昭和47年2月18日
すみれは目前に広がる、白銀の世界を見ていた。
この町には雪しかない。
白く暖かい雪は、身を引き裂く程の痛みを、長い長い月日をかけて癒してくれた。
あれからもう3年。
ようやく笑えるようになった。
未だ胸をチクリと刺す痛みも、無理に忘れる事はないのだと開き直るようになった。
立ち上がれない程ボロボロになった自分に、両親や町の人間達は、何も言わず手を差し伸べてくれた。

「そろそろ甘えるのも卒業しなきゃね…」

すみれは生まれ育った、この町が愛おしかった。




「こんにちわー」
「あら、雪乃さん。ちょっと待ってね…すみれ、雪乃さん来たわよ」
「母さん、買い出しに行ってくるけど、お米の他に何かいるものある?」
すみれはお気に入りのコートを羽織り、マフラーをぐるりと巻いた。玄関の向こうには、軽トラックがエンジンをかけたまま、すみれと雪乃を待っている。
「特にお客さんが来る予定もないしねえ…あ、そうそう。お味噌をかって来て頂戴」
「はあい、行って来ます」
すみれはくるりと顔を向けて笑った。その笑顔を見て、母親は泣きそうになる。

 この子にはもう、辛い想いはさせたくない
 もう充分だ
 あんな想いはもう二度とさせたくない

からからと音を立てて、玄関のガラス戸が閉まる。
母親は小さな溜め息を一つ吐いた。
安堵の息なのか、それとも別の感情なのか、それは自分でもわからなかった。




雪の轍をなぞるように、車はゆっくりと市街地へ進む。
「明日、お客さんが来るんですよ」
運転しているのは、真下という気の良さそうな青年で、雪乃の夫だ。
「ふうん、寒いのにねえ…スキー客?」
「スケートやりたいって。よく来るお客さんなんです」
「そっかー、ウチも早く暖房機具入れたいなあ…夏しかお客さん来ないんじゃ、商売上がったりよ」

すみれの家も、真下夫妻の家も、共に山荘の管理を仕事にしている。
町は過疎化が進み、すみれと同じ年代の若者は皆、高度経済成長に湧く東京へと憧れ、飛び出していった。
あの頃の自分のように。
すみれが町に帰って来た時、まわりは皆年寄りばかりで、甘える事はできても、友達と呼べる人はいなかった。
幼馴染みの青島は警察官となり、市街地へと行ってしまって、帰省することもほとんどなかった。
寂しさに押しつぶされそうになった時、若い夫婦が東京からやって来た。
「ここの管理人って、もう決まっているんでしょうか?」
山荘を建築中の大工に、真下は声をかけた。
「妻が…大変気に入ってしまって。ここの管理人になるには、どこに連絡すればいいんでしょうかね」
建築現場を眺めていたすみれは、山荘の持ち主である企業の連絡先を教えてやった。
いつしか山荘は完成し、真下夫妻はこの軽井沢で新しい生活を始めた。
雪乃も歳の近いすみれを頼りにし、友情が深まるのにそう時間はかからなかった。

「もう少し近くにお店があると助かるんですけどね」
がらがらとチェーンの立てる音だけが聞こえる雪道を、軽トラックは慎重に走る。
「いつもありがと、買い出し誘ってくれて」
すみれがそう言うと、雪乃の膝で眠っていた白い犬が目を覚ました。
「いいんですよ、すみれさんと一緒だと楽しいし、ほら、チロだって嬉しいって」
ねえチロ、と呼ばれた犬は、尻尾を大きく振りながらすみれにじゃれついた。




 絶望の淵から救ってくれたのは
 暖かな父と母の愛情

 寂しさから解放してくれたのは
 優しい若夫婦の友情




 私はもう大丈夫




すみれはようやく取り戻した笑顔を浮かべた。









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