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 ぐしょ。とも、かぱっ。とも。
 何とも言えない情けない音がして俺は目を覚ました。まだ覚醒しきらない脳の片隅で、ぼんやりと、
(また、やっちゃった?)
という声がする。
「げ。」
(やっぱり・・・。)
 コーヒー片手に居眠りをして零してしまったのは、これで何度目のことだろうか。下半身になんとも言えない生暖かい感触が広がっていく。
 とりあえず椅子に深く寄りかかって座ったままのだらしない格好で、首だけ起こして零れた辺りの状況を確認した。
(あちゃー。)
 見ればかろうじて膝から下は無事だったものの、太股の辺りが豪快に濡れていた。目には見えないが尻の辺りが妙に冷えていく感じからして、椅子の上にもかなりの量が零れていることが分かる。
「どうすっか。」
 不幸中の幸いか。今、職場には自分一人しかいない。だがこれから先、この零れたコーヒーの滴っているスラックスを穿いたまま、廊下にあるトイレまでもしくは給湯室まで移動するのはどうかと思われた。
(絨毯に染み作っちゃうしなあ・・・。)
 なんとか無事だったスーツのジャケットを、濡れた部分に触れない様恐る恐る脱いで、隣のデスクに放り投げる。が、その先が続かない。
 しばらく椅子に座ったまま天井を仰いでいたが、なんだか考えるのも面倒になって、シャツのポケットにあったタバコに火をつけた。
 ふう、と煙を吐き出していると何もかもどうでもよくなって訳のわからない考えが頭を巡る。
 いわゆる、現実逃避ってヤツか?

 人に言わせれば、俺には無駄な行動が多いらしい。
 例えば。
 家でパスタを食おうとした時、適当に目に付いた箸を取り出しておいて、まあ、これでいいか、なんてそのままちょっとパスタをつまんで、ああ、やっぱりパスタにはフォークだよな、って思い直して先っぽだけソースにまみれた箸を流しに捨てて、フォークを取り出す。
 3ヶ月前まで付き合っていた彼女はこの行動がどうしても理解できなかったらしく、一緒に暮らし始めて3日で別れを宣告された。
 例えば。
 読んだ本を背表紙と逆につっこんで本棚にしまいこんで、後になって読み返そうとしたとき、その場所がわからなくなって本棚全てひっくり返して探してしまう。
 以前友人に本を借り、運悪く背表紙と逆に入れてしまっていることに気付き、入用だから即座に返して欲しいと自宅を訪ねてきた友人を待たせたまま、本棚をひっくり返し探しているうちに、なんだか部屋全体の汚さが気になり始め、友人の存在をすっかり忘れて部屋中の大掃除に発展してしまった。当然友人は怒って二度と本を貸してくれなくなった。そしてその本は未だ見つかっていない。悲しい思い出だ。

 ゆっくりと天井に向かって伸びていくタバコの煙をぼんやりと眺める。
 なんだろう?この、言いようのない虚しさは。 

 ばあちゃんは言った。「世の中で無駄なことなんか一つもないんだよ?」
 けど、無駄なことばかり繰り返すオレの人生って、なんなんだ?
 今日も一人残業で居残り。そうだよ。部長に明日までにはなんとか出来ますって大見得切ったのはこの俺だよ。ああ、もう10時かよ。腹減った。
 今月から課長に昇進したって言うのに、部下って呼べるヤツは今年3人しか入って来なかったし。同期のヤツは皆同時に課長になっちゃって。結局俺ら皆、下っ端と同じにこき使われてる。大体今日は皆外回りってなんだよ?よりによってオレの仕事が煮詰まってるこの日に限って、そりゃねーだろ。つーか、腹減ってんだよ。メシ。くれ。真面目に残業なんかしちゃってるこの俺に、差し入れの一つくらい持ってきてもバチは当たらないだろ?あー、でも俺なら外回りしたら迷わず直帰!直帰だなー。そんで今頃はくーってビールを一気に流し込んで。あー、腹減ったよ、ホント。そうだよな。外回りした上、ここに来たら嫌でも俺に仕事を押し付けられる。そんな無駄な行動をとる人間、いる訳がないっつーの。いたら見てみたいね。マジで。あー、タバコの灰が落ちる!!灰皿・・・

