10.「宮台真司」批判1

2002

 宮台真司講演会より

 宮台真司(以下敬称略)が、教育に関しては次の二つの道の、いずれかしかないとしたのは正しいと思う。

①「子供に自己決定権はない、だから子供に責任は問えない」
②「子供に自己決定権を譲り渡そう、その代わり子供の責任も追及しよう」
 これは「責任と権利とは比例関係にある」という社会の原理を言い替えたものである。

 しかし問題はこのうちどちらが正しいかと言うことである。
①「子供に自己決定権はない、だから子供に責任は問えない」
 という立場もあり得るはずであるが、宮台真司は「私は自己責任論者だから」
②「子供に自己決定権を譲り渡そう、その代わり子供の責任も追及しよう」という立場である。
 そしてその際の前提条件が、
「子供が他者とのコミュニケーションの大切さを認識しておくことだ」と言う。

 しかし疑問なのは、
「現状は他者とのコミュニケーションを無視する子供が増えている」
 ことを彼自身が認めていることである。つまり自分の前提条件が崩れていることを認めた上で、自己責任論を展開していることだ。

そして彼によれば、自分の自己責任論が成り立たない原因はどうやら現在の学校教育制度にあるようだ。

 宮台真司は、子供の「自己決定権」は重視されなければならないという前提から出発して、今の学校教育では子供への勉強する「動機」づけがなされていないと言う。
「自己決定権」を育てるためには、「動機」づけがなされなければならないという。

 しかし、宮台真司の発言には、他者との「コミュニケーション」能力をどういうふうにして育て上げ、そこから勉強する「動機」づけをどう結び付けていくかという説明が無い。
つまり、我々教師や保護者が最も必要としていることに対しては有効な助言を行っていない。

 本来、思考段階の未熟な子供が自分の将来に対して、大人でも難しい「自己決定権」を行使することができるだろうか。
「自己決定権」を行使できる人間は1人前なのであって、1人前の人間が教育を受ける必要はないのが普通ではなかろうか。
そのことと、一生かかってでも何かを学び続けていこうとすることとは全く違った次元の問題だと思う。

 特に日本では「人の振り見て、我が振り直せ」といわれるようにつねに他者との比較のなかでその人格的向上がはかられてきた。
そのような風土のなかに「個人本来の価値」なるものが持ち込まれ、
他者との比較や関係性が途切れた中で、絶対的な自分の価値を見いだそうとする試みが盛んになり、
そのような考え方をまともに受けた子供たちの中から、他者とのコミュニケーション能力の必要すら理解できない子供たちが生まれてきた、
ということが問題の本質であるような気がするが、どうであろうか。

 そしてこのことは学校現場では机上の空論では終わることのできない現実味を帯びてきており、この一年間だけでも数度にわたって私の勤務する学校の職員会議の議題に上ったことだと思える。
自分と比較する対象を持たない子供が増えてきたことが問題なのであって、そういう意味で、子供の「自己決定」能力が低下し、子供の「自己決定」能力を以前ほど信用できなくなっていることが問題であるように思われる。
教育の現場ではこれを日常会話の中で「ホントにまだ子供だ」とか「ホントにまだ幼い」などといった言葉で表現していると思う。

 宮台真司は言う。
 「今の学校教育は戦前の軍隊または監獄をモデルにして作られた。号令一下、上から下まで、同じ時間同じ時刻に同じ方向に多くの人を動かすために作られたものだ」。
「戦争に勝つため、工場労働者を管理するためなどの目的で作られたのと同じものが、戦前の学校教育であった」。
そして「そういうものは、今必要とされる教育にとっては、百害あって一利なしだ」。
 戦後多くの社会システムが民主化された中で、
「学校だけが戦前のスタイルのまま放置されている」
と宮台真司はいう。

 たぶん彼は、「起立、気をつけ、礼」から始まる今の日本の一斉授業などを念頭に置いているのであろう。
しかし、他者との関係が切れた生徒が多くなる中で、学校の規律がなくなった場合、例えば自分のクラスのクラス運営がどれだけ混乱するか、現場の教師としての私には予想もできないものがある。
彼の言説を信じてクラス運営を行って失敗した場合の責任は一体誰が取ってくれるのだろうか。

