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28.天満青物市場
          環状線天満駅の北側にある天満市場とは何のカンケーもありません。 あそこが天満か疑問なくらいですから

   天満かいわいをめぐったあげく、今では痕跡だけが残るものがいくつか出てきました。
   ネット検索で見つかる資料はごくわずかで、何かの又引だったりするだけで、僕の疑問には答えてくれません。
                天満青物市場はどこに(どの通りのどこからどこまで)
                        いつごろあったのか?

   先ずは、天満青物市場とは何かを紹介します。
       天満青物市場を実際に目にした人は80歳以上です。戦災で焼失したので。
       江戸から明治までは大阪一どころか日本一の卸売市場でした。
       中央卸売市場ができて次第に縮小され、戦災後は再建されませんでした。
          大正3年(1914)の青物市場


大阪天満宮といえば「天満青物市場」それは歴史マニアの中でもごく一部だけです・・・
天満青物市場は秀吉の頃からあり、明治どころか第2次大戦の爆撃で焼失するまで存続していました。
石碑が大川沿いの南天満公園内にありますが、市場がどこだったのか、どれほどの規模だったのか
一切の説明がありません。
調べてみました。

まずは Wikipedia では
    江戸時代、大坂は三府(江戸、京都、大坂)の一つとされ、商業都市として栄えていた。
    その中で堂島の米市場、雑喉場の魚市場と並んで三大市場のひとつとされ、青果物(野菜・果物)の取り扱いを
    独占していたのがこの市場である。
    もともと青物市場は石山本願寺の辺りにあったが、豊臣秀吉による大坂城築城の頃から二転三転し
    寛永12年(1635)に天満へ移転されたとされている。その後、堀江や難波に出来た野菜市などとも競合するようになったが
        北区誌などの記述によるともう少し後の承応2年(1653)に天満に移転したようです。
    天満青物市場は長らく官許の市場として繁栄を続けた。
    貞享2年(1685)当時は54軒の問屋を有し、明和9年(1772)には株仲間の開設を公認された。
    明治・大正になっても大阪市一の青物市場として栄えていたが、昭和6年(1931)に
    大阪市中央卸売市場が設立されて廃止となった。

北区誌 大阪市北区役所編 1955
    はじめ秀吉が市街の経営にあたるにおよび、自然発生的な成長をとげていた青物市場を
    京橋の土堤下に移転せしめた。その後、慶安4年(1651)に至って市場は京橋の片原町(今の相生町)
    に移されたが、青物は青物、魚類は魚類でそれぞれ特有の事情があるので町奉行に嘆願し、承応2年(1653)
    7月に許可を得て、青物商は乾物及び生魚の一部とともに天満の地を選び、
    市場の区域を天神橋北詰めから東へ、浜通りを龍田町西角までと定められ、これが天満青物市場として発展した。
    当初は53戸で往来の人も少なかったが周辺から移入される蔬菜・果実・干物類そのほか付属品の取扱販売
    によって次第に繁盛し、八軒家にも近く旅客の便、物資の輸送に恵まれて賑わった。
    そのとき魚類商の大部は靱町(現在の東区伏見町)に移り、乾物及び魚類商の一部は天満七丁目裏町に移ったが
    のち天神筋町に移って天満魚市場として明治年間まで続いた。
    先に元和2年(1616)川崎に東照宮が造営されたが、魚商は毎年4月16・17両日の祭には臨時に天満5丁目
    (市の側より2筋北の東西の通り)に出店して魚類を販売したので、この地を俗に「魚の棚」と呼ぶようになった。
    昭和30年頃の認識は「市の側」=「浜通り」だった。
     ところが、これを「いちのそば」と読むか「いちのかわ」と読むかは、大問題です。
              いちのそば=市場のそば  いちのかわ=市場がわ

    秀吉の大坂築城のころ以来の古い歴史をもった天満青物市場は、市場取締の上からも、取引方法についても
    急速な都市の発展に歩調を合せるべく努力がつづけられた。しかしながら時勢の赴くところ
    明治年間に入ってからは交通運輸事情の変化をみ、また諸般の事情は独占制の保持を困難としたため
    次第に往時の隆盛をみることができなかった。
    明治六年従来の株制を廃止したが、悪徳商人の横行をみるに至り、府庁の允許を得て市場仲間規則をつくり
    市場の発展に力をつくしたが、奸商の禍根を断つことができなかった。
    またこれまで抑止に努めてきた近接町村落からの無断立売や仲買の産地直買がつづき
    いまの堂山町には早くから北野青物市場があり、南に木津青物市場があり、衰退した商勢を挽回することは
    容易でなかった。
    その後の市勢の発展は市場の取引地域を広めあるいは北海道に、あるいは海外諸国への移出ともなって
    市場区域の狭隘をきたすようになり
    四十一年十二月区域を拡張して龍田町浜通以東、金屋町以西及び淀川沿岸以北裏町筋まで一円を市場区域とする
                       つまり東側と北側への拡張が認められた
                                 天神橋から西側がどうだったかについては触れていない。

