<内容>
明治三年。脱疽のため右足に続き左足を切断した名女形、澤村田之助の復帰舞台に江戸は沸いた。ところが、その公演中に主治医が惨殺され、さらには狂画師・河鍋狂斎が描いた一枚の幽霊画が新たな殺人を引き起こす。戯作者河竹新七の弟子・峯は捜査に乗りだすが、事件の裏には歌舞伎界の根底をゆるがす呪われた秘密が隠されていた。
角川文庫版にはこの長編の原型となった短編「狂斎幽霊画考」を併せて収録。
<感想>
単に歌舞伎の舞台をミステリーで味付けして紹介するような作品と思いきやクライマックスではかなり本格推理の味が色濃くなっている。いくつか、歌舞伎や演劇などといった舞台を取り扱ったミステリーがある。そういったものは見せ方を成功すると、かなり濃厚な本格ミステリーとなる。ただ、この作品で残念なのは歌舞伎のよさというものをあまり表現しきれてはいなかったかなと感じたこと。それでも処女作でそこまで期待するのは酷なことか。逆に評価すべきはミステリーの部分。事件の背景にある情念や幽霊画からたちのぼるような怨念。これらが見事に表現され、さらには読者を欺くようなトリックさえもそこに融合されている。この構成は見事である。
<内容>
新宿中央公園で、帝都大学の教授・吉井原義が刺殺された!医学界のリーダーがなぜ!? ルポライターであり五年前まで吉井の弟子でもあった、相馬研一郎はこの事件を追うことに。そして久しぶりに訪れた研究所で相馬と同様に吉井の下についていた研究員で相馬の後釜でもあった、九条昭彦の姿を見る。彼もまた、相馬が去った後、誰も知らない理由により吉井の下から去っていったのであった。九条の行方を調べて行くと、彼は新宿の浮浪者街で不思議な少女・トウトとともに世間から背を向けて暮らしていた。
相馬が吉井の事件の背後を調べて行くと、多くの人物が彼に接触してくるようになった。九条はなぜ研究室を去っていったのか? 殺される前の吉井の立場を覆すような不可解な行動の理由は? そして瀕死の吉井がとった不可解な行動の意味は?事件を調べて行くうちに、背後に大きなものが隠れていることを相馬は知ることに・・・・・・
<感想>
医療ミステリーのようでもあるが、登場人物らが医者ではなく研究者であるためか、従来の医療物とはまた異なる印象を受けた。
脳死の問題が、かなり分かりやすく書かれていて、脳死問題が提起されたときに現実に起こりうる医学的な問題のことがよく理解できる。物語の中で最初に起こるのは殺人であるが、読んでいくうちに、誰が殺したのかということはどうでもよくなっている。しかし、その殺人がなぜ起きたのかということや、被害者の生前における変節の理由などといったことが、脳死の背景とうまくからみあっていて、読者をあきさせない。“なぜ”という点に論点を置いたことにより、ミステリーとして成功している。
この話しではうまく、物語の背景と犯罪性を融合させている。ミステリーではさまざまな背景を用いた、いろいろなものが書かれているが、その中でもこれは成功作といえるだろう。
<内容>
店舗を持たず、自分の鑑定眼だけを頼りに骨董を商う「旗師」宇佐美陶子。彼女が同業の橘薫堂から仕入れた唐様切子紺碧碗は、贋作だった。プロを騙す「目利き殺し」に陶子も意趣返しの罠を仕掛けようとするが、橘薫堂の外商・田倉俊子が殺されて、殺人事件に巻き込まれてしまう。
<感想>
ミステリーは始めに謎があり、そしてそれが背景によって構成されていく。しかし、あくまでもミステリーは謎が主体であり、あまり背景の方の説明にページをとられると、その分ミステリーが薄まってしまい、小説というよりは専門書と化してしまいがちになる。こういう小説は多くあり、本格推理小説かと思って読み始めたら、専門的な部分が多くを占め、肝心のミステリーがおざなりになり、専門語の羅列にうんざりしてしまう。
しかしこの「狐罠」に関しては逆の感想を持つことになった。背景となるべき古美術の部分が面白いのである。贋作による「目利き殺し」やら市の競りやら興味深い話に溢れている。これらの駆け引きを書けば十分それがミステリーになりえるのではないかとも思えた。この本を読みすすめていくなかで、かえって殺人事件の要素がじゃまに感じられたほどだ。それよりも古美術の贋作の間での人々の駆け引きを描き、人の死なないミステリーを書いた方がおもしろかったのではないだろうか。そういう作品として真保裕一の偽札作りを描いた「奪取」などがあげられるが、この古美術の世界も十分大きなミステリーの要素を含んでいるに違いない。
<内容>
男子高校生が謎の焼身自殺を遂げた。数年後、作家・阿坂龍一郎宛てに事件の真相を追跡した手紙が、次々と送りつけられる。なぜ阿坂のもとに? そして差出人の正体は? 阿坂は人妻のストーカーに付け狙われ、担当編集者は何者かに殺害された。すべてがひっくり返る驚愕の結末とは!?