 そして「みなさん、寺子屋にそういうことがありましたか。寺子屋が一斉カリキュラムでしたか」という問を投げかける。
 「寺子屋は個人カリキュラムです」という。ここで集団と個人の問題が、いつの間にか授業のカリキュラムの問題に入れ替わる。
 「これからはどんどん個人カリキュラムになるでしょう」といった発言になる。

 宮台真司の論理に乗っかれば、明治以降の学校教育は「寺子屋」以下だということにならないだろうか。
さらに我々教師に求められるものは、近代教育ではなく、「寺子屋」教育だということになってしまうかもしれない。
そして江戸時代の寺子屋教育でこそ、西洋的な個性が花開くことになる。
私は何か悪いジョークでも聞いているような気がした。

 他者とのコミュニケーションを必要としない生徒が増えていることが問題だと、一方では言いながら、個人と個人の関係の要である集団生活の重要性に触れないのは、まじめに考えると矛盾しているのではないか。
他者とのコミュニケーションが必要だと言うのであれば、学校内部での集団生活のルールはもっと尊重されるべきではなかろうか。

 そして他者とのコミュニケーションを重視するのであれば、他者との関係に気を砕き、懸命に生きてきた大人たちを「会社を首になっただけで自殺するような大人たち」と、そう簡単にはバカにできないはずである。

 さらに、「どういう集団に所属するかということは、ゴミみたいなものであり、そのことを気にする人間がいること自体、それだけで日本はダメなんです」
 といった発言は私には信じられないような言葉であった。
そんなことをいえば、もともと個人主義的伝統のない日本の社会や文化、そしてその積み重ねである日本の歴史などは全くゴミみたいなものになってしまう。

 彼は自分の所属する大学の中で、自分がその大学に所属していると言うことを「ゴミ」みたいなものだと考えているのだろうか。
 そうであれば、そのような「ゴミ」のような組織で働いている、他の教職員や事務職員も「ゴミ」のような存在だということにならないだろうか。
そのような考えを持つ人々の集まりの中から、本物の人間関係が生まれてくることになる。
 おかしな論理である。

 私が過去に出会った人たちの中で、「集団に所属することをゴミみたいなものだ」と考えている人間は、私には「自己中心的で自分勝手な」人間だと思えたのであるが、宮台だけは別格なのであろう。

 このような発言は、一方で人間の「集団性」または他者との「共生」あるいは他者との「コミュニケーション」を重視し大切にするというポーズをとりながらも、
その結論にあるものは人間の集団への帰属性を著しく低下させていく結果にならないだろうか。

 また彼は人格障害に対して恐ろしく寛容である。それを矯正することは不可能だと決めつけているが、本当にそうなのだろうか。
宮台は、「人格障害は病気ではないのだから、病気ではないものを治療することは不可能だ」と述べている。彼は自分の人格に触れられたくないだけではないのか。
人格障害という概念は、「精神病や神経症という心の病にかかっていないのに、周囲や本人がまともな生活を送れないと訴える場合」に適用されると述べている。

 そして宮台は、人格障害が更正の余地がない論拠として、
「数多くの脱社会的な少年犯罪の精神鑑定を引き受けてきた高岡ケンさんという精神医学界では、最も権威ある、しかしマスコミにはほとんど一切出ない先生がいらっしゃいますが、彼も多くの少年犯罪について、容疑者あるいは被告の少年には更正の見込みはない、というふうに、これは鑑定書には書けませんけれども、プライベートな会話ではおっしゃいます」
というふうに説明している。

 講演会という公の場所で他人のプライベートな会話を根拠として持ち出すというのはおかしな話ではないのか。
それが本当に正しいことならなぜ密かなプライベートな会話でしか話せないのか。
私にはそのことが分からない。
それとも我々のような凡人にはとても高尚すぎて分からないからなのだろうか。
実際彼の講演には、人を高見から見下しているという潜在意識が言葉の端々から伺える。

 例えば、「死にたい、死にたいという人を前にして私たちは何ができるんだろう」と観客席から一人の女性が質問した。
その人は精神障害者の小規模作業所を営んでいる人であった。
そのような目の前に差し迫った問題を抱えた人の、真摯な質問に対して、彼の答えはとても聞いていられないものだった。

