどうした?」
美智子とかのが朔夜の言葉に足を止める。
「………さあ…」
「…朔夜」
言葉を濁した美智子をかばうように、かのが朔夜を振り返る。
「帰ってきて最初に口にするのがその名前だなんて、いい加減になさい。あなたの心を今一番占めているのは美智子さんでしょう」
「……………そうですね」
かのの言葉に、乾いた返事を返す朔夜に、美智子は少し眉をひそめた。
「さあ、あんな世話役のことより、早く汗を流して旅の話でも聞かせてちょうだい」
「…はい」
頷いた朔夜を見て、かのはにっこり笑うと先に奥へと歩いていった。
美智子はただ黙って朔夜の後に続き、朔夜は自室へ無言で下がっていく。
紙袋を持つ手が白い。
朔夜は自室の襖を開けて中へ入ると、部屋着に着替え始める。
「……納屋ですわ」
襖を後ろ手に閉め、美智子は無表情でそう呟いた。
「…え?」
言ったことの意味がわからず、朔夜は着替える手を止めて美智子を振り返る。
「雅枇さんは、納屋にいらっしゃいます」
「……納屋?」
「ええ…………」
美智子の白い顔がますます白くなる。
湿った空気が気持ち悪い。
かび臭い匂いでここが納屋だとわかったのは、幼い頃にかのにここに閉じ込められたことが何度かあったからだった。
あの後、かのの命令だろうが、あの用心棒に体をいためつけられた。
この突然の仕打ちが、かのと美智子が自分と朔夜の仲のことを知ってことのだとは思えないが、たとえ思ったとしてもそれは不思議ではない。
それよりも、存外自分で驚いているのは、美智子が自分を騙したという事実に傷ついている自分にだった。
自分には、美智子を責める権利などありはしない。
それでも、説明のできない複雑で不愉快な感情を自分に誤魔化すことはできず、雅枇は他のことを考えた。
あれから一体どのくらい時間が経ったのだろう。
朔夜はもう神戸から帰ってきたのだろうか。
————耳鳴りがする
聞こえないはずの声が聞こえた気がして重い瞼をゆっくり瞬かせた。
『お前はどうするつもりなのだ』
蘇る声は冷えた美貌と貫くような眼差しを連れてくる。
あの目に、惹かれた。
どうしようもなく、全てを塗り潰してしまいそうなほどの夜の色。
両手足に括り付けられた荒縄が肌に食い込んで擦れる。
後ろ手に縛られているので、肩が痛かった。
納屋の入り口の扉が少し開いているのに気付いた。もうお咎めはないとわかっても、雅枇には動こうという気力がなかった。
『お前はどうするつもりなのだ』
『お前は何を考えているのだ』
何度も何度も、繰り返し耳に滑りこんでくる声。
「…………………」
—————あなたこそ、どういうつもりで私をここに置いておくのですか
きっと、自分の心は気付かれている。
気付いてない者が、わざわざ別の女に触れた手で自分をなぶるようなことはしない。
気付いてない者が、わざわざいやがらせのように妻を娶った後まで自分を傍におくはずがない。
気付いてない者が、わざわざ和三盆を夜中に渡しにくるはずがない。
雅枇は、そうして、言えない言葉を抱え込んでは自分の気持ちが自分の首を締め上げて行くことにもう何年も前から耐えていた。
憎い。
これ以上ないほどに、朔夜が憎い。
そして、————愛しい。
これ以上ないほどに。
自分の隠しとおしてきたつもりの言葉を、口にさせたいだけなのだろう。
わかっていた。
彼は、自分の嫉妬に狂って墓穴を掘って不様になる姿を見たいだけなのだ。
わかっているから、だから雅枇は余計に口にしない。
口にすれば、彼は下らないと嘲笑して、自分を捨てるだろう。
滑稽なものだと思った。
解放してほしいと思いながら、結局捨てられるのが怖い。
それが、幼い頃に母親に捨てられたことが傷跡となっているのではなく、朔夜に捨てられるということが怖いだけなのだ。
突然、扉ががらっと大きく開かれ、月明かりが蒸し返すような夏の夜の匂いと一緒に納屋の中に入ってきた。
「………」
近付いてくる足音にゆっくりと顔を上げる。
いつかと同じだと思った。
こうして、あの日もこの冷めた美貌を見上げていた。
「いいざまだな…」
「…………」
しゃがんで聞こえた衣擦れの音。
冷えた指が顎を掴んで上向ける。
「……顔には手を出さなかったのか…年だけ食った幼稚なババアだ」
喉の奥で笑って、朔夜は髪を掻き揚げた。