<感想>
読んでいるうちに、これは叙述トリックが用いられているのだな、と感じてくる。そしてどのように騙してくれるのかと楽しみになってくる。謎を一気に出さずに小出しにしてくるのもなんともまた、小憎らしいかぎりだ。また、ホラー的要素もからめ、ますます話はスリルを増してくる。まるで折原氏の小説を読んでいるかのようか気がしてきてしまう。そしてラストは・・・・・・
うーーん、そうきましたか。文庫版あとがきに書かれてもいたが、この作品は某社でボツになったという曰くつき。多分、理由はこのラストによるものなのだろう。作者からすれば、きっと、整合性をとって伏線をはり、というように気を使って書いたかと思われるのだが、読者にしてみれば、ひっくり返しすぎて、盆からすべてが落っこちてしまったみたいに感じられた。ん?なんで、なんで?と一瞬納得ができない様相が示されてしまう。もちろん、それなりに理由をつけて最終ページへと進まれるのだが、一度わいてしまった違和感というものはなかなかぬぐえない。
やはり最後にひっくり返すのならば、竹を割ったようにスパーンといったものでないとなかなか普通は理解されないのかもしれない。通常、読者は何度も読み返して、内容を確かめるといったことはしないのだろうから。
<内容>
夭折した童謡詩人・樹来たか子の「秋ノ聲」に書かれた<しゃぼろん、しゃぼろん>という不思議な擬音の正体は? たか子の詩に魅せられた女子大生、郷土史家、刑事、末期癌に冒された男、医師、そしてたか子の遺児・静弥が神無き地・遠誉野に集まり、戦慄の事件が幕を開ける。
<感想>
北森氏の作品のなかで民俗学をベースにした短編の蓮杖那智シリーズというものがある。本書はそれの先駆け的な作品であるといえるだろう。
本書ではひとりの無名の作家の過去について調べていくうちに現在の事件と交錯していくという内容のもの。その事件にからめて民俗学的、精神学的な側面などを取り入れて一つのミステリーとして仕上げられている。
ただ、いろいろな要素が取り入れられているもののこなしきれていないようにも感じられる。また、主となるべき登場人物が何人かいて、それぞれ別の視点で語られるものの、核となるべき人物がいないように感じられ、このへんでもいまいち絞りきられていないという感触を受ける。結局ひとつ言い切ってしまうと冗長ということであろう。わかり易く書かれてはいるものの、物語の構造が先に進むにつれ複雑になりすぎたように感じられた。
この本書のできを考慮して、長編形式よりも短編形式の民俗学ミステリーを書くようになってきたのだろうと思うのだが実際のところはどうであろうか。ただ単に本書にもいくつか記述されているようにネタが多すぎるので長編ではこなしきれないと思っただけかもしれないが。
<内容>
気の利いたビアバー「香菜里屋」のマスター工藤が、常連客達が持ち寄る謎を鮮やかに解き明かす。
「花の下にて春死なむ」
「家族写真」
「終の棲み家」
「殺人者の赤い手」
「七皿は多すぎる」
「魚の交わり」
<感想>