 彼は延々と9月11日のアメリカで起きた旅客機によるテロ事件の話をしたのである。
テロ事件の話、イスラム原理主義の話、アメリカの中東政策の歴史の話、ビン・ラディンとタリバンの話、やっと精神障害の話に戻るかと思えば、今度は、アメリカの中東における石油利権の話と続いた。
私は質問者が気の毒になった。
そしてさらにイラン革命の話と続いていった。
さらに話はイラン・イラク戦争の話、湾岸戦争の話と続いてやっと終わった。
 そして言いたいことは「包摂」ということだとのたまっただけであった。
大言壮語の割には具体性が全くないのである。
現場の意識とあまりにもかけ離れていて、開いた口がふさがらなかった。

 さらに気になったのはそのような抽象的な話をする際の前置きが、
「どんな例からもお話しできますが、あえて遠い例をわざと出しましょうか」という前口上から始まったことである。
質問者の誠実でせっぱ詰まった質問に対し、私はなぜ「あえて遠い例から」話をする必要があるのか分からなかった。
彼の話にはいろんなところで飛躍やほころびがある。
論理的に体系化されているとは思えなかった。
私はそれは一人の人間の考えたことだからある程度は仕方がないと思う。
しかし、そういった場合には学者の良心として「うまく説明できないが」とか「今の私の力ではお答えできないが」とかという前置きから始まるのが学者の良心というものでは無かろうか。
彼にはそのような姿勢が全く感じられなかった。
人から自分の論理のほころびを突っ込まれることを極度に恐れているように見えた。
膨らみすぎた風船が今にも破裂するときには誰も近づかないものだ。
彼の言説にはそのような幅の狭さを感じる。

 仮に「あえて遠い例」から始めることが効果あるとすれば、「遠い例」から始めて「近い例」の所まで持ってくるのが話の礼儀ではなかろうか。
しかし彼の話は「遠い例」のままで、いっこうに我々に近い日常感覚の世界には触れようとはしなかった。
私にはなぜ彼が「あえて遠い例」から話したのかが分からなかったし、
彼の説明した中東情勢の話を、質問者が理解したとしても、
「死にたい、死にたい」という人を前にして、質問者が、宮台の中東情勢の話をどういうふうに明日から生かすのかが全く分からなかった。

 自分が応えられないことになると、訳の分からないことを言って我々を煙に巻いているとしか思えなかった。
「あえて遠い例から」とか、「あえて話をずらしているんですが」という発言は他にも何度かあり、それがなぜ「あえてずらす」必要があるのかが私には分からなかったし、
あえてずらしたことによって話が的を射たようにも思えなかった。

 私は、彼の論理に乗っかると、人間としての人格の向上そのものが台無しになってしまうのではないかという恐れを抱いた。
未熟で不安定な青年期を経て、立派な壮年を迎えた人は山ほどいる。
そのことの可能性をこそ説くべきではないのか。
そしてその方法をこそ説くべきではないのか。
実社会で生きている人々にとっては彼の話は何の活力も与えていない。
彼の発言は、西洋と日本の考え方の違い、あるいは集団の構造の違い、あるいは宗教やその国独自の文化といったものを非常に無視した発言であると思われる。

 「個人の人生という合理性の物差しから言えば、日本の企業に就職することは完全にバカげています」。
これは一体どういう意味だろうか。
日本の企業が完全に潰れれば、彼の理想は実現するのだろうか。
仮にそれが「バカげている」として、それを「バカげている」とする尺度はいったい何なのだろうか。
そこには人を寄せつけない価値判断が含まれている。
神による価値判断を彼は体得した人間なのだろうか。
一国の政治制度や社会体制の非をあげつらうことは誰にでもできる。
そしてどこの国の制度も完璧ではなく、必ずどこかに非はある。
しかしそれに対して「バカげている」という価値判断を下すのは、およそ学者のすることではない。
もしある学者がそのような価値判断を下して大衆を扇動するとすれば、それは一種のイデオロギーである。
そうなれば彼が良く取り上げる「オウム真理教」と一体何が違うのだろうか。

 彼によると学生の就職動向としては、「東大などの優秀な女子学生は、外資系企業への就職を希望している」らしい。
優秀な学生の例として東大生をあげながら、こうも言う。
「ある外国の調査によると世界の主要大学のうち東京大学の大学院は46大学中46番目だ。つまりクズと同じということです」。