 がちゃ。

 部屋から廊下へと続くアルミの扉が開く軽い音がして、オレの思考は中断された。
「山崎先輩?差し入れ持ってき・・・。」
「相田君?どうした?」
 見ると、新入社員の一人、相田君が戸口で目を丸くして棒立ちしている。たしか営業課長のオレの同僚に無理やり外回りに引っ張られていったんじゃなかったか。
「外回り、終わったんだよね?忘れ物?」
「・・・はい・・・いえ・・・。先輩に、差し入れを・・・。」
 そう言って差し出された右手には吉牛の袋。
「ほんとかー!?いや、実はめちゃくちゃ腹減って・・・。」
「あっ・・・ぶなッ!!」
「へ?」
 気がつけば今にも落ちそうなオレのタバコの灰。相田君は即座に近くの灰皿を引っつかんでタバコの真下に持ってきて、そのままオレの指からそれを奪って揉み消した。
 その間約2.5秒。うーん、優秀だ。さすが元バスケ部フォワード。
 うんうん、と意味もなく感心しているオレに、相田君は呆然とした表情で尋ねてきた。
「せ、先輩。あ、あなた、今どういう状況か、分かってますか?」
 どういう状況?質問の意図する所が解らずに、一瞬黙る。しかしそれはほんの少し浮かした腰の所為で濡れた部分が冷えていくリアルな感触にすぐ思い出された。
「———あ。」
 忘れてた。訳じゃないのよ。覚えてましたって。
「すまん、相田君。ここで会ったのも何かの縁だし、手伝ってくれない?」
 ようやく椅子からしっかりと腰をあげる。
(うっ。貼り付いた布の感触って気持ち悪いのね・・・。)
 幸い黒のビジネススーツを着ていたため色はほとんど目立たないが、その分、深煎り芳醇なアロマの香りが容赦なく鼻孔を通って進入してくる。
「カップ持ったまま、うたた寝しちゃったんですか?先輩。」
 呆けた顔を正して周囲の状況を見回しながら相田君が聞いた。
「あー、何で分かった?」
 コーヒー片手に居眠りをして零してしまったのは今まで何度かあるが、会社でやったのは始めてだ。
「先輩気付いてないかもしれないですけど。何回か危ないなって思ったことあったんですよ?」
「・・・あ、そう。」
 入社数ヶ月にして先輩の動向をチェックする余裕があるとは。優秀だよ、相田君。
「カップを置けないくらい、疲れてたんですね・・・。」
「あー、違う違う。」
「は?」
「カップは置こうと思えば置ける余裕はあったんだけど、置かなかった。」
「・・・どうしてですか?」
「置いたら確実に寝るから。でも持ってればそれと戦おうとして意識が起きようとするじゃない?だから、いつも置かない。でも、眠いから寝る。カップは落ちて、結果として起きるんだけどな。」
 あははは、と笑う俺にだんだん相田君の目つきが冷たくなっていく。
 しまった。だまっときゃ良かった。また無駄なことしてるよ、オレ。
「山崎先輩・・・。頼みますから、もうカップ持ったまま寝るのはやめてください。」
 心なしか少し抑えた声で相田君が告げた。何?呆れてる?
 あーやばい。普段は仕事の出来るクールな先輩を演じてたのに。そのまま無言で部屋の出口へ向かう彼の背中を視線で(当然だ。動けない)追う。
 いや、困るよ?困るんだよ、帰っちゃ。
「あ、相田君?」
 ———帰らないで欲しいんですけど。
 心配になって自然と手を伸ばす俺に、
「良かった。差し入れ、無事だった。」
 相田君が吉牛の袋を持って笑顔で戻ってきた。
 相田君!君ってヤツは、素晴らしい人間だね!?今の君はまるで荒野に咲く一輪の薔薇。荒みきったこの世界に僕を救うべく降り立った天使のように輝いて見えるよ!!!
 とは言わなかったが。
「どうもありがとう。」
 と笑顔を返して心からの礼を言う。
「いえ・・・雑巾、持ってきます。」
 お?照れてる。
 くるっと背中を向けて入り口から出て行く相田君を見て、なんだか急に彼の行く末が心配になった。ここは先輩として一つ忠告してやらねば。
 でもその前に、メシ。
 立ったまま牛丼をかっこんでいると、モップやバケツなどを抱えて相田君が戻ってくる。
「・・・先輩。急いで食べるとおなか壊しますよ?」
「ははってふ。ひょっほまへ。」
 半分程度食べ終わったところでやめた。もっと食べていたかったが、これ以上続けると相田君から本当に見放されかねない。ようやく箸を置いた俺に、
「じゃ、脱いでください。」
 汚れてない床にポリ袋を敷いて、相田君がさらっと言った。
「———え?」
「脱いで洗わないと、だめですよ?ソレ。まさかそのまま帰るんですか?」
 そりゃそうだ。なんだかさっきから相田君の迫力が増しているし。ここはおとなしく従っておいたほうがいいだろう。
 すごすごとポリ袋の上に移動してベルトを外す。その間も相田君はせっせと汚れた床を掃除している。
 順調に脱いでいたが、スラックスを脱ぎかけて、ふと考えた。
「相田君。あの・・・全部・・・脱ぐの?その、」
「下着まで濡れてるんですよね?じゃあ、脱いでください。エアコンを強にして前に干しとけば、すぐ乾くでしょ。」
「・・・ハイ。」
 って言っても。なんだかやっぱり。
 こんな俺でも人並みに恥ずかしいという感情は持ち合わせている。と、いうよりこの場合、恥ずかしいというより情けないと言う方が適当か。いかん。このままでは先輩としての威厳が!
 もじもじしていると相田君が片眉を上げて立ち上がった。
「脱がすの、手伝いましょうか?」
「け、結構です。」
 ———威厳が。


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