さまざまな事件が起こるのだが、どちらかというと分類としては“日常の謎”系のものに入るような感じがする。そして解決の舞台は決まってバー「香菜里屋」にて、バーのマスターの工藤によって解決される。こういうパターンのものであり、これだけの説明であると多くの類似品がある本のなかの一冊であるかのように思えるが、本書には他にない大人の味わいというような格調の高さが感じられる。その辺は、事件そのものよりも、登場人物の悲哀にスポットがむけられているという点から感じられるのかもしれない。後半の作品になるにつれて、少々ネタが切れてきたのかなという感もあるのだが、それでも短編の名手の北森作品の中でも飛びぬけた一作といえよう。
しかし、この「香菜里屋」使って、他にも短編を書いていけばいいのにと思うのだが、簡単に味のある登場人物を切り捨てて、次の作品ではまったく異なる舞台を次々と作り出していく作家活動には脱帽である。
<再読>2011/5/25
バー“香菜里屋”シリーズは全部で4作。文庫版で全作でそろったので、これを機に最初から最後までなるべく期間を開けずに読み通そうと思い、この「花の下にて春死なむ」から読み始める。
内容はほぼ忘れていたので、新鮮に読むことができた。再読して驚いたのは、こんなに全編にわたって重い内容だったっけ? ということ。バーのマスターが事件を解決するという趣向のものは決して珍しい形態ではないと思う。ただ、こういう趣向のものは軽快な作品が多いように思えたが、この作品は意外と重い。その分、常連客達とのやりとりは軽快さが感じられるものとなっているのだが、扱う事件が異色たるもの。
ここで扱っているものは単なる“事件”ではなく、それぞれが抱える人生までに踏み入っているのである。その分、内容が深く、話が重い。ただし、読み物としては充実感が得られることは確か。
「花の下にて春死なむ」と「魚の交わり」に描かれる放浪する俳人の深い悲しみ。
「家族写真」では、貸し本に挟まれた写真からとある家族の人生が明らかにされる。
「終の棲み家」では、カメラマンの苦悩と被写体となった老夫婦の人生がそれぞれ描かれる。
「殺人者の赤い手」は過去の事件に対する苦しみと、現代の事件に対する恐怖。
「七皿は多すぎる」は鮪を七皿食べる男の苦しみ・・・・・・苦悩というほどでもないか。
<内容>
小劇団「紅神楽」を主宰する女優・紅林ユリエの恋人で同居人のミケさんは料理の達人にして姪探偵。どんなに難しい事件でも、とびきりの料理を作りながら、見事に解決してくれる。でも、そんあミケさん自身にも、誰にも明かせない秘密が・・・・・・
文庫版は特別短編を加筆。
<感想>
各章の題名が料理を表すような表現がなされメニューのようになっている。強烈な味ではないのだが、ひとつひとつが実にほどよい仕上と成っていて、それぞれを味わいながらも次に何が出てくるのかと期待してしまう。そして各短編を食べ終えたとき、それらが一つのフルコースをなし、すばらしい料理であったと舌鼓をうってしまう。
ミステリーのみならず、これは一つの劇団を通した大人の成長譚でもあり、物語としてもきれいにまとまっている。これこそが連作短編というものであるといいたくなるライトミステリーの逸品。
<内容>
老若男女が憩う空中の楽園(プレイランド)、デパートの屋上では毎日のように不思議な事件が起こる。自殺、殺人、失踪、そして奇妙な落し物。しかしここには何があっても動じない傑物がいた。うどん店の主、人呼んでさくら婆ァだ。今日もまた右往左往する客や警備員を濁声で一喝するや、彼女は事件の核心へと切り込んでいく。それにしても何故こんなに怪事件が頻発するのか。さくら婆ァとは何者なのか?
“屋上”を舞台に紡がれる長編連鎖ミステリー!