「だから言っただろう。お前はどうするつもりなのだと」
「……」
黙ったままの雅枇に朔夜は唇を寄せる。
軽く口付け、舌先で唇をなぞって開かせてから吸い上げる。
雅枇の溜息が響く。
「お前はいつもくれるものだけ貰って自分から欲しがろうとはしない。最初もそうだった。私がやった和三盆を、お前はどういうつもりで受け取ったのだ」
「……あっ」
足を這いあがる冷たい指先が、何も予感させずに中へと滑りこんで来た。
一瞬強張った体を、首筋を舐め上げる朔夜の舌が一気に弛緩させる。
少しでも楽になろうと、体は勝手に右膝を立てた。
「…どうしてお前は何も言わない」
「んっ………ぅふ、」
大きく吐き出した吐息が濡れる。暑い。
撫ぜる指先が全てを知り尽くしているのが辛い。どんな抵抗も無駄に終るとわかっていながら、必死で理性と声を抑えこもうとして、それとは裏腹に震える体が自分のものではない気がした。
いや、もう自分のものではなかった。
体も、心も、全て自分のものではなくなっていた。
「あっ………っ、ぁ…」
突然離れる体に、思わず縋り付くような目をしてしまっても、それは自分の意思とは関係ない。
「……欲しいものがあれば、自分から取りにこい」
「………………」
「いつまでもだんまりを決め込んだところで、お前は誰にも認められはしない」
足に、手に悔いこんでいた荒縄を、朔夜は袂から取り出した短刀で切り落とした。
腕と足首にくっきりと浮かぶ縄痕。
「…かのに助けを求めた美智子のほうがよっぽど利口だな」
卑怯なほどに。
吐き捨てるように言って朔夜は背を向ける。
雅枇はただ、それを見上げる。
納屋の外は嘘のように綺麗な月夜だった。
そして、嘘のように白い顔で全てを見つめていた美智子の目があった。
「美智子様、いらっしゃいますか」
自分の夕飯の食器を戻しに台所へ行った帰り、朔夜の自室の前の庭に植えられた月下美人が莟を大きく膨らませて、首をもたげているのが見えたので、雅枇は庭から部屋にいるだろう美智子に声をかけた。
「…………はい」
少し間があったのは数日前のことがまだ気がかりなのだろうと、雅枇は思った。
けれど、雅枇は何事もなかったかのように普段通りに美智子に接していた。
襖を開けて、控えめに顔を出した美智子に、雅枇はにっこり笑いかける。
「ほら、今夜あたり月下美人が咲きますね」
「え…………あら、…まあ」
大きく膨らんだ莟を見て、美智子は前と同じような華やかな笑顔を広げた。
「本当だわ。まあ、朔夜さまにお教えしなければ…」
「こんな大きな莟ですから、さぞ大輪の花が咲くでしょうね」
「本当。まあ、…ああ、早く上がっていらっしゃらないかしら。お風呂をお召しなの」
風呂場のあるほうを見て、美智子は待ち遠しいと両手を組んだ。
「ああ、そうだわ。この間言っていたように、3人でお酒を呑みましょう。ちょうどこの間朔夜さまが神戸からのお土産に珍しい洋酒を買ってきてくださってたのが、まだ残っているはず」
「それでは、氷水を頂いてきましょう」
「ええ、お願いしますわ」
嬉しそうにはしゃぐ美智子はやはりかわいいと、雅枇は思う。
朔夜の隣に立てるだけの気品を持っている、と思う。
黒い豊かな髪を結いあげるのは、珍しく凝った細工の蝶の髪飾りだった。
「美智子さま、髪飾り、お似合いですね」
「え?…ああ、あら、ありがとう。これ、朔夜様から頂いたの。お土産ですって」
「美智子様の美しいお顔に映えて、よくお似合いですよ」
頬を染めて、ありがとうと繰り返す美智子に、雅枇は氷を取ってきます、と台所へ向かおうとした。
「あ、ちょっとお待ちになって。いい器がありますの。実家から持って来たものなのだけど、硝子の綺麗な細工の器でしてね…」
美智子はそう言いながら部屋に引っ込む。
「……あら、重いわ。雅枇さん、ちょっと手伝っていただける?」
「ああ、はい」
雅枇は失礼、と詫びて部屋に入った。
多分、風呂上りに冷たい茶を飲みたいと朔夜が言ったのだろう。氷水に浸された茶瓶が丸く小さな台の上に準備されていた。
その隣の閨の奥、押し入れの前にいる美智子が、この奥にあるのだと示すとおりに、雅枇は押し入れの中に入った。
「ああ、これは本当に美しい……」
透明の硝子の器を見て、雅枇は溜息を吐く。細かい複雑な細工のされた、大きな器。
「…そうでしょう。お父様から十五の誕生日の時に頂いたの…」
