増毛山道の区間及び費用


  現在私たちが呼んでいる増毛山道とは、浜益郡郡別村字幌から浜益御殿・雄冬岳を越えて増毛郡別苅村に至る約27.8キロを指しているが、安政4年に伊達屋が開削したのは「西蝦夷地アツタ境より濱マシケ、同所よりマシケ迄」と記されており、それは現在の厚田郡濃昼村から浜益村までの4里15丁、浜益村から増毛町までの9里22丁、合計14里1丁の長大な道路開削であった。伊達屋はこの区間を大体3ッの区間にわけ、下表の通り開削費用、担当者を決め人工数を記している。



区間
距離
費用
担当者
人口数
備考
濃昼〜浜益
4里15丁
451両3分3朱
銭200文
善蔵
2109・5工
道幅2間半
浜益〜雄冬岳
4里30丁
444両銭96文
作右衛門
4791.0工
雄冬岳〜増毛
4里28丁
415両1分1朱
4007.0工
合    計
14里1丁
約1500両(註14)
10907.5工




伊達家文書諸用留「マシケ山道距離、費用明細」
  
 ところで伊達屋の記録では5月中頃から開削が始まったと想像され、6月28日には自分の持ち場が完成したので南部から雇った者35人が松前へ帰着した、と記されている。この安政4年という年は5月が閏月であったため現代の太陽暦に直してみると6月28日は8月17日に当たる。後述の松浦武四郎の西蝦夷日誌によると、「安政丁巳五月十八日マサカリを入れ、閏月より六月十三日迄出稼ぎ人の帰るを残らず頼み入れ切り開き候事」とあるから実開削期間を現在の日時に当てはめてみると、5月18日から閏5月分の日数29日を加えて6月13日頃までとしても、55日程で開削した事となる。もちろんこの道の開削に当ったのは南部の35人だけでは無い。開削当時この山道を通った蝦夷地探検家の松浦武四郎は「増毛場所支配人黒沢や直右衛門思いを起こし、松前領及部村作右衛門・幾次郎其筋を見立、出稼孫三郎・與助、外土人乙名シカノスケ・脇乙名ショウタカ・平土人アワサシ・増毛乙名トンケシロ等、堅雪中其筋に目印して、安政丁巳五月十八日マサカリを入れ、閏月より六月十三日迄出稼ぎ人の帰るを残らず頼み入れ切り開き候事、一方ならずの功績なり。余閏月九日此地見分として越、翌午(安政5年)七月十日出来の為に見分し、……」(西蝦夷日誌)とある。
 ところでもう一つの伊達家文書「辰ノ年(安政3年)御公儀御役人様御賄賃銭帳」なるものがあり、これは冒頭に述べた幕府の直轄(蝦夷地を東北6藩に分割統治する)の方針により、北蝦夷地詰・テシオ詰・エサシ詰・アハシリ詰・モンヘツ詰・マシケ詰・シャリ詰・トママイ詰・ルルモッヘ詰・ソウヤ詰など、西蝦夷地の各所に箱館奉行所の役人が派遣される事となり、彼等が濱マシケの運上屋に泊り増毛山道を越え、又は海路でマシケ運上屋へ向かった人名・人足数・御賄料・馬匹数などが記録された帳面である。例えば、
一 御賄数六賄 北蝦夷地 茂庭修七様 但三月廿七日夕より同廿八日迄御家内共貮人
一 人足貮人 此賃銭貮百五拾五文   濱マシケ運上屋前より本マシケ運上屋迄      
         但人足壱人ニ付壱里拾五文宛  道法八里半
一 本馬壱匹 此賃銭百七拾文     濱マシケ運上屋前より本マシケ運上屋迄     
         但壱疋ニ付壱里貮拾文宛
つまり、前年の安政3年3月下旬にはすでに馬で通れる程度の道がすでに存在していたことを示している。これはいったいどういう事であろうか?。想像するところ、増毛と浜益の間ではかなり頻繁に地元アイヌの交流があり、すでにある程度の道が存在していたのではなかろうか、という事である。つまり伊達屋が開削したのは、その道幅を広げたり橋を掛けたり、地ならしをしたり、ある程度の補修を行った程度の事であったのかもしれない。いずれにしろ出来上がった道は松浦武四郎をして「蝦夷地第一の出来栄え」と言わしめた程の道であった。
 
 
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