「はじまりの物語」 (1997年11月号 小説non 「屋上物語」改題)
「波紋のあとさき」 (1998年1月号 小説non)
「SOS・SOS・PHS」 (1998年3月号 小説non)
「挑戦者の憂鬱」 (1998年5月号 小説non)
「帰れない場所」 (1998年7月号 小説non)
「その一日」 (1998年9月号 小説non)
「楽園の終り」 (1998年11月号 小説non)
<感想>
哀愁を感じさせる、義侠心の強いうどんスタンドの婆さん。さくら婆ァ、この人のその存在につきる。
それぞれの事件自体は悲しいものが多く、あまり救われない。さくらが事件に介入し、事件自体が解決にいたっても、必ずしも人々が救われるわけでもないというのに皮肉を感じてしまう。また、事件の語り手をさまざまな“物”に語らせることによって、人々が関与することのできない真実を効果的に描き出している。快刀乱麻のごとく、さくらが事件を一刀両断するのかと思いきやそういうわけでもない。それでもさくら自身の人生必ずしもうまくいくものではない、しかしだからといって・・・・・・という思いが伝わり、決してうまく解決するわけでもなくとも、話自体は厚みをもっているように感じられる。
できれば自分自身の過去から切り離されたところで、再びさくらがどこかで活躍する姿が見られればと望むばかりである。
<内容>
民俗学研究家の東敬大学助教授・蓮丈那智と助手の内藤三國が民俗学のフィールドワークのなかでさまざまな事件に巻き込まれる。そして学会には発表できないファイルをまとめたものがここに記される。
「鬼封絵」
「凶笑面」
「不帰屋」
「双死神」
「邪宗仏」
<感想>
民俗学というものは面白そうだ。実に興味深い。狐罠では骨董の世界を紹介した北森氏であるが、この本では民俗学という学問を中心にしている。北森氏が紹介する題材にはいつも興味深いものを感じる。いや、北森氏が紹介するから面白いのか。
しかしこれを短編にまとめるというのは苦しく、食い足りない気がする。できれば長編として深く読みたいものだ。
<内容>
鮎川哲也賞、日本推理作家協会賞と受賞してきた北森鴻が歩んできた道が短編と共に作者の赤裸々なつぶやきによって語られてゆく。北森鴻の軌跡を描く一冊。
「仮面の遺書」(本格推理1:光文社文庫)
ある画家の焼身自殺。そして彼の作品から読み取れる画家の人生とは・・・・・・
「踊る警官」(孤島の殺人鬼:光文社文庫)
聖域である遺跡に死体を埋めたとの手紙が警察に・・・・・・
「無惨絵の男」(小説宝石 1996年7月号)
とある男の仕事場で他の男が殺されていた! いったい誰が誰を・・・・・・
「ちあき電脳探てい社」(小学三年生 1996年8、9月号)
校内のあかずの倉庫での幽霊騒動! その正体とは・・・・・・
「鬼子母神の選択肢」(新世紀「謎」倶楽部:角川書店)
千光寺で行われた送別会に隠された本当の目的とは・・・・・・
「ランチタイムの小悪魔」(女性自身 1999年3月9、16日号)
オフィスで起こった食中毒騒動の顛末は?
「幇間二人羽織」(贋作館事件:原書房)
同じ時刻に同じ人間が二つの場所に現れるという謎を顎十郎が解く!
<内容>
多摩川沿いの公園で、全身を骨折した惨殺死体が発見された。被害者の身元はすぐにつかめたものの、交友関係がなくどのような人物なのかまったくわからない。ベテラン刑事の原口と新人刑事の又吉は被害者の部屋で一冊のノートを見つける。そのノートの中には被害者が行っていたと思われる、探偵活動について断片的に書かれているようなのだが・・・・・・
<感想>
徐々に被害者の顔を見出していこうとするアプローチが見事な警察小説。
硬派な警察小説として、うまくできているのではないだろうか。まったく不透明な被害者の顔を連作短編によって徐々に浮き彫りにしていくという手法はなかなかのもの。また、話が進んでいくにつれて、逆に被害者自身の人間性というものがますますつかめなくなっていくのだから面白い。そしてそれが最後の解決によって全てが明らかにされ、納得させられてしまう。
