序 ・ 9 年 前 

さわさわ、とゆれた樹の葉がこすれて音を立てる。
春風が、頬をすべる。
足元には一面ピンクのれんげ畑が広がって、そろって風に靡く。
空には綿菓子みたいな雲がぷかぷか浮いて、のんびり流れる。

「あずさちゃん」

あずさちゃん、と呼ばれた小さな女の子は、花輪を作る手を止めて声のしたほうを振り返った。

「なあに、ゆうくん」
『あずさちゃん』は折角集中していたところを邪魔されたためか、少し声が尖っていた。
「う…ごめん。邪魔しちゃって…」
『ゆうくん』と呼ばれた小さな男の子は、その声音に少し怯えたようだった。
「あとで、いいよ」
そういって、『ゆうくん』は『あずさちゃん』と背中合わせに、すとんと腰を下ろした。
「…なぁに?」
『あずさちゃん』はれんげを摘む手を休めて、いくらか口調を柔らかくして背中の『ゆうくん』に話しかけた。
「え?」
「あずさに言いたいこと、あるんでしょ」
「あ…うん、えと…」
『ゆうくん』は言いにくそうに口篭もった。
さわさわ、と木の葉が揺れる音だけが辺りに響く。
「ゆうくん」
『あずさちゃん』は何時の間にか『ゆうくん』の真正面に移動してきていた。
何だか泣きそうな顔をしていた。
「あずさ、何かわるいこと、した?ゆうくんは、それでおこってるの?だったら、あずさ、」
しゃくりあげて、目にはみるみるうちに涙がたまってきた。
「ち、ちがうよあずさちゃん。ぼく、おこってないよ」
慌てて『ゆうくん』は首を振った。
「ぼく、ただあずさちゃんにお願い事があっただけなんだ」
「…お願い事?あずさに?」
『あずさちゃん』は目を瞬かせた。涙はもう引っ込んだ様だ。
「なぁに?」
「あのね…」
ざあ、と強い風が吹いた。


「ぼくの、およめさんに、なって?」


風が止んで、れんげ畑はいつものとおりになった。
『あずさちゃん』は一瞬びっくりしたようだったが、笑顔でこう言った。
「だぁめだよ。あずさは、おにいちゃんのおよめさんになるんだもん」
「むりだよ、だって、あずさちゃんとゆずきくんは兄妹だもん」
「むりじゃないもん!あずさは、おにいちゃんのおよめさんになるんだもん!きめたんだから」
「でも」
「きめたん…だからぁ…っく」
『あずさちゃん』は大きな瞳からぼろっと大粒の涙を落とした。
「あっ、あずさちゃんっ、泣かないで…」
『ゆうくん』はうろたえて、繰り返し「泣かないで」と言うしかなかった。
「…ゆうくんの」
「え…?」
「…ゆうくんのっ、ばかぁっ!!」
「あ、あずさちゃんっ…待って…」
「うああぁぁあぁん」

その日はそれきり『あずさちゃん』が戻ってくる事は無かった。


どうしていつも泣かせてしまうんだろう。
ぼくは、ただ。
きみが好きなだけ、なんだ———