高村薫  作品別 内容・感想

マークスの山

1993年03月 早川書房 単行本
2003年01月 講談社 講談社文庫(上下)

<内容>
 南アルプスにて、現地に住み込みで働いていた労働者が登山者を殺害するという事件が起こった。事件はあっけなく解決済みとされたのだが、誰も知らないところで犯罪の芽がまかれていたのだった。
 十数年後、東京で謎の連続殺人事件が起こる。被害者のつながりはばらばらで、どういう理由で殺害されたのかが全くわからないまま、さらに事件は続いて行く。警視庁捜査一課の合田一郎は必至に犯人の手掛かりを得ようとするのであるが・・・・・・

<感想>
 本書は十数年ぶりの再読となる。当時ハードカバーで読んだものを、文庫化を機に購入し、ようやく今になって読むことができた。読了後には、あまり厚くない文庫の上下巻なのにも関わらず、つまっている内容が濃密なせいか、分厚い長編小説を読んだような達成感を感じとれた。

 当時を思い出しながら読んでみたのだが、この著者のことを知らなければどのように読んでも男性が書いたとしか思えないであろう。最初は高村薫という名であっても、ひょっとして男の人? と思いながら読んでいたような気がする。今読んでみてもその思いは変わらず、ところどころに出てくる“やおい臭”みたいなものがかろうじて女性が書いたものかなと思わせる程度でしかない。

 この本を読んで当時鮮烈な印象を残したのは、警察機構の書き方について。当時はまだ警察小説などは読みなれていなかったせいか警察機構というと刑事ドラマの印象くらいのものしかなかった。ゆえに、本書で書かれている刑事同士の確執、競争という荒々しさに打たれてしまい、ドラマの中での馴れ合いしか思い描けなかった警察組織に対して、全く異なる印象を植えつけられることとなった。

 この作品の中では刑事部屋を中心に刑事たちの捜査を押し進めていく様子が色濃く描かれている。捜査会議、現場での捜査模様、証拠の奪い合い、他の管轄との確執、上層部との対立等等、見るべきところはとにかく多い。

 そのような中で優秀そうな刑事たちが我先にと、いっせいに事件に食らいついてゆき、すぐに事件解決にいたるように思えるのだが、なかなかそうはいかない。

 その理由として、それが本書のもうひとつの特徴たるもので、“犯人”の造形にあると言える。この犯人が一見計画的でありながら、幼稚な行動をとったりと、さまざまな矛盾の中で行動している。その動きに刑事たちは翻弄され、事件の全体像がなかなか見えないままとなっている。読者には犯人の正体が明かされているので、なぜ犯人が矛盾した行動をとるのかというのがわかっているのだが、それがわからない刑事たちはなかなか真相へと到達することができず、この辺が若干もどかしいといえないこともない。

 というような濃厚な刑事達による捜査が行われるなか、矛盾した犯人による劇場型のような犯罪が行われ、そこに公安らがひた隠しにする過去の事件が見え隠れするというのが本書の大まかな全体像となっている。さらには、それらの事件の背景として“暗い山”の存在がふつふつと沸きあがってくるのである。

 高村氏の作品で本書以前に、犯罪やスパイなどを扱ったものがあったのだが、そういったものをひっくるめて警察捜査というものの中にはまり込むように書かれたものがこの「マークスの山」といえよう。であるからして、本書は当時の高村氏の集大成的な作品であったのであろう。こう考えれば本書が高村氏の代表作のひとつであり、さまざまな分野から注目を浴びたというのも当然のことと言えるのかもしれない。

 時間に余裕があって、濃い警察小説を堪能したいという人にお薦め。じっくりと味わい尽くしていただきたい一冊。


レディ・ジョーカー   7点

1997年12月 毎日新聞社 単行本(上下)

