渚 水帆の小さな童話 No.2



じゃんけんぴょん         
                    なぎさ 水帆


「じゃんけんぴょん」

 花菜子ちゃんが、いつものように元気よくじゃんけんをしている。

 花の菜っ葉の子供と書いて、「はなこ」と読む。

 通称、はなちゃんだ。


「もういちど、じゃんけんぴょん!」

 はなちゃんの威勢のよすぎる掛け声が、赤いトマトが並べられた八百屋さんの店先にも緑色のインキで美容院と描かれたパーマ屋にも新しく出来たばかりの帽子屋さんの店先にも、そして、わたしの勉強部屋にも響きわたっている。


「はなちゃん元気だね」

 プール帰りの女子高生達に声を掛けられて嬉しそうに肩をすくめる、はなちゃん。

 彼女たちが持っている色とりどりのかき氷をもの欲しげに見ている。

「あげようか? 」

「うん」

 こくんと頷く、はなちゃん。


 青と白のストライプのストローで器用に氷をすくって食べている。

「おいしい?」

「うん」

 女子高校生たちの、賑やかな甲高い笑い声が昼下がりの商店街に木霊している。


 わたしは、岩崎 ひとみ。

 高校3年生、近くで多少お嬢様校と評判のカトリック系の女子高校に毎日通っている。

 それほど女子高に憧れというものがあったわけでもないけれど、両親の強い希望で入学することになってからもう3年目。

 夏休みも高校3年生になるともうあんまり楽しくない。

 塾の行き帰りと、学校の先生が好意で開催してくれている補講と…もちろん自宅での学習。

 もうプールにも行けない。

 仲良しの友達から、今日は全く電話が掛かってこなかった。

「千恵ちゃんどうしてるのかな」

 ひとり言を呟いてみると、驚くほど一人の部屋がしーんとして感じられて。

 クーラーで冷えた部屋からそっとクリーム色のカーディガンを羽織って逃げ出した。

 ほうじ茶を飲みに下に降りると、お母さんがリビングで編物をしていた。

「めずらしいね、お母さん」

 はっと振り向いたお母さんが、顔を上げて、

「子供が産まれるかもしれないの、ひとみの妹になるかもしれないのよ」

 そっと笑顔でささやいてくれた。

「ふーん」

 平然を装ってみたけれど、心の動揺は隠せなかった。

 ピンク色の毛糸を眺めながら、内心うんざりしている自分がいた。

「女の子ってもう決まっているの?」

「そんな予感がするの。ひとみの時もそうだったから」

「わたしが女の子だと思っていたの?」

「そうよ」

 ちょっと嬉しいなと思いながらも、これから受験に突入するわたしの協力はしてもらえないんだなと確信してしまった。

 お母さんは前からそういう人だ。


 同級生で学年1番を争うような、なつきのお母さんとは違って試験勉強の時に、夜食を作ってくれたり、コピーをとってきてくれたりなど絶対にしてくれたことなどない。

「いつ、出産予定?」

「来年の2月の初めくらいかしら」

「そうなんだ」

「ひとみには迷惑をかけるね」

 黙ってほうじ茶を飲むわたしの目の前には来年まで見越した受験カレンダーがこれみよがしに貼り付けてあった。

 河合塾の全国統一模擬試験の定期的な間隔をあけてチェックされた赤丸と、某有名女子大学の推薦入学試験の緑の丸の次には、本命の国立の外国語大学の入学試験の目印の青丸がくっきりと2月8日の日付に「入試本番!」という右上がりの字と共に描かれていた。