    許可を得た。その後も仲間員の激増と取引量の増加はふたたび区域の狭隘をきたす有様で
    市場にそう河岸地の埋立許可を得て鉄筋コンクリートをもって床張をなし、仲間規則を改正し
                    この拡張工事がいつ行われたかは示されていないが、明治末~大正始
    保証責任天満市場信用生産組合として大正五年四月十日大阪府の許可を受けた。
                          工事は大阪府でも大阪市でもなく市場が行ったことがわかる
                          写真から工事範囲は天神橋から天満橋までとわかります。


大阪春秋13号 1977
    天満青物市場の前身ともいうべき旧市場は、大阪夏の陣のあと、元和元年(1615)から翌2年のころ
    淀川に面した京橋南詰の京町1丁目の淀屋个安の屋敷地において開設された。
                有名な淀屋屋敷は下流の土佐堀にありました
    それは大阪城主の松平忠明の時代における市街地の復興・整備とも重なり会っていた。その後、その場所は
    幕府の御用地として公収されたので、慶安4年(1651)に京橋北詰の片原町(現在の都島区片町)に移転した。
    ところが、この場所は京街道に沿っていたので人馬の往来が激しく、また新市場の家主たちは家賃を引き上げて
    不当の利益をむさぼるなどの不都合が生じ、さらにこの市場では青物・魚類の混合営業をおこなっていたので
    不便な点が多くなり、同市場の諸商が協議を重ねた結果、青物・魚類は分離して移転する決意をかためた。
    大阪町奉行では、このような意向を認め、生魚・塩干魚商は靱町に移り、青物商ならびに生魚商・乾物商の
    一部は天神橋北詰東角から竜田町西角にいたる大川筋の北側のいわゆる「市の側」に移転した。
                            ここでは「市の側」=「浜通り」と考えている
    永市寿一氏の「天満市場誌」上巻によると、移転した問屋の人数は次の32名であった。(漢字は天満市場誌より)
久寶寺源右衛門 山家屋彌兵衛 山家屋市左衛門 山城屋八郎衛門
山城屋仁右衛門 池田屋次郎兵衛 蓮屋新右衛門 くにい屋治兵衛
山城屋太兵衛 山家屋三郎兵衛 山家屋嘉右衛門 泉屋庄左衛門
灘屋仁兵衛 山家屋七右衛門 丹波屋彌右衛門 諸福屋治左衛門
吉野屋九右衛門 灘屋新右衛門 高 源兵衛 山家屋與右衛門
菰笥屋友右衛門 打かき吉左衛門 久宝寺屋與兵衛 酢屋嘉兵衛
紀伊国屋浪左衛門 森口屋伊兵衛 紀伊国屋仁兵衛 伏見屋甚左衛門
中島屋作右衛門 蓮屋小左衛門 万屋作左衛門 大根屋忠右衛門


大阪時事新報 大正11年8月26日(1922)
    中央市場反対に天満市場の釈明
    大阪市が政府から低利資金を借受けて中央市場を設置すべく計画して居るので此事を聞知した天満市場が
    府市当局を始め内務省に対して反対の陳情すると同時に反対運動を起すように伝えられたので天満新市場の
    山内真次郎旧市場の大村清七天満魚市場の棚橋種次郎氏等の役員は打連れて二十五日午後市庁に市政記者団を
    訪問して釈明する所があった
    毎年売上一億円に達し而かも天満市は御承知の知く古い歴史を有って居って今日では新市場旧市場魚市場及
    海産物の裏街市場を総称
して天満市場と称せられているが偶々大阪市に於いて中央市場を設置すると云う事を
    聞知して我等は昨年秋中央会を組織して中央市場に就いて研究する事となり目下研究中であって
    天満市場は中央市場の設置に関しては今尚白紙である
    尤も天満市場と雖も時代の要求に順応する中央市場が設置される事に反対する者ではありませぬ
    少くとも吾等三名は中央市場が公定相場の立つように而かも配給関係の可なる以上は中央市場の設置に
    賛成する事を躊躇しない
    然るに某新聞紙に天満市場全体が中央市場の設置に反対である知く発表されたのは甚だ遺憾である
    裏街市場のみが組合総会を開いて反対の調印を執ったようで魚市場にも又新市場にも調印の賛成を需めたが
    新旧市場を初め魚市場は中央市場設置の具体案を見なければ直ちに反対する如きは不可なりと調印を拒んだのです云々