<内容>
 終戦直後、ビール業界トップの日之出ビールに一通の怪文書が届く。被差別部落の出身であることが理由で不当解雇された、という経緯がそこには記されていた。そして現代、ふたたび差別問題が会社で持ち上がり、新卒採用をめぐり自殺者が出ることに・・・・・・
 一方、毎週競馬場で顔を合わす、薬局の老店主、障害者の子供を抱えるトラック運転手、刑事、工員、金融業者。老店主の物井は自殺した学生の祖父で、しかも日之出ビールに怪文書を出した男の弟にあたる人物だった。物井は思うところがあり、皆に声をかけ、日之出ビールから金を脅し取ることを申し出る。そして彼らは“レディ・ジョーカー”と名乗り、日之出ビール社長の城山を誘拐。その後すぐに城山を解放したのち、“レディ・ジョーカー”は表向きの行動をカモフラージュにして、城山に裏取引を用いて裏金を手に入れようと画策する。彼らの切り札は城山に述べた、ビールを人質だとの・・・・・・
 誘拐事件の捜査に携わっていた合田雄一郎警部補は、裏取引を恐れる警察上層部の意向を受け、身辺警護を理由に城山に密着する。やがて犯人グループが動き始めるが、それに便乗し、経済界を支配しようとする闇の勢力も、うごめきだすことに!

<感想>
 高村文学最高傑作のうたい文句は嘘ではない! 他を圧倒する、事件をこうむった企業と人々の顛末を描く一大劇!

 通常の作品であると、多視点によるものは内容がとりづらく物語がつまらなくなってしまうものが多い。しかし、この作品は圧倒するかのようなひとりひとりの書き込み量により、そのようなことは言わせない迫力をもっている。

 ミステリーとしてみれば、もっと犯人グループに焦点を当て、他の部分を削り取るべきなのであろうと思う。しかし、本書ではあくまで企業における顛末とそれらをとりまく動静が主題であろう。そのせいか、後半に流れるにしたがって内容がわかり辛くなっていくところもある。しかしながら(もしくはそれにより)ある種の思惑から始まったものが、多くの人がかかわることにより、もしくは多くの金がからむことによって、誰もが想像できないような展開へと話が膨らんでいく。そしてそのような被害を被った企業にとってそれを打開するということがいかに難しいかということがよくわかる。

 この話しの内容では結構企業側に同情してしまう。“レディ・ジョーカー”の面々への思い入れは確かに強くなるのだが、彼らがこの犯罪を犯した動機というものが微妙に間接的なものであるためか、さほど同調する気にはならないのである。確かに発端は企業側にあるかもしれないのだが、それでは誰が悪いのかというとそういったものを測ることは誰にもできないのである。このへんは考えれば考えるほど難しい。さらには犯人グループが動くことによって、事件と関係のないものまでが利権を狙って動き始める。このへんは、完全に企業がこうむる被害といえよう。サラリーマンとして働くもの、特にある種の管理職の立場についているものについては身につまされる部分もあるだろう。(というかグリコ?)

 なにはともあれ、これは崩れ行く大企業の一大叙事詩の一作として君臨すべき一冊である。


季 歐

1999年02月 講談社 講談社文庫(「わが手に拳銃を」を元に大幅加筆修正)

<内容>
 惚れたって言えよ・・・・・・。美貌の殺し屋は言った。その名は季歐。平凡なアルバイト学生だった吉田一彰は、その日、運命に出会った。ともに二十二歳。しかし、二人が見た大陸の夢は遠く厳しく、十五年の月日が二つの魂をひきさいた。
 大学生の吉田一彰は昼は工場、夜はナイトクラブでアルバイトをしていた。しかし、ある日過去の知り合いに目を付けられたことからナイトクラブの銃撃事件に巻き込まれる。またそのときに殺し屋、季歐に出会う。

詳 細


晴子情歌   

2002年05月 新潮社 単行本(上下)

<内容>
(省略)