と、全体的にはうまくできていると思えるのが、不満要素もいくつかある。最初に硬派な警察小説と書いたものの、話の後半では少々、警察小説っぽくなくなっていったように感じられる。内容を複雑化させるために、他の視点から描いたり等しているのだが、最後まで全編警察小説として通してもらいたかった。あえて奇をてらわずにもっとストレートな警察小説として勝負しても良かったのではないかと感じられる。なにしろ、書くのがうまい実力派の小説家なのだから、直球勝負でも見事なものが書けると思うのだが。
<内容>
博多長浜で屋台のバーをひとりで経営するテッキと結婚相談所の調査員キュータ。二人は昔からの腐れ縁で、キュータはしょっちゅうテッキの屋台に金も払わず入り浸っている。そんな二人がどういうわけか、近所で起こるさまざまな事件に巻き込まれ・・・・・・
「セヴンス・ヘブン」
「地下街のロビンソン」
「夏のおでかけ」
「ハードラック・ナイト」
「親不孝通りディテクティブ」
「センチメンタル・ドライバー」
<感想>
“親不孝通り”というタイトルから大沢在昌氏の「アルバイト探偵」のような親子モノのミステリかと思っていたのだが、そういう内容ではなかった。ジャンルとしてはハードボイルドのような内容になっており、昔馴染みのテッタとキュータの二人がさまざまな事件を依頼されたり、巻き込まれたりしながら解決していくというもの。
ちょっと変わっているのは、テッタとキュータ、二人の視点から章ごとに交互に物語が語られているというところ。
基本的には、普通のハードボイルド・ミステリが展開されているのだが、短編のなかには本格ミステリといってもいいようなレベルのものもあり、だから北森氏の作品は読まずに軽く流すというようなわけにはいかないのである。
今作の中では「地下街のロビンソン」が逸品であった。顔つきは浮浪者のように見えないのだが、裸にダンボールを巻くという浮浪者のような格好をしている者の姿を事件の中にあてはめ、ひとつの解答を見出していくのはなかなか見事と思えた。
その他の作品はどれも普通のミステリという感じであったが、どの作品も物語性、ミステリ性などを含めて、なかなか楽しめる内容となっている。本書も北森氏らしい作品集といえるであろう。
この作品は、一応これ一冊で完結した物語となっているのだが、2006年10月に「親不孝通りラプソディー」という作品が出版され、こちらはテッキとキュータの学生時代の話が描かれたものとなっている(本書にもそれを関連付けるような描写がある)。もし、この本を読んで興味が沸いた人は、本書の内容を忘れないうちにそちらも読んでおけば2倍楽しめることであろう。
<内容>
明治十二年、政商・藤田傳三郎は贋札事件の容疑者として捕らえられる。身に覚えのない傳三郎は容疑を否認するが、贋札の現物を見せられ、贋札の見分け方となる足の数の欠けた蜻蛉を見せられたとき、ある一人の人物の姿を思い浮かべたのであった。
時は明治維新がなる前、長州藩にて暮らす傳三郎は幼馴染で“とんぼ”というあだ名を付けられ馬鹿にされていた宇三郎という男と共に日々を過ごしていた。そして奇兵隊結成、禁門の変と幕末の動乱の中に傳三郎と宇三郎は巻き込まれてゆくのであったが・・・・・・
世に言われる“藤田贋札事件”を独自の観点から描いた歴史長編。
<感想>
本当に北森氏は何でも書くのだなと感心するほかない。本書は幕末から明治にかけて、政府お抱えの商人として活躍した藤田傳三郎という人物を描いた作品となっている。といっても、全てが本当の話と言うわけではなく、史実と認められる事柄を北森氏なりの解釈でつなぎ合わせ、一つの物語として創作したものであろうと思われる。私自身は、明治維新の頃の人物や歴史に興味を持ったこともあり、その時代に関わる小説を何冊か読んでいたので、本書をとても興味深く読むことができた。
本書は藤田傳三郎という歴史上に光が当てられていた人物と、宇三郎という(本当に歴史上の人物なのかは未確認)その影に隠れた人物の二人の視点から書かれている。物語の序盤では傳三郎にスポットが多く当てられており、宇三郎はあくまでもかざりという扱いでしかないと言う風に思われた。しかし、宇三郎という存在が物語が進むにつれて徐々に前へ前へと出始めて、そしていつしか(光・傳三郎)、(影・宇三郎)という関係でさえも逆転してしまうかのように描かれている。
