其の九
火の見櫓の鐘が鳴る。
「火事だあっ!」
「行くぞ!」
「おうっ!」
揃いの七分丈の半纏に身を包み、わ組の者は走り出す。
俊作は纏を抱え、梯子持ちの後を続く。







一倉は強かった。
やくざ衆との喧嘩になっても負ける気などしなかったが、一倉には負けるかも知
れない、と思った。
そう言うと一倉は当然だろうと笑った。
「オレは15の時から花街の女相手に商売してきたんだ。お前みたいに下っ端のや
くざ衆を相手にしてる訳じゃねえんだぞ」

一一一一一兄貴がいたら、あんな感じなのかね

俊作にも兄はいる。おかげで家を継げなどと煩わしい事も言われぬまま火消しに
なる事ができたのだが、自分とは違って大人しい兄を、感謝こそしたが尊敬はし
ていなかった。







浅草の小さな路地で、轟々と燃え盛る炎。
住民は取る物も取らず、必死の形相で逃げまどう。
「まだ他の組はついてねえのか!?」
「俊作、纏を上げろ!」
「おうよ、梯子!!」
大きな纏を片腕に抱え、足早に梯子を登り屋根の上で纏を振りかざす。








一倉に殴られて、ようやく気が付いた。
人を好きになる事も、人に好かれる事も恐ろしい事じゃない。
人を好きになる。人に好かれる。
その人を守る為に生きて行く。
誰一人この火に巻かせてなるもんか。
一緒に命を張るわ組の連中も、親父代わりの和久も、憎めない真下も、泣き虫の
すみれも、オレを殴り飛ばした一倉も。






オレが惚れた、藤室も。






こんなに沢山いるじゃないか。
大切な大切な、守るべき人達が。
もう炎なんて怖くない。死ぬ事だって怖くない。
この街を守る為なら。









「誰ぞ好きな男でも出来たか?」
「…何故ですか?」
「浮かぬ顔をしておる。さしずめ辛い恋、というところじゃの」
そう言って笑う男は、贔屓の一人である老中吉田。
吉田の遊び方は花街で言うところの「粋」な遊び方だった。
歳の所為もあるのだろうが、月に3、4回程やって来ては酒をゆっくりと楽しんで
帰って行く。抱かれた事はないが金払いは良かった。
踊りや唄で満足してくれるこの老人は、とてもありがたい客だ。
今日も今日とて、酒を片手に将棋の相手である。
「もし良ければこの爺めが聞いてやるぞ、申してみよ」
「…別に恋などしておりませぬ。それより飛車取りにございますよ」
「ん?ああ、待たれ。待ったじゃ」










優しさが、痛かった。
あんな姿を見られて。
もう生きていたくなかった。
それでも。
死ねなかった。










憎もうと思った。
忘れようと思った。
それでも。










一一一一一一忘れる事などできはしない












火の見櫓の鐘が鳴る。







「また火事じゃのう…」
藤室は思わず窓へと駆け出した。
空を焦がす紅蓮の炎。
町火消し達が次々と集まり、纏が天高く掲げられる。










一一一一一一俊作








憎い筈なのに。
忘れたい筈なのに。
諦めた筈なのに。





どうか無事で。





お守りはすみれに託した。
きっと俊作は自分が託した物だとは夢にも思わないだろう。









どうかお願い。
あの子をお守り下さい。









「俊作、か組が来たぞ!」
「分かった、後は頼んだぜ!」
次に駆け付けたか組の纏持ちにその場を譲り、俊作は鳶口を手に炎の海へと走り
出す。他の組の者と共に建物を壊していく。







目を覚ましてくれた一倉に礼を言おう。
…4発分の礼もしよう。

泣かせてしまったすみれに教えてやろう。
好きな人が出来たと。








藤室に謝ろう。許してくれるか分からないけれど。
そして伝えよう。

















貴方が好きだと。

+back+ +top+ +next+