<感想>
 これも長らく積読となっていた作品。高村氏の作品といえば、書けば必ずその年のランキングなりで話題になるのが普通であったが、この作品に限っては噂らしきものはほとんど聞いたことがない。そんなわけもあり、長らく放置してしまっていた。そして去年の年末に高村氏の新作「新リア王」が出版され、そちらを先に読もうと思ったのだが、どうやら「新リア王」にはこの「晴子情歌」の登場人物が出ているらしいとのことで、まずは先にこちらから手を付けてみる事にしたという次第である。とはいっても、「新リア王」が出てから、もうずいぶん日が経っているのだが・・・・・・

 それと余談ではあるのだが、このタイトルは前に出版された作品「レディ・ジョーカー」と“じょうか”とかけているのだろうか? (たぶん関係ないと思う)

 本書はミステリ作品ではなく、文学作品というような内容。晴子という母親が息子の彰之に送る手紙と、遠洋漁船に乗り込む彰之の現状とが交互に語られているという形式がとられている。これにより、晴子の幼い頃から、彰之が生まれた過程、彰之が成長し現在に到るまでの様子と、現在の晴子の思いが語られてゆくという、親子の二代記が描かれている。

 ということで、特に物語上メリハリがあるわけでもなく、淡々と話が進められていく。その中で、違和感が感じられたのは晴子の手紙の内容にある。物語上手紙を用いるという構成はしかたがないのかもしれないが、これが息子に読ませるような内容の手紙なのかというのがすごく疑問に思えた。さらには、晴子の母親についてまで書かれているのだが、何ゆえ、晴子自身が生まれてもいないときのことがやたらまざまざと書かれているのかということもかなり気になった。そんなこんなもあり、なかなか感情移入しにくい小説という感じであった。

 後半に入ると、晴子個人の物語というよりは福澤家という政治家であり資産家である“家”が前面に押し出されてくるように感じられ、そこからはまた違った感覚で話を読むことができる。その“家”の中で晴子は一見、淡々と強く生き抜いて来たかのように描かれているのだが、物語の後半の晴子の行動を見てみると、実は抑圧された人生であったのではと感じられるのである。そういった中で晴子は息子に何ら言葉で押し付けることはないのだが、無言で(というより晴子の手紙によって)福澤家という“家”の存在を息子に押し付けているようにも読み取れる。

 実はこの他人から見ると(読んでいる彰之がどう感じているかはよくわからないが)不可解な手紙ではあるのだが、実は晴子自身の吐き出しきれなかった抑圧の全てを自由奔放に生きている息子にぶつけているのではないかと感じられるのである。


四人組がいた。   

2014年08月 文藝春秋 単行本

<内容>
 山奥の限界集落にある集会場。そこに暇を持て余した元村長、元助役、郵便局長、キクエ小母さんの四人が日がな集まる。茶飲み話に明け暮れる退屈な日々・・・・・・と思いきや、四人組が騒動を起こしたり、巻き込まれたりと、波乱万丈な人生が繰り広げられ・・・・・・

<感想>
 積読本がわんさかとある高村氏の本であるが、今年出たこの本は読みやすそうだったので、真っ先に手をつけることに。四人の余生を持て余した老人たちによる村を巻き込んでの波乱万丈な生活ぶりが描かれた短編集。

 読み始めは、限界集落を舞台に、現実的な出来事をユーモア仕立てで描いた作品という気がしていたのだが、話が進むにつれて、とてつもない方向へと話が進んでゆくことに。もはやここまでいくとファンタジーというか、動物たちが擬人化し、人々の世界に普通に分け入っていくとなれば、既に“日本昔話”の世界。四人組の妄想と思えた出来事が、いつのまにやら現実化してしまうという果てのない物語が寒村から送り届けられる。

 ユーモア小説といいつつも、一筋縄ではいなかいストーリー仕立てになっているせいか、はたまた著者ならではの特徴か、思っていたほど読みやすいという感じではなかった。高村氏ならではの小説、という感じはしなかったものの、行き過ぎた展開に通俗の作品を超えるものを印象付けられる。書き始めた時は、ここまでぶっ飛んだ内容にするつもりではなかったのではと思うと、書いている途中にどのような心境の変化があったのかが気になるところ。




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