39.「公共の福祉」は「自己決定」では不可能①

2002.8.17 更新

 憲法13条には、
 ①「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれてある。

 これを見て、憲法13条の意味は「他人に迷惑を掛けない限り何をやっても自由だ」とする人がいる。はたしてそんなことが言えるのだろうか。この13条をもってそのように解釈する人を時々見かけるが、どこにそんなことが書かれているのだろうか。

 この13条の直前の12条には、国民の自由と権利に関して、「国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と書かれてある。
 これを受けて13条では、「国民の権利については、公共の福祉に『反しない限り』、立法その他の国政の上で、『最大の』尊重を必要とする」と書かれている。

 多くの人はこの13条を「『最大』の尊重を必要とする」というところに力点を置いて読むから、読み間違うのだと思う。そのフレーズ全体には、「公共の福祉に『反しない限り』」というフレーズがかかってくる。

 つまり憲法13条には、
 ②「国民の権利については、公共の福祉に『反しない限り』、最大の尊重を必要とする」
   と書かれてある。もっと簡潔にいうと、
 ③「Aは、Bに『反しない限り』、尊重される」
   と書かれてある。

 まず私はその論理上の意味について確認したいと思う。
 「Aは、Bに反しない限り、尊重される」という論理上の意味は、「Bが(Aよりも)優先される」ということになるはずである。
 つまり、A(国民の権利)とB(公共の福祉)が対立した場合、どちらが優先されるのかというと、
この場合、「B(公共の福祉)に反しない限り」と書いてあるので、
当然この13条では、Bの「公共の福祉」が優先されるという意味になるはずである。

 そういう意味で私は、これは文法的にも、「国民の権利」よりも「公共の福祉」の方が優先されるべきであることをはっきりと宣言した条文だと思う。そのことは大変重要なことだと思う。

 

 では、「公共の福祉」とは何か。
 それは権利と責任の関係からだけで導き出せるものなのか。

 宮台真司のように「他人に迷惑をかけない限り、たとえ本人にとって結果的に不利益がもたらされようとも、自分のことは自分で決められる権利」(性の自己決定原論 p252)を主張するだけで、「公共の福祉」が導き出せるのか。

 他人に迷惑をかけないことは、公共の福祉と同義なのか。公共の福祉はそれくらいのことで維持されるのか。今までの人間社会はその程度のことで維持されてきたのか。

 「青少年については、性的自己決定権を認め、青少年が当たり前に性交することを前提にした教育や青少年行政を押し進めるべきである。」(性の自己決定原論 p268)

 そんなことをすれば人間は「やりたいことをやる」だけの人間で終わってしまうのではないか。

 「本人にとって結果的に不利益がもたらされようとも」という言葉は便利な言葉で、自分を犠牲にしてまでも人は社会に貢献しようとするものだというニュアンスを含ませているようにもとれるのだが、そういうことをするまでには人間には長い時間がかかるのであって、青少年が生のままでそういうことをしていくとは思えない。

 そうするためには人間の隠された欲求、例えば思いやりの心とか、他人から信頼されることで培われる幸福感とかというものを、教えていかなければならないのであって、そういう教育をしないままに、たんに青少年に自己決定権だけを与えて、試行錯誤をさせてみても、公共の福祉に結びつくような心の成長は得られないと思う。

 しかも宮台によれば、青少年には「やりたいことをやっていいんだ」という自己責任論を説きながら、その一方で青少年には「自由な自己決定に基づく試行錯誤を支えている尊厳」を政治システム側に「保護」してもらう権利があるようで、「政治システムはあらゆる場面で青少年の自由な自己決定に基づく試行錯誤を全面的に支援する姿勢を見せなければならない」(性の自己決定原論 p270)ということなのである。宮台はいつの間にか、支援する以上、保護するのは当然だという論理の流れをつくっている。

 どういうことなのか。

 大人の忠告も聞かず「やりたいことをやった」青少年たちがもし失敗すれば、それを保護するのは大人の役目なのですよと言っているだけなのだ。そんなことがあるのだろうか。
 大人には青少年を指導する権限も忠告する権限も認めず、もし子供が失敗すれば大人が「保護」しなければならない、つまりそれは大人に責任があるということなのである。
 その一方で子供には自己責任・自己決定を説きながら、もし失敗すれば大人に保護を求めなさいと言うことなのだ。

 完全に論理が破綻している。

 自己責任とはどこまでも自分で責任を取ることなのだ。
 宮台は「大人には子供を指導する権利はないが、子供を保護する義務がある。」
 「子供には大人の指導を受ける義務はないが、大人に保護してもらう権利はある。」
 と主張しているのだ。

 そんなことがあるのだろうか。

 自己責任論とは、権利と義務、あるいは権利と責任は比例するものなのだ。
 逆に言えば、子供を指導する権利のない大人には、子供を保護する義務も責任も発生しないし、人のいうことを聞かずに「やりたいことをやる」人間は、人に保護を求めることもできないはずなのだ。

 宮台真司にとっては、そのようにして試行錯誤に失敗した子供を大人側が保護していくことが公共の福祉だと言いたいのだろうが、宮台真司の公共の福祉論とはこういった類のものである。

 どこがおかしいのか。

 彼は自分の言説の一番痛いところをつかれて、苦し紛れの理屈をつけているのだろうが、その結果自分の言説の核ともいうべき「権利と責任は比例する」という論理を完全に破綻させている。

 それは前に私が聞いた宮台の講演会で、3人の男を持つ父親からの「男の子が危ないという話を聞いて、ではどのように親として対応したらよいのか」という質問に対して、彼は「行政にそのような子供に対してメンタルヘルスのシステムを作るように要求するしかない」と結論づけた(宮台真司講演会への批判1)、その論理構造と同じである。

 子供の自己決定・自己責任と主張しながら、いざ都合が悪くなると、急に大人側に保護を求める。
 これでは「ダダッ子」と同じである。権利だけ主張し責任を取ろうとしない大人の典型なのだ。彼の主張は『自己「無責任」論』にしかなっていない。社会に対して相当に悪意のある考え方である。そこから「公共の福祉論」が導き出せないのは当然のことなのだ。
 つまり宮台真司の自己責任論ではいくら考えても、本物の「公共の福祉」論は出てこないのである。
 そんな言説にうかつに乗っては、社会そのものが壊れてしまうし、一人一人の幸福追求権も底の浅い「わがまま」の中に水没してしまう。

 私は本来の一人一人の「幸福追求権」と「公共の福祉」は、必ずどこかでつながっていると思っている。



Click Here!教育の崩壊