この辺は、どちらが良いとか悪いという事ではなく、動乱の流れの中に飲み込まれてしまい、そのように成らざるを得なかったというやるせなさが描かれているように感じられた。そして本書のタイトルとなっている“蜻蛉始末”という言葉が最後に暗く不気味に響き渡るようでもあり、印象的な余韻を残す物語となっている。
<内容>
人の不幸を予言するということで有名になった“フォーチュンブック”。その内容とあまりの反響に書店組合が販売自粛をしたほどであった。その“フォーチュンブック”を一軒の本屋で手にした数人の者達が数奇な運命をたどる事に・・・・・
<感想>
北森氏の作品の中には連作短編集というジャンルのものが多く見受けられるのだが、本書はその中でも随一の完成度を誇る作品と言ってよいであろう。
時代は1967年から20年の時の経過の中で語られる大きな流れの物語となっている。しかも、それらが時代順に語られるのではなく、物語相互が行ったりきたりをしながら一つの大きな物語を編み出すように描かれている。さらには、一つ一つの物語が単独の短編という形としても整えられているのだから恐れ入るしかない。
また本書は時代の流れを通しながら、その年代で起きた大きな事件を思い起こすようにも描かれている。そしてその大きな事件のうちのいくつかが本書の物語に重要な関わりを持つように描かれている。ゆえに実際の事件にそって書かれているところもあり、オリジナリティという点では乏しさも感じられるのだが、そういった事よりも本書を連作短編という形をとりながら一つの大きな物語に仕上げたという構成がすばらしい作品といえよう。
この本はページ数もさほど厚くなく手軽に読める本である。ちょっと時間があるときにでも気軽に読んでみてはいかがか。安い文庫で手軽な感覚で壮大な物語を味わうことができるのだから、これはもうお徳な本であるとしかいいようがない。お薦めの一冊。
<内容>
東京は下北沢にある骨董品屋「雅蘭堂」。店主・越名の元に持ち込まれる数々の骨董品。持ち寄せられる品々には様々な思いや秘密が込められており・・・・・・。
「ベトナム ジッポー・1967」
「ジャンクカメラ・キッズ」
「古九谷焼幻化」
「孔雀狂想曲」
「キリコ・キリコ」
「幻・風景」
「根付け供養」
「人形転生」
<感想>
どうやらこの骨董屋・雅蘭堂の店主の越名は“冬狐堂”のシリーズにも何回か顔を出している模様。なんとなくそういう人物がいたという憶えはあるが、名前まではさすがに憶えていなかった。
ということで、“冬狐堂”シリーズ同様にこちらも骨董の世界を扱ったシリーズなのだが、“冬狐堂”に比べても全く劣らない内容であり、その内容の濃さに驚いてしまった。というよりも、これらは“冬狐堂”のシリーズでやっても良かったのではと思わないでもないが、あちらのほうは内容に有る程度の制約がありそうなので、そういった制約なしに何でも気楽に扱うことのできる骨董シリーズを書きたかったと言うことで始められたのかもしれない。
扱われる骨董品はさまざまである。ライター、カメラ、九谷焼、硝子細工、根付け、等々。骨董品という縛りがあるだけで、ある意味ノンジャンルといってもいいのかもしれない。にもかかわらず、そのひとつひとつに骨董品という背景があり、それらを細かく書ききっていくというところは、さすがに北森氏ならではの手腕である。
特に印象深かった作品は「キリコ・キリコ」。これは毒殺ミステリーとしても読むことができるので、本格推理小説ファンも必見である。
冬狐堂などの骨董ミステリーファンにも関わらず、本書を読み逃している人はただちに読むべし!
<内容>
“冬狐堂”の屋号を持つ旗師の宇佐見陶子は顧客に頼まれ“市”にて二枚組みの青銅鏡を競りおとした。しかし家に帰りその青銅鏡を確認してみると、競り落としたものとは違う別の鏡が彼女の目の前に現れる。しかもその鏡とは“魔鏡”と呼ばれるたぐいのものであり、陶子はその鏡に魅了されることに・・・・・・
その鏡の事件の後、陶子は一枚の絵をめぐる盗難事件に巻き込まれ、贋作作りの疑いをかけられて商売に必要な鑑札を失うことに。なんらかの事件に巻き込まれていることに薄々感じていた陶子は一連の事件の裏を暴くことを決意する。そしてその裏に見え隠れする大きな影の意志は“税所コレクション”と呼ばれるものに深く関わっていたのだった。
失ったものを取り戻すべくために陶子は、蓮丈那智らと共に考古学会でタブー視されている“税所コレクション”の謎に挑む!
