其の拾
「おいクソガキ」
「なによクソオヤジ」
「…ちょっと協力しろ」





「どお〜っしても一緒に食べに行くの!」
すみれが物凄い形相で店に来たと思ったら、「今日も外で写生させてね!」と店
主に強引に頼み込み、藤室は街へと連れ出された。
「…すみれ、私は別に食べたくない」
「柏木屋の白玉あんみつ!絶対一緒に食べるの!!」
腕を取られずるずると引かれて歩く。
今日のすみれは一体どうしたのだろう。
いつもはこんなに強引な子ではないのに。
…それに、街に出るような気分ではないのに。
藤室は溜め息を吐きながら、すみれに連れられて街を歩いた。








「親方さん、ちょっとあそこのバカ借りていいかい?」
「バカ?…ああ、俊作かい?そうさなあ、半刻くれえならいいぜ。おい俊作、お
前にお客さんだ」
和久に声を掛けられ、足場から見下ろすと一倉が立っていた。
「今行きます」
ひょい、と身軽な動きで足場から降りる姿は流石だ、と一倉は感心する。
「こないだは…ありがとうございました」
「殴られてありがとうってのもねえけどな。今日は馬鹿に素直じゃねえか」
「ああ、あんたに礼を言おうと思って」
「礼?」
「あんたのお陰で目が覚めたっつうか…ようやく分かりました」
「何が」
「オレの生きてる意味」
一倉は少し面喰らってしまった。
いきなり何を言い出すかと思ったら。まったく恥ずかしいガキだ。
それがこいつの魅力なんだろう。
「まあ、そんな話はまた今度だ。ちょっとツラ貸せ」











「すみれ、こんな川沿いに甘味処なんてあるのか?」
「…近道なの。いいから付いてきて」
隅田川沿いの土手を歩く。桜の蕾はまだ固く、春はもう少し先だということを教
えてくれる。
どんなに冬が辛くても、春は必ずやってくるけれど。
私は死ぬまでこのままなのだろう、と思う。
川の側では、釣り糸を垂らす子供。











「いいか、逃げんなよ」
「何、何が?」
「これからケリを付けてもらう。どっちにしろハッキリさせねえとどうしようも
ねえからな」
「だから何が」
「いいから、お前は逃げんな。それだけだ」
現場の近くの土手まで連れてこられて、一倉は帰って行ってしまった。

一一一一一逃げるな、か








今までずっと逃げて来た。
生きていく事から。
もう、逃げない。
全ての事から逃げたりしない。










「いた」
すみれが誰かを見付けた。
すみれの視線の先を追う。





一一一一一一憎らしくて、愛おしい男





「…帰る」
くるりと踵を返そうとした藤室を、すみれが止めた。
「逃げないで。もう逃げちゃダメだよ」
「…どんな顔して会えばいいというんだ!」





裏切られて。
あんな姿を見られて。
それでもまだ、想っていて。





「好きなんでしょう?ちゃんと伝えなきゃ、好きだって」
「伝えてどうなる?私は花街で身体を売ってるような男だ。あの子だって迷惑な
だけだろう!」
「太夫!」
ぐ、とすみれの顔つきが変わる。
「俊作は確かにバカだけど、そんなちっぽけな男じゃない。私が保証するから」
そう言ってすみれは懐から小さな包みを取り出した。
濃紺色のお守り。
「お前…」
「会えた時に渡すんでしょう?」
「…」
「お願い、逃げないで。ちゃんと俊作と向き合って」
そして藤室は、歩き出した。















男は藤室を見て、一瞬驚いた顔をして、その後優しい笑みを浮かべた。

一一一一一見たかった、ずっと見ていたかった笑顔。

藤室は彼に歩み寄り、思い切りその頬を張った。
パシン、という音がやけに耳に響く。
痛みの次に俊作が感じたのは、柔らかい唇の感触。










言いたい事は沢山あった。
何故他の男に抱かせた?
何故会いに来てくれなかった?
何故、あんな私を見たのに。
そんなに優しく笑う?










とても傷付けた。
貴方の気持ちを、知らない振りして逃げた。
気付くのが遅すぎた。
だけどもう、逃げないから。









 


言葉なんていらない。












触れていた唇がゆっくりと離れ、回された腕はそのまま。
「…何故真下屋の息子に抱かせた?」
「ごめんなさい」
「何故会いに来てくれなかった?」
「うん」
「…何故…お前はそんなに優しく笑う…?」
俊作は溢れる涙を唇でそっと拭いながら言う。
「貴方が好きだから…やっと分かったんだ」
閉じていた目蓋をゆるゆると開き、目の前の男を見た。
欲しかった言葉。
欲しかった笑顔。
「…私は…金を貰えば誰にだって抱かれるような人間だ…それに…男、だ」
「うん…でも、貴方が好きだよ」
今度は俊作から唇を寄せた。
とてもとても、優しい口付け。
いつまでも、こうしていたいと思った。










「…私も…お前が好きだ…」










「なるようになったか」
「何か私達ってすっごいイイ人じゃない?」
「あいつらが落ち着いてくれんとこっちまで巻き込まれる」
「そおよねえ。…あ〜あ、あんみつ食べに行こ〜っと。奢ってくれんでしょ?」
「嫌だ」
「協力してやったじゃないのさ」
「だったらあの二人の払いにしてもらえ」





一一一一一よかったね、太夫





「…それもそうね」

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