「美智子様は本当にお父様に大切にされていたのですね」
雅枇は器を割らないように慎重に持ち上げ、後ろ歩きに押し入れから出て行く。狭いので、器を持ったままでは振り返ることができないからだ。
「………ええ、とても大切にされていたわ…」
押し入れからゆっくりと出てくる雅枇に美智子は無表情な顔で言った。
「こんなに大切にされているなんて、何度も思ってお父様に感謝したわ」
繰り返す美智子に、雅枇はにっこり笑う。
「大切なお嬢様ですものね。美智子様は」
「…そう……それなのに、朔夜様は違ったわ」
「……え?」
強張った美智子の顔が蒼褪めていく。
雅枇はどうして話の方向がそちらへ向くのか理解できない。
「…朔夜様は…………」
「…美智子様?」
「…ねえ、雅枇さん…お父様はもう1つ私に綺麗なものをくださったの」
美智子は戸棚の引き出しから紫色の絹に包まれたものを取り出した。
「……そして、わかったの。私はどうしたらいいのか…」
「美智子様?」
わけのわからない雅枇の前で、美智子はその絹をはらりとめくって床に落した。
「…あなたには、どれほど私が苦しかったかなんてわからないでしょうね」
「……………」
「あなたには、どれほど私が朔夜様を愛しているか、わからないでしょうね」
「……美智子…さ…」
綺麗な綺麗な細工。
白い手に握られて、それは更に美しさを映えさせた。
「これね…西洋で使われている"ぺーぱーないふ"と言われるものなんですって」
「…………」
柄に施された細工をゆったりと撫でながら、俯いている美智子の顔が見えない。
「あなたは女郎の息子…吉原で捨てられていたのを、慈悲深い朔夜様が助けられた」
「…………」
「でもね…朔夜様に触れていただけるのは、私だけで充分なのよ…!」
「…!!」
月明かりに反射する光。
咄嗟に落してしまった硝子の器は、派出な音をたてて砕け散った。
「美智子、茶の用意は……」
風呂から上がった朔夜が自室の襖を開けたとき。
「あなたさえいなくなってしまえば、私はこんな思いをすることもないのだわ」
普段の彼女からは考えられないような荒々しい声で怒鳴る美智子の背中。
その向こうに蒼褪めた雅枇が壁を背に驚愕している。
畳の上には、美智子が実家から持って来た東洋の硝子細工の施された器が、大きなかけらに分かれて転がっていた。
「何事だ」
状況を掴めない朔夜は、驚いて美智子の背後から声をかけて、彼女の手を見て更に驚愕する。両手に握られたのは先が鋭利に尖った西洋の短剣。
朔夜が言葉を発するよりも早く、美智子の両手が振り上げられる。
「美智子…!」
「あなたさえ…!」
朔夜の声が美智子の声と重なる。
「あなたさえいなくなってしまえば!」
「やめろっ」
咄嗟に止めに入る朔夜の手が一瞬遅れる。
そのまま一気に突き進む彼女の向こうで、雅枇が自分を見てふっと笑った気がした。
鈍く、壁に背を叩き付ける音。
小さな聞き取れないほどの呻きの後、雅枇の体がゆっくりと二つに折れ、崩れ落ちた。
「………雅枇!!」
駆け寄った朔夜の隣で、美智子はふらふらと後ずさる。
抱き上げた雅枇の腹には短刀が刺さったままになっており、朔夜はそれを一気に引き抜いた。噴出す血の量が、手遅れだと知らせるようで朔夜は必死に雅枇に呼びかける。
「雅枇…雅枇!」
「………く…や…」
一層蒼白くなった頬の下、微かに動く唇のから呼吸が荒くなる。
「喋るな…今医者を……」
「…さくや……」
腹から溢れる血を止めようと掌で抑える朔夜を制するように、雅枇は白い手で彼の頬に触れた。
「……さくや」
雅枇の震える指先が唇に触れる。あまりの冷たさに声が出ない。
壊れたように何度も名前を呼ぶ唇。
「さ…くや……」
唇を震わせ、雅枇は微笑みながら朔夜に告げる。
「—————……」
多分、朔夜にしか聞こえないだろう、そのか細い声が紡いだのは、彼の思考を止めるに充分な言葉だった。
「……お前…」
囁かれた言葉に見返した瞳は優しかった。
「まあ、なんの騒ぎ……きゃあああああっ」
「朔夜様!これは…」
「誰か…誰かぁぁあっ」
遠くで鈴虫の声がする。
蒸し暑い夏の夜。
開き始めた月下美人だけが、ひっそりと月明かりに照らされていた。
「焦げ臭いわよ?大丈夫なの?」
「きゃあ、あたしったらすっかりお米のことを忘れてたわ!」