「ひとみの入学試験の日までに、もう産まれているかもしれないわね」

 おなかを愛しそうにさすっているお母さんの横で猫のミーコがにゃあといきなり甘えた鳴き声をあげた。

「ミーコにエサエサ」

 カツオの絵が描かれた赤いラベルの缶詰を勢いよく開けて、水色のお皿に移した。

「ミーコの世話もよろしくね」

 久しぶりに幸せそうな笑みを浮かべるお母さんに悪いとは思いながらも、受験の当日も朝ごはんを誰も作ってくれないことを考えると胃がきりきりと痛んだ。

「子供を産んだら、すぐには退院出来ないんでしょ?」

「そう、最低1週間は安静にしておかないといけないらしいの」

 外ではまだじゃんけんの続きをやっていて、

「負けたー!」というはなちゃんの悔しそうな泣き声が響いていた。

 久しぶりに顔を出した近所の塾の帰り道で、突然胃がきりきりと痛み出した。

 塾のクーラーがよく効きすぎていたのでおなかが冷えたみたいだ。

 携帯電話の着信はなかった。

 千恵ちゃんに「おなかが痛い」とメールを打ったけれど、すぐには返事は来なかった。

 しばらく痛みを我慢して歩いたけれど、吐き気と一緒にひどい胸のムカムカが一気に襲ってきた。

 いたいよ。いたいよ。

 咄嗟に近くにあった電信柱の側にしゃがみこんだ。

 ミーコのとは違う、野良犬のひどいアンモニア臭がひどかったが、そんなことには構っていられなかった。

 手で口を押さえながら、じっとしていた。

 静かにしていたら少しは気分がよくなるかと思ったから。

 暑さと気分の悪さで気持ちの悪い汗が額からも腋からもじんわり滲み出してきて、まっ白なカットソーが汗でぐしゃぐしゃになっていくのを肌で感じていた。

 誰か来てくれないかな、小学校の時の担任の先生とか偶然通りかかってくれないかな…。

 優しかった中本先生のふんわりした笑顔が思い浮かんだ。

 近くの文化住宅からは、そろそろ夕餉の支度始まったようで、ごはんの炊いている独特のむーっとした匂いとみりんとしょう油の香りが漂ってきた。

 その時、

「おねえちゃん、じゃんけんしよう!」

 聞き慣れた声が近くでした。顔を上げると、はなちゃんの顔がすぐそこにあった。

 なんだかほっとした。

 わたしの顔色が悪いのを見て、

「おねえちゃん、だいじょうぶ?」

 と顔をしげしげ見ながら尋ねてきた。

「おなかがいたいの」

 不自然な姿勢で長くいたので、すぐには立ち上がれそうになかった。

 はなちゃんはしばらく考えたあと、

「おねえちゃん、いいものを持ってるよ」

 ポケットをごそごそかき回したあとに、はなちゃんが出したものは。

 糸くずを引いた、1つぶの征露丸(せいろがん)だった。

「これ、飲んでみて」

 はいっと元気よく差し出すはなちゃんの好意を裏切れなくて。

 無理して作った笑顔で、苦い苦い征露丸を一飲みした。

 おなかが、大きな音でぐーっと鳴った。


 しばらくすると、驚くほど爽快な気持ちになって汗がすーっと引きだした。

 電信柱に手をついて思い切って立ち上がると、意外と平気に歩けた。

「おねえちゃん、もうだいじょうぶ?」

「うん」

 見上げた夕焼けが綺麗だった。

「おねえちゃん」

 振り向いたわたしに向かって、

「じゃんけんしよう!」

 はなちゃんが元気いっぱいに声を張り上げた。

「いいよ」

 それじゃあ、と右手を左手で隠した。

「じゃんけんぴょん!」

 はなちゃんの小さな手がぱーを出したので、後出しで、ちょっと遅れてぐーを出した。

「勝った!!」

 はなちゃんの満面の笑顔を見て、ふふふっとこっちも笑顔が戻った。

 ほんとにはなちゃんは負けず嫌いな女の子だ。

「さっきはおなかいたのお薬ありがとうね」

 うんと笑って、おねえちゃん元気でねと来た道と逆の方向に走り出した。

「じゃんけんぴょん!」

 また違う人をつかまえて、じゃんけんをしているみたいだ。

 はなちゃんのおかげでおなかはすっかり正常になって、もうどこも痛くなかった。


 振り返るともうはなちゃんの姿はなかった。

 来年の2月に産まれてくる妹がはなちゃんみたいな女の子ならいいなと思った。

 お母さんに優しくしてあげよう。

 夕焼け空はすっかり赤く染まって、はなちゃんの頬っぺのようだった。

 はなちゃんありがとうね。

 今度あったときには、はなちゃんの好きな苺のキャンディーをお返しにあげよう。



                                  おわり







千尋さん作
HOME  No.1  No.3  No.4  No.5