祝☆2002年度旅行無事終了☆

 2002年度ゼミ長さんと先生のおかげをもちまして、2002年度最後の自主ゼミの行事?旅行が無事に(笑)終わりましたね。ありがたいことに先生も楽しかったとおっしゃってくださり、ゼミ員一同恐縮の連続でしたけど。いや、わたしも楽しかったんですけどね。

 とりあえず、簡単に旅行記をいたしましょう。

21日(金・祝)
 8時に東京駅集合。管理人が一番遅く、人々に迷惑をかける。理由は、一・この日引っ越し当日で、朝も段ボールに物をつめてた。二・帰ってきたら新居に帰ることになるから定期を解約してた。以上の2つなのだが、はっきり言って馬鹿馬鹿しい。しかも二については「月曜にやっても払い戻し金額同じですけど、それでもやりますか?」と聞かれたのに「はい。」と答えた自分。帰ってきてからやれよ。
 それでも京都に到着。「世界水フォーラム」と「三連休」の効果が遺憾なく発揮されたような状態。簡潔に言うと、「京都混みすぎ」。

・大学寮址(←京都ではこのように書くらしい。勉強になりました)
大学寮は古代の高等教育機関である。現代のように義務教育のない中で、官僚達にとってのほぼ唯一の教育機関だった。しかし実際には一部の中・下級官人を養成したにとどまる。道真などは大学寮出身の官僚の代表である。
 中古では紀伝道、明経道、明法道、算道に分かれていた。主流は紀伝で、『源氏物語』夕霧も紀伝道に学んだ。
参考作品→『学令』、『源氏物語』少女巻
 二条城の南西のはずれにあり、現在では碑が残るのみとなっている。その隣にはなぜか?小さなほこら(じゃないかな。何ていえばいいのかわからないのでわかる方教えて)があるので、一応手は合わせてみた。それにしても唐突に現れる。この小さな石碑は大学寮のどこを指しているのだ?と疑問を抱かざるを得ない(笑)。近くには神泉苑があり、管理人はそこでご飯を食べるのはどうかと思ったが、高価すぎて断念。あひるが二羽泳いでいて、一年生はしゃぐ。

・一条戻り橋〜晴明神社
 一条戻り橋は堀川にかかる橋。『権記』からすでにこの名称で、御所の鬼門に位置していたためか「異界を結ぶ橋」といったニュアンスの伝説が多く残る。文章博士三善清行がなくなった際、親の死に目に会えなかった息子が熊野詣から急いで帰京し、この橋で父の葬列に出会った。祈りを捧げると清行は寸時生き返ったという。この故事が由来となっている。
参考作品→『夫木和歌抄』、『平家物語』『前太平記』→『戻橋恋の角文字』、『今昔物語集』
 晴明神社は安倍晴明の邸跡に建っている神社である。寛弘四年に一条天皇の勅旨により造営した。
参考作品→『大鏡』第一巻花山院、『今昔物語集』、『枕草子』、『御堂関白記』など
 アットホームなそば屋で腹ごしらえをした一行は次の目的地に向かう。二条城からバスでしばらく上ると、一条戻り橋と晴明神社がある。堀川には水が無く、どうにも寂しい。戻れないくらい短い橋だよなぁ・・・と思いながらも、一応渡ってみたりする。一方、晴明神社は由緒もへったくれもないような新しく明るい神社。来るたびに立派になっていくという証言があり、陰陽師の威力を知る。土産物屋まで出来ているんだけど、それはどう解釈すればいいのだろう(笑)。売れれば何でも商売になるんだなぁと思う。

・北野天満宮〜平野神社
 北野天満宮→天慶五年七月十三日に、多治比文子に託宣があった。しかし文子は「賎妾」のため、邸内に小祀を構え祀った。天暦元年三月三日には、近江国比良宮の禰宜にも託宣が下っている。その旨を北野の朝日寺の僧最鎮に伝えた。三人は協力し同年六月九日に北野神社を創建した。天徳三年二月には、右大臣藤原師輔によって社殿が増築され、平安京での第一級の社になったといえる。
参考作品→『大鏡』時平伝、道隆伝、『栄華物語』
 平野神社→それぞれ来歴を異にする今木・久度・古開・比売の四神が合祀されたもので、延暦十三年から延暦二十年の間に創始されたものと思われる。四神は皇室の守護神、とりわけ皇太子守護神としての性格を持っていた。のちに源氏・平氏などの氏神とも考えられるようになる。伊勢・岩清水・賀茂などとともに上七社に数えられた。また、建築様式は平野造(比翼春日造)といい、重要文化財である。さらに、境内の桜は花山天皇が手植して、桜の名所とされている。
参考作品→『拾遺集』264番歌、592番歌、『山家集』1181番歌、『枕草子』272段など
 折しも梅が満開の北野天満宮は、かなり人が多かった。しかし運のいいことに、宝物殿が開いており、『北野天神縁起絵巻』などの貴重なものを見ることができた。時間の関係(?)で、変体仮名を読みきれなかったのは残念だけど・・・(笑)。初詣のように、並ばないとお参りをすることができなかったのにはびっくりしたが、院受験の皆様を中心に列に並び、天神さまに手を合わせた。管理人は賽銭を奮発してみた。五円玉なかったので。管理人の「奮発」の値段はご想像にお任せします。平野神社は桜が咲いていなくて少し寂しかったのだが、花山天皇陵への道を聞くことができた。しかしながら彼は非常にニュアンスでトークなさるタイプの方だったので、我々不安な感じで次の目的地に向かう。

・花山天皇陵
 正式名称は紙屋上陵(かみやのほとりのみささぎ)。花山法皇は寛弘五年二月、花山院において崩じ、一七日に葬られた(『日本記略』)。後世その所在を失い、僧正遍照墓伝承地を当てる説、大報恩寺の北とする説、現陵の北方とする説があった。現陵は『日本記略』『御堂関白記』などから考えられた位置にある。幕末に修復されたのが今の姿につながっている。
参考作品→『大鏡』花山院、『栄花物語』、『古事談』巻六
 北野天満宮の前にあった「花山天皇陵参道」とかいう矢印と何の関係も見出せないような場所に「こんもりと」存在していた。さすがに皇室の陵だけあって、随分遠くから眺めるだけであった。紫式部の墓を思うとやっぱり身分ってすごいもんだなぁと思う。近くまで行って花を供えられるのと遠くから見るしかないのとどっちがいいかはどっちともいえないと思うけど。管理人は個人的には花山天皇はすごく面白い天皇だなと思っている。もしかしたら、現代の感覚では「改革に積極的」だっただけで、藤原氏的には「狂ってた」のかもしれないと思う瞬間があったりして。女関係が乱れてたのは事実みたいだけどね。

 ここで、我々は宿に入り、先生をお待ちすることに。それにしても帰りのバスは混みすぎだったなぁ。駅まで一時間かかるのはどうなんでしょう?京都はいつもそうなのだろうか?某大学の卒業式があったのも印象的。うちと違って振袖の人が多かった。
 晩御飯が多かった。いちごのゼリーにパセリが飾ってあるのはなぜ?そして、先生の部屋のエアコンがつけたばかりで壊れていたのは一体・・・。

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