「ちょっとお風呂は焚いてあるの?!」
台所から、いつものかしましい声が聞こえてくる。
「どうもすみません。いつもああでして…」
「いえいえ、楽しそうでなによりです」
かのは頭を下げて、苦笑する華江家の主に茶を淹れなおした。
応接室。
和室をそのまま洋風に作り変えた形になっており、畳の上に毛足の長い豪華な絨毯を敷き、猫足の西洋風のソファが楕円系のテーブルの前に並んでいる。
そこにコートを脱いで座った華江家の主は少し以前より疲れているように見えた。
「……寒くなってきましたね」
ふと、庭を見て呟く彼に、かのも微笑んで返す。
茶碗からたつ湯気が季節の移り変わりを一層引きたてた。
「そうですね…もう庭の紅葉も色づいてきました」
こと、と茶碗を彼の前に差し出し、かのも庭に目をやる。
柿の実が赤く熟れて、弱くなった秋の陽の光りを受けている。
あれだけ咲き誇っていた花はそれぞれ眠りの季節を迎え、華やかな容貌から閑静で寂しげな庭へと変わろうとしていた。
「……美智子は先日、長野の親戚の家へ預けました」
「…そうでしたか……」
ゆっくりと茶をすするかのに対し、彼はまだ庭に目をやったまま、どこか遠くを見ている。
「できれば私の元で世話をしてやりたかったが…」
「……………」
振り返って哀しげに笑う彼に、かのも返す言葉が見つからない。
「…朔夜はあずま屋と自室を行き来するだけで、こちらに出てこようとはしません」
「…そうですか」
「………ずっと、庭を眺めたまま…」
雅枇を刺した美智子は、直後に狂い、人格を失った。
彼女を落ち着かせ実家に戻し、雅枇の葬儀まで一通り済ませたのは朔夜自身だった。
二人は離婚、そしてとりあえず落ち着いたかと思われた時に、朔夜は灰人同然のように何もしなくなった。
かのが話しかけようが、身内が話しかけようが、誰の声も聞こえてはいないようだった。ずっと虚空を見つめ、ぼんやりと茶を飲む。
茶がなくなれば人を呼び、そして再び黙ってぼんやりと庭を眺める。
「まさかこんなことになってしまうとは……」
かのは溜息をついてそっと目元を拭った。
「…雅枇、と言いましたか……」
ゆっくりと、やっと茶碗を手に取って、彼は低く呟いた。
「何度か、微かに見かけただけでしたが、色の白い綺麗な方だった気が…」
「…あれのせいです…全てはあの売女の息子…あれのせいで朔夜も美智子さんも…」
「……売女の…?」
聞き返す彼に、かのは咽び泣きながら訴える。
「朔夜が12歳のときに、好奇心からでしょうか、東京の吉原で拾ってきた子どもでした。母親はその頃の吉原一の花魁で……私も、一人っ子だった朔夜の遊び相手にいいだろうと思ってここに住まわせることにしたのですが…」
「美智子は彼に嫉妬したのですな」
「まさかこんな結果になろうとは……さっさと追い出しておけばよかった…」
泣き伏してしまうかのを見て、彼も複雑な溜息を吐く。
「…美智子は、彼と花の話ができると当初は喜んでおりましたよ……」
「…でも……でも、美智子さんは…」
「かの殿…例え美智子と朔夜君の婚約前に彼を追い出しておいたとしても、いい結果は生まれなかったでしょう」
「…………どういう…」
「今の朔夜君をみればよくわかる」
ソファから立ち上がり、窓に近寄っていく。
庭の奥、あずま屋の中に、まだ若い主が座っているのが見えた。
「……思い出に勝つことなど、我々にはできないのですよ」
冷たい風が、頬を撫でていく。
数年前、ここで耳にした言葉がふと蘇って錯覚する景色。
『私は女郎の息子…捨てられた子ども。それをあなたが拾ってくれたことで全ての幸を使い果たしたのかもしれません』
嘯く彼の細い声が耳をくすぐる。
立ち上がった朔夜の黒い髪が、一筋の風に煽られて目を伏せた。
どこまでも平行線を辿ってしまった二つの心は、結局どこまでもひとつになることはできない。
失くしたものを抱えたまま、片方は夢に、片方は現に。
「…………不幸なのはどっちだ…」
呟いた彼の背中に蘇る言葉。
————朔夜……愛してる………
甘い砂糖菓子が舌の上で溶けて消えた。
<了>
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お疲れ様でした。後書きを読まれる方は『進む』へ。トップに戻られる方は『退散』へどうぞ。