 私は聞いていて、東大生は優秀なのか、そうでないのか、よく分からなくなった。

 世の中には、誰も証明ができないほど確かなものがあるのではなかろうか。
しかし宮台はそれを、証明できないものほど不確かなものはない、という一番楽な論理に乗っかって、貧弱な正論(?)を吐いているだけのような気がする。
 「人を殺していけない理由はあるか」と自ら問いかけ、
「ありません」と断言なされた。
私のような凡人には、これがなかなか理解できない。
 私には「説明することはできないが、人を殺してはいけない理由は、やはりある」ような気がする。
しかしその理由を説明することは不可能であるような気がしている。
それはもともと、「何のために生まれてきたか」と同じくらいに人間が今まで何千年もかけて考えてきたことなのであり、しかも誰も証明したことのない疑問だから、
仮に「証明できないものほど不確かなことはない」とする論理に乗っかると、はじめから宮台の勝ちは目に見えている。

 宮台真司には、今まで誰も手をつけなかった論理のブラックホールとでも言うべきものを武器にしているところがありはしないか。
今までの学者は少なくともそのブラックホールにはまってしまうことの危険性を知っていたと思うのだが、彼にはそのことのもつ危険性への自覚がない。恐れがない。
誰も手のつけられない大蛇の上に乗っかって、自分が大蛇になった気になっている。
つまり一人勝ちの論理の上に乗っかっているような気がする。そこに大蛇がいることは良識のある人なら昔から知っていたし、その上に乗っかれば向かうところ敵なしだということも知っていた。
 しかしそんなことをすれば、すべてのものが大蛇によって破壊されてしまう。

気づいていながら、あえて触らなかったものというのがある。それを、自分が初めてその大蛇を見つけたような顔をして、得意げにその大蛇を操りまわした気になっているように見える。

 私のようなものに哲学についてどこまで言う資格があるかは分からないが、少なくとも次のようなことは言えるのではないか。
今までの哲学者も人生の意味を考えてきた。人生の意味があるかどうかは今も昔も分からないが、「人を殺したらいけない理由はあるか」と聞かれれば、必死で「ある」と答える努力をしてきた。
 哲学を志した者が「生きる意味」を探してもしそこに「意味がない」といった結論に到達すれば、
それは哲学者としての「負け」を意味するのではないか。
宮台が自ら「負け」の立場に立っていることを自覚しているかどうかは知らない。
しかし敗者は普通は寡黙なものだ。

 講演では触れられなかったが、「援助交際」という「少女売春」を「自己決定」のルールによって認めようとする立場も、私には絶望的なものを感じている。
 そのような人に絶望を感じさせることに、彼は恐ろしく多弁である。
人を勝利に導くことは難しい。しかし人を敗北に導くことは、勝利に導くことに比べれば恐ろしいくらい簡単である。
勝者でも多弁は嫌われる。そして敗者はふつうは、寡黙である。
しかし宮台だけは敗者の立場に身を置きながら、恐ろしいほどに多弁である。

 「人を殺したらいけない理由は無い」「少女売春は許される」、それはたぶん「人生に意味が無い」からだ。
そしてこの三つの結論は三位一体である。

 人は生きる意味を失えば絶望する。人が絶望すれば自殺も辞さない。
人は自殺においてすら意味を見いだそうとしてきたものである。
人は自殺においてすら意味を必要とする。
逆にいうと、意味無く生きるものは自殺すらできないことになる。
それが宮台がよく使う「まったり」と生きることなのだろう。
しかしそんなことを人に説いてまわって一体何になるのか。
彼が説いてまわるほど「まったり」と生きることにたいした意味はないと私には思える。
それは高いレベルの生き方ではなく、仕方ないレベルの生き方なのではないのか。
それを誇らしげに説いてまわる感覚というものは私には理解できない。

 私が見る限りそういう生徒は絶えず「生の不安」に怯え、また一方で「死の不安」に怯えている。
だから身の危険には恐ろしく敏感である。決して危険に近づかない。
かといって楽しんでいるかというとそうでもない。
しかし彼らはその一方で心が熱くなるような感動を期待しているのだ。
それはウソではない。
今ならまだその感動を伝えることはできる。今ならまだ間に合うのである。