<感想>
狐罠に続く、冬狐堂の第2弾。さらには他シリーズの蓮杖那智までもを加えて物語が進められていく。この長編が蓮杖那智シリーズの短編の一作とリンクしているところも面白い。読み返してみて、なるほどこの場面なのかと楽しむこともできた。
さて、本書であるが陶子が鑑札を失いながらも単身ではなく、他の人々の力を借りて“税所コレクション”の闇の中へと分け入っていく。とはいいつつもその税所コレクション自体との対決というよりは、それらに昔関係していたり、利用したりする者達との対決というほうが正確かもしれない。全体的にミステリというよりは、一つの考古学や旗師などの世界を描いた物語という趣が強い。であるからして、読者は先を見通すということは難しく、謎というよりも知識によって物語が進められていく。ただその書き方が(北森氏に対していうのもいまさらながら)実にわかり易く描かれている。細部については判らなくとも、それらの世界に読者が興味を持てるようには描かれている。そしてさらには、陶子の旗師としてまたは人間としての成長も描かれている。
この旗師や考古学を通したミステリの濃厚な世界を味わえるという意味で異色であり、かつ貴重な一作であるといえよう。
<内容>
異端にして孤高の民俗学者・蓮丈那智の元に「『特殊な形状の神』を調査して欲しい」との手紙が届いた。神とは「即身仏」のことらしい。類例の無い情報に興味を示し、現地に赴いた那智と助手の三國dが、村での調査を終えたのち、手紙の差出人が謎の失踪を遂げてしまう(「触身仏」)。日本人の根底にある原風景を掘り起こす「本格民俗学ミステリ」。第二弾。
「秘供養」 (小説新潮 平成13年03月号)
「大黒闇」 (小説新潮 平成13年06月号)
「死満瓊」 (小説新潮 平成13年10月号)
「触身仏」 (小説新潮 平成14年02月号)
「御蔭講」 (小説新潮 平成14年08月号)
<感想>
“民俗学”というものを実に楽しませてくれるこのシリーズ、待ちに待った続編。
相変らず、これでもかといわんばかりの色々な切り口から“民俗学”における考察を展開させてゆく。よくこれだけネタが思いつくなとただただ関心の内容である。
それでもこの作品にはミステリーとの比重とか、その他あれこれと完成度が高いゆえの注文を付けたくなるのだが、これはあくまでもシリーズ短編として形式ができあがっているので、なんだかんだといってもしかたがないのだろう。ひとつ付け加えるとするならば、“狐”シリーズに劣らない“蓮丈那智”ものの短編を読ませてもらいたいというだけである。
<内容>
「陶 鬼」 (オール讀物 2001年7月号)
「『永久笑み』の少女」 (オール讀物 2001年12月号)
「緋友禅」 (オール讀物 2002年5月号)
「奇縁円空」 (別冊文藝春秋 2002年9月号・11月号)
<感想>
魑魅魍魎蠢く、骨董の世界を描いた4編。主人公は冬狐堂こと宇佐見陶子。
「陶鬼」
のっけから骨董の世界においての駆け引きをまざまざと見せ付けてくれる。本編は陶子に業界においての生き方を身をもって教えたものが殺されるという事件が起こる。事件を通して、職人としての生き様、執着、そして後始末という概念を示唆している。本書の中ではこの作品こそ一番業というものが深く感じられる。
「『永久笑み』の少女」
古墳等からの出土品について描かれる一作。陶子の元に埴輪を持ち込んだ男が死亡する。陶子はある人物に一筆したためることにするのだが・・・・・・。その一筆により陶子が“永久笑みの少女”、“埴輪”、から事件への核心へと迫っていく様は圧巻。ミステリとして完成された一編。
「緋友禅」
陶子は友禅を個人で展示している男の才能を見極め、その作品のすべてを買い取った。しかしその男は変死し、さらに男の作品は他の者の名義にて姿を変えて展示されていた。
染色の世界が描かれた一編。陶子があの手この手にて相手の化けの皮をはごうと翻弄するさまが心地よい。美術界の掟を知らしめる一編。
「奇縁円空」
これも木彫りの円空の贋作を通して職人の世界が描かれる。さらには、そこに生きてきた二人の血のつながらない兄弟の絆が見え隠れしてゆく。また、この作品はダイイングメッセージものとしても見事な出来になっている。被害者の残したものが加害者を見事に指し示す一編として出来上がっている。
