増毛山道調査行(4)



昭和24年の廃屋寸前の武好駅逓。
(熊野純男氏提供)
  北大山岳部部報8号の、この前年の23年4月29日に武好駅逓に泊まった部員の記録によると、「小屋自体はまだ二三年は大丈夫だがガラス等は何もなく、縁の下に寝所があり焚き火は出来、雨は凌げる」の記述がある。私たちにとって増毛山道も幻の山道であったが、この武好駅逓も幻の駅逓であったので、その感慨はひとしお深いものがあった。
  「武好の春」と題する同名の随筆が「原野から見た山」と題する朋文堂刊の坂本直行画文集
にあるが、この文章のオリジナルがヌタック1号の文章のようである。
  大正15年は北大山岳部が創設され、坂本氏は精力的に北海道の山々を登り始めた年である。私たちは平成7年11月以後、この武好駅逓と、武好橋のあった場所の確認のための山行を数回行った。地元の古老達の話しや文献を調べてもからず、古い地図と道跡と電信柱だけが頼りの心細い調査であったが、どうやら2箇所とも正確な場所の確認が出来た。
と言うのは、武好駅逓のあった場所の一帯から古いビ−ル瓶が数本と、陶器、グラスの破片が多数土の中に埋まっているのを見つけたからである。それらはなによりも人間の住居にかかわる証拠と思われるので、その場所を武好駅逓と武好橋のあった場所と確定した。 
 この武好橋についても多くの方々にどんな橋であったかを問い合わせをしてみたがなかなか分からずにいたところ、留萌在住の郷土史研究家高橋明雄氏から「北のハンタ−」誌(平成9年8月31日刊)に、奥 繁氏の文で「中川賢一さん」と題する随筆があり、その文中にかってのこの付近の情景が記されているのが分かった。
その一部を引用すると、「水面からね−、三十センチほどしかない低い橋でね−、深さかい?そうだな−、三十センチあるかないかくらいなもんだ。長さはね−、三メ−トルくらいだよ!丸太を二本渡してさ。それに、小さな丸太を横に並べて、釘やカスガイなんかで止めてあるだけのもんだ。」と記されている。 


武好駅逓跡にて。足元に掘り出したビール瓶などがある。

 私たちがこの武好橋を探しに行ったときには晩秋のころであったので水量が少なく、天狗岳の伏流水が幅約一メ−トルほどの緩やかな流れになっている場所に枯れたエゾノリュウキンカが群生していた。もちろん橋の面影はどこにも残っていない。
 この付近の増毛山道の道跡は、部分的にかすかに残っている場所もあるが、ほとんどが太い根曲笹に覆われて見通しが利かず歩行に苦労する場所である。ここから708・9メ−トルのピ−クを越えると、留知暑寒川側から岩尾側へ、ちょうど増毛山道を横断するようにつけられた立派な林道に出会う。この付近から雄冬岳へはまだはっきりとした道跡が残っているところもあるが、雄冬岳の山腹を巡るまでが一番急な登りである。
 雄冬岳の頂上に立つと、この増毛山道のほぼ全容が見渡せられる。眼下に見える日本海が荒天で何日も船での交通が途絶えたとき、どれほどの困難を覚悟してもこの長くて険しい山道を通った人々の勇気にただただ驚くばかりである。
トップへ
Part1
戻る
戻る