 宮台真司によれば、日本の学校は「軍隊」か「監獄」で、そういう学校を出た生徒が就職する日本企業は「カス」の集まりだ、ということにならないだろうか。
そして「私は愛国者ですから、不合理にも日本に残ってがんばっている」とおっしゃる。
これも本気なのかジョークなのか分からなかったが、誰一人笑わなかったところを見るとたぶん本気なのだろう。

 宮台真司のように、大多数の日本人の所属する集団のことを念頭に入れずに、全く孤立した一個人として、「自分が将来何になりたいか、何をしたいか」と尋ねられても、それはなかなか答えの出る問題ではないと思う。

 質疑応答の時間には他にも、3人の男を持つ父親からの
「男の子が危ないという話を聞いて、ではどのように親として対応したらよいのか」という質問に対して、
「他者とのコミュニケーションに関心のない子供は人格障害であり、人格障害になった子供は病気ではないのだから治療や更正の余地がない。だから言えることは他者とのコミュニケーションに関心のない子供にならないようにすることだ」
と、これで良ければ誰にでも言える当たり前のことを、恥ずかしげもなく、平然と言い始めたのである。

 そしてその対策として、
「行政にそのような子供に対してメンタルヘルスのシステムを作るように要求するしかない」
と、結論づけたのである。そんなことを聞きに来たわけではないと思ったのは私一人ではなかろう。

 「男の子が危ない、危ない」と煽っておいて、他者とのコミュニケーションの必要を説く一方で、学校の集団的規律を破壊することを説き、
「家族にちゃんとしろといったって、今の家族にはできません」という。
そして危ない男の子が出てきたら、「それは行政に任せろ」と言う。
それでは虫が良過ぎはしないか。

 宮台は一体何と戦おうとしているのか。自分だけを高見に置き、下界の人間たちの苦しむ様を描写しながら、高みの見物でもしているつもりなのか。

 しかし仮に行政がメンタルヘルスの組織を作り上げることができたとしても、そこで働く人は彼によれば、ゴミのような組織の中で、「組織に所属することはゴミみたいなものだ」と思っている人が選ばれるはずだから、
仮に私が親として相談に行ったとしても、そのような思想によって選ばれた組織の職員が本気で私の悩みを聞いてくれるはずがないのである。

 宮台がそのようなメンタルヘルスのシステムを作ることに真剣に取り組んでいるかどうか、しかも、その活動の上に何らかの社会的な実績を残しているかどうか。私にはそのことが気にかかる。
もし彼が本気で努力するつもりなら、彼はそのメンタルヘルスのシステムの中で、
「組織に属することをゴミみたいなことだと考えている」はずの職員に対して、子供の教育に悩んでいる多くの人々の相談に熱心に乗るように指導し、そして助言できるように指導すべきなのだ。
もしそのようなことを宮台が本当に努力しているのであれば、善悪は別にしても、少なくとも最低限の社会のルールとしては筋が通っていると私は思う。

 学者の持つ社会的な発言権は大きい。
そのような大きな権利を持つ者は、大きな責任も背負わなければならない。
「権利と責任が比例する」という一般原則は宮台真司本人の得意の論理であるから、きっと彼も賛同することとと思う。

 宮台は「今男の子が危ない」という。
「男であるだけでゲタをはけた時代は良かった」という。
しかし一番「ゲタ」をはいているのは、東大卒と助教授という「ゲタ」をはいて、無責任な言説をまき散らしている宮台本人なのだ。
彼のような言説は少なくとも私が知っている一般社会では通用しない。
東大卒だけでも通用しない。
東大卒に加えて助教授という高い「ゲタ」をはいている者だけがなし得ることである。
そのことに対する自覚がない。

 彼によると「たまたまじいさんが昭和天皇に御進講した生物学者」(野獣系でいこう P105)であるそうで、
昭和天皇に御進講した人など滅多にいないはずであるが、
それを「たまたま」と表現するところが私には何ともいやらしく感じられる。
戦前の日本で「昭和天皇に御進講」する事がどんなに大変なことだったか、それは今でも天覧試合という言葉が使われるのを見てもわかる。
そのことを宮台が知らないはずがないのである。
そして今でも大多数の国民は、それがいかに大変なことだったかということを感じ取れることを、彼は暗に意識している。
その上で「たまたまじいさんが昭和天皇に御進講した生物学者」だったという発言をしているのである。