<内容>
「十五周年」 (IN☆POCKET:2002年1月号)
「桜 宵」 (IN☆POCKET:2002年4月号)
「犬のお告げ」 (IN☆POCKET:2002年7月号)
「旅人の真実」 (IN☆POCKET:2002年11月号)
「約 束」 (IN☆POCKET:2003年1月号)
<感想>
短編の名手・北森氏が放つ、大人の香りが漂う珠玉の五編。本書の舞台は「花の下にて春死なむ」のビアバー“香菜里屋”が舞台。北森氏の短編作品は1作のみでシリーズ化しないものが多いのだが、ビアバー“香菜里屋”はシリーズとしてこれからも続いていきそうである。
本書にて楽しんでもらいたいのは、まずその雰囲気。ここで取り扱っているバーのように、飲みにいくだけでなく、雰囲気を楽しみにいくという店が人によってはあるのではないだろうか。まさしく本書はそういうにふさわしい本となっている。まずは雰囲気を楽しみ、そして出されるミステリーをたっぷりと味わうという趣向を堪能してもらいたい。
「十五周年」では、ひとつの奇妙な誘いが、実は予想だにもしない大きな仕掛けが隠されている。
「桜 宵」は女の怨念、もしくは情念がじわじわと迫り来る。
「犬のお告げ」というとチェスタトンを思い浮かべるが、あまり関係ない。本編ではリストラを主題に描かれた作品になっている。会社の地位を巡る男たちの水面下の争いが印象的。
「旅人の真実」では、金色のカクテルを捜す男の歪んだ心情が描かれる。“香菜里屋”のライバル的存在“バー香月”の登場にも目が離せない。
「約 束」久方ぶりにあった男女の心のすれちがいと執念ともいえる思い込みに心胆を寒からしめる一編。
<再読>2011/6/2
文庫にて再読。「花の下にて春死なむ」に続き、連続で読んでみた。
ビアバー“香菜里屋”を舞台に、バーテンダーの工藤がさまざまな謎を解き明かすというもの。ただし、謎というよりは、人生の物語を読み解くというような内容。
前作を再読したときにも思ったのだが、覚えていた印象よりも暗い内容だなと。バーの雰囲気は努めて明るくしているものの、読み解こうとする謎が人生に深く踏み込まざるを得ないものゆえに、暗い内容になるのはいたしかないことか。
「桜宵」などは、一見良い話に見えなくもないのだが、その奥に隠される心情は決して良心のみで計れるものではあるまい。
その他の話はどれもが見事なくらい悪意に染まりつくされている。「約束」などは最初から最後までどす黒い。
唯一救われるのは「十五周年」ともいえるのだが、そこに出てきた登場人物が「約束」の話により締められてしまうので、結局のところ暗さと悪意に縁どられてしまう。
良い作品には違いないのだが、考えれば考えるほど奥が深いというか、根が深い小説である。
<内容>
元窃盗犯の有馬次郎は縁あって大悲閣千光寺の住職に助けられ、今では寺の寺男として働いている。そんな彼らの元に、みやこ新聞の折原けいと、京都府警の碇屋警部がさまざまな事件を持ち込んでくる。寺に住む二人が協力して謎を解く、裏京都ミステリー。
「不動明王の憂鬱」 (ジャーロ:2002年冬号)
「異教徒の晩餐」 (ジャーロ:2002年春号)
「鮎踊る夜に」 (ジャーロ:2002年夏号)
「不如意の人」 (ジャーロ:2002年秋号)
「支那そば館の謎」 (ジャーロ:2003年冬号)
「居酒屋 十兵衛」 (ジャーロ:2003年春号 「居酒屋」改題)
<感想>
なかなかコミカルで面白い内容に仕上がっている。ミステリーのネタから考えると蓮丈那智シリーズなどの少し重めの小説では使いにくいようなものを軽いノリの小説として仕上げたというように感じられる。これからもシリーズ化が続くと面白いだろうなとも思う反面、小説家の水森堅というのはちょっとやりすぎだと思う。
ミステリーとしても面白いできに仕上がっている。特に「異教徒の晩餐」における“鯖の棒寿司”についての解釈が面白い。推理というより知識によるものであるのだが、食べ物を用いたミステリーを書くのはさすがにうまい。
知られざる京都を紹介するような面もあり、いろいろな意味で楽しめる一冊となっている。とはいうもののタイトルの「支那そば館の謎」というのは本書の内容を表すにはふさわしくないようにも思えるのだが。