其の拾参

「嫌です」
「何を言ってるんだい、今までずっと可愛がってもらってるご贔屓だろう。いき
なり振るなんて池神様に失礼じゃないか」



失礼なのはどちらだ、と藤室は思った。
あの男は、あの時わざと俊作を呼び出し、自分を屋敷まで呼んだ。





見せつける為に。





名前を聞いただけでも吐き気がする。次に声がかかっても絶対に振ってやる、と
心に決めた。
もう二度とあんな男に抱かれるものか。
「とにかく嫌です。それに私はお客を選べる筈です」
「しかしなあ、太夫。池神様は南の御奉行様なんだよ?お役人に睨まれちまった
ら、ウチの見世だって潰されちまうよ」
そこまで言われてしまうと、藤室は頷くしかなかった。
何も分からない子供を、ここまで面倒見てくれた恩を仇で返す訳にも行かない。
「…わかりました」
「そんなに嫌がるなんて、池神様に酷い仕打ちでも受けたのかい?」
言える訳がない。あんな惨めな事。
藤室は口を噤んで、支度をしに部屋へと戻った。










「お待たせ致しました」
襖を開けると、いつものいやらしい笑みを浮かべた池神がいる。
顔を見るのも嫌で、俯いたまま歩み寄ると、盃を突き出された。手に銚子を持ち
酌をしてやる。
このまま酒を飲んで帰るだけならどんなにいいだろう。
吉田と同じ役人の癖に、この男は粋な遊び方を知らない。金で買われる人間にも
心はあるというのに。
俯いたままの藤室に、笑いを含めた声で池神は囁く。
「この前の遊びはなかなかだったとは思わんか?」





背筋がぞっと凍るような言葉だった。
あんな事を、遊びだと?
藤室は眉を寄せ、きっと池神を睨み付ける。
口の端を上げ、ニヤリと池神が笑う。
「あの若造が入ってきた時の締め付けは堪らなかったぞ?」
身体中の血液が沸騰し、ざあっと音を立てて頭に駆け上がってくる。
視界が怒りで紅く染まり、目の前の男を見た。
「…あまりに遊びが過ぎます」
「その怒った顔がまた美しい…あの男がお前の間夫か?」





もうこれ以上、この男と一緒にいる事が苦痛になってくる。
この顔を殴ってやれるのなら、この男を殺せるのなら。
しかしこんな男でも客なのだ。自分は客を殴る事さえ出来はしない。
「気分が悪うございます。今宵はもうお帰り下さいまし」
店主には申し訳ないと思ったが、もう無理だと藤室は立ち上がった。



一一一一一一殺すよりましだろう?



その場から離れようとする藤室の手を池神が掴む。
「…っ何を」
「太夫、儂の処へ来ぬか?」
「…?」
「儂がそなたを身請けしようというのじゃ」

一一一一一一冗談じゃない!

掴まれた手首を振り解こうと、藤室は身を捩った。
しかし池神の手は更に力を込め、手首には鈍い痛みが走る。
「…嫌です」
「儂の側におれば何不自由なく生きていける。何が不満じゃ?」








冗談じゃない。
お前の物になるくらいなら。
死んだ方がましだ。








「あのような仕打ちをされて…身請けされたいとは思いませぬ!」
バシン、と藤室の頬が張られた。
「金で身体を売る淫売の癖に、偉そうな事を抜かすな!」
「…っ!」
「それとも…あの坊主とおはぐろどぶで心中するか?」
黒い瞳の力が、ぐ、と強まる。
強い意志を表すはっきりとした声で、藤室は答えた。
「…貴方の物になるくらいならば、私はそちらを選びます」
「貴様っ…!」










白く細い首筋を、醜い男の指が締め付ける。
気管を指で潰され、蛙のような声が藤室の口から漏れた。
「…ぐっ…あ…」
ぐいぐいと締め付けられ、意識が遠のいていく。

一一一一一一こんな男の手で死ぬなんて

腕を外そうと彷徨う手が、こつりと銚子に触れる。
掴んだ銚子を、襖に向かって放った。
バリン!
その音に何事かと見世の者が部屋の前まで駆け付ける。
「お客さま?どうかなさいましたか?お客さま!?…入りますよ!」
襖をガラリと開けると、池神が藤室の首を絞めている。
「お客さま!」
池神は我に帰り、藤室の首にかけていた手を離し、激しく咳き込む藤室を、ただ
呆然と見下ろした。
「…お帰り下さい」
ぞおっとするような冷たい声で、藤室が呟く。
「もう二度と来るな!」













怒りに濡れる黒い瞳が。
















何よりも美しい、と池神は思った。

 

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