 まず「じいさん」に対して失礼だし、
「昭和天皇に御進講」するなど思いもよらない家系に生まれついた圧倒的多数の国民に対して失礼である。
そもそも彼がこのことを述べる文脈が唐突なのである。
対談の中で、聞かれもしないことを彼は自分から突然、前後の脈絡なくここで、「たまたまじいさんが昭和天皇に御進講した生物学者」であることを挿入句的に持ち出すのである。(微妙なニュアンスは前掲書を読まれたらわかると思う。)

 仮に「男の子が危ない」ということが本当だとしても、実はそれ以上に「女の子の方が危ない」と私は思っている。
日本社会の中で、男性よりも女性の方に「文化的アドバンテージ」があることは今に始まったことではなく、日本の文化そのものの中に内在することだと思う。
「日本の母性社会」論は20年以上前から指摘されていることである。
今本当に危ないのはそのような日本の文化的基盤が崩れていることではないかと思う。

 学校現場では多くの人間が気づいてはいるが、乱れが激しいのは男子よりも女子の方である。
掃除一つとっても動きが鈍いのは女子の方なのである。
服装の乱れもそうである。
さらにごくごく常識的に、女子は年上と付き合うことが多く、男子は年下と付き合うことが多いということを、わざわざ「女子の方が男子よりも初交年齢が早い」という言葉を持ち出すことよって、
さも何か新しい発見をしたかのように装っているだけではないのか。

 またよく「社会学的には・・・・」とおっしゃる。私にはどこまでが彼の意見で、どこからが社会学の見解なのか、よく分からなかった。
仮に彼の意見ではなく、社会学の見解だとしても、その学問を研究するのが学者の使命なのであるから、
結局は宮台自身の意見だということになると思えるのだが、違うのだろうか。

自分の発言が間違っていれば、それは自分が間違っているのではなく、社会学が間違っているのだ、ということなのかとも考えたが、よく分からなかった。
私は彼の発言を聞きながら、学者の言説の持つ社会的な責任はもっと追及されてしかるべきだと思った。

 子供の「自己決定」を認めようという主張だけが先走り、どうすれば自己決定できるのか、どうすれば教育の中でそれを援助できるのか、そういったことが問題にされていない。

 

 これとは反対に、千葉大学教育学部助教授の諸富祥彦は次のように言っている。

 『「あなたは本当は何をしたいのでしょう」。
この問いは自己実現を援助するための問いである。
しかしそのような自己実現を求める姿勢がまさしく「心のむなしさ」を生み出す元凶だと考えられる。
そして、「あなたは何をしたいか」ではなく、「人生はあなたに何を求め期待し要請しているか、誰があなたを必要としているか」を問うていく』べきだと述べている。

 

 宮台真司は、「学校」と「軍隊」と「監獄」を同列に扱っている。
私は現場の教師として、「学校」を「軍隊」と思ったことも「監獄」と思ったこともない。

 集団性はどの国にも共通して見られるものである。
最近では、「コミュニティー」とか、「共生」という言葉で呼ばれるものも、実は集団性の別名である。

 「自分が本当に何をしたいか」ということは、そのような集団内部での相互作用を抜きにしては考えられないことであり、
すべての人間はそのような人間相互のやりとりの中から、自分の行くべき道を選んできたのではなかろうか。

 孤独な人生しか知らず、いつも自分の思想の中に閉じこもろうとすることで、自ら「引きこもり型」の典型になってしまっている宮台真司というこの学者は、未だそのことに気付かず、他の引きこもり型人間の更正の不可能性を説くことで自らをも正当化している。

 彼は、社会のなかから集団性を抜き取ってしまうことで、個人をバラバラに分解しようとする、社会の破壊者である。

  (宮台真司は東京都立大学助教授)



教育の崩壊

ezカウンター
広島 不動産 芸能人ブログ パタンナー アパート経営 クーリングオフ ボーカルスクール 認知症 携帯アフィリエイト Web制作