       このニュースは、大正11年に中央卸売市場法が議会に上程され、翌12年3月に成立したことが背景にあります。
       各地に中央市場(大阪も)が整備されることになったが、天満市場がその設置に反対というニュースが流れてしまい
       市場関係者があわてて市に誤報だと釈明したということです。
       元々あった魚市場が靱ウツボに移転したけれどもなお天満には魚市場は残っており
       さらに乾物市場だけでなく青物市場自体も新旧に分かれていたと読み取れます。
       それらが新しい中央市場に移転するには賛成反対いろんな意見でバラバラになってたハズ。
       法律の骨子はわかったけれども、具体的な内容はまだ全く見えていなかったのです。

大阪の市場 国会図書館写真帳-写真の中の明治大正
    堂島米市場 (省略)
    雑喉場ざこば魚市場(省略)
    天満青物市場
        大坂の青物市場の歴史は古く、その起源は、石山本願寺が創建された明応5年(1496)までさかのぼる。
        門前に集まる人たちを相手に開かれた青物市が寺の発展とともに大きくなっていった。
        その後何度か場所を変えたが、承応2年(1653)7月晦日に、町奉行所から許可されて
        天満の地(天神橋上手から天満龍田町までの間の大川沿いの浜側、現在の天満3丁目)へ移転し
        淀川の水運に恵まれて発展していく。
        周辺農村による青物作りの展開と、大坂三郷(北組・南組・天満組)市中の人口増加による
        需要の拡大によって発展し、大坂の住民が消費する野菜を独占的に供給していた。
        紀伊、近江、山城その他畿内各地から、ウグイス菜(小松菜の古名)、三葉、セリ、ウコギ、
        天王寺蕪、壬生菜、伏見孟宗笋、河内蓮根、紀州ミカンなどが集まって取引されてにぎわったという。
        市が盛んになると、天満以外にも、道頓堀新市、堂島新市、堀江新市、曽根崎新市などの設立運動が
        起こったが、天満青物市は、そのたびに反対訴訟を起こしてそれを封じ、明和9年(1772)
        冥加銀を納めて40軒の問屋株、150軒の仲買株が免許された。
        新市を認めないだけでなく、市中の立ち売りや近郊農民による直接売買の禁止も公認させ
        株仲間による完全な問屋独占に成功した。
        しかし、この特権的地位も長続きせず、寛政10年(1798)には、周辺26村の農民の市場内立ち売り場が設立される。
                  完全独占は1772~1798までの26年間だけでした
        明治期になると統制から開放され、青果物自由市場が広範に発達していく。
        しかし、昭和6年(1931)11月に天満青物市場は大阪市中央卸売市場に統合され、その配給所になった。
        こうして、20年(1945)5月戦災で全焼して廃止されるまで、天満青物市場は、290年余りにわたって
        生鮮食品流通の拠点として大きな役割をはたし続けた。


江戸時代の地図には市場がどのように記載されているでしょうか?

入手できる最も古い絵図 新板大坂之図 明暦3年(1657)
    
        ここには青物市場は記載されていません。(京橋にもない)
        脱線しますが、上の方にある「曽我丹波」とは西町奉行曽我丹波守古祐のことで、寛永11年(1634)~万治元年(1658)
        なので、明暦3年とは矛盾しません。

新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図  元禄4年(1691)  左が北
    
        江戸初期にはすでに天満橋と天神橋の間に「このアタリ八百物市場」とあります。
        ただし町名はかなり違っています。
        南北の町名は天満一丁目から十一丁目まであり、十丁目が天神橋筋にあたります。
        このため、天神橋筋を古い人は「十丁目じっちょうめ」と呼んでいます。
        私自身は言わないですが、祖父がそう呼んでいたことを覚えています。


摂津名所図会
    寛政8年(1796)発行のオリジナルを 大正8年に再刊したもの。
      
           天満市いち之側かハ  「いちのかわ」と読むことがわかる
           常に●毎に市なり又
           毎年極月廿四日の
           ●●●紀国きのくにより多く
           積上つみあがせるみかん●●●●
           ●●るに●橋麻きやうま
           ●く諸人●●るに
           市の繁花●●
           首長●るべし

      
          天満菜蔬あをもの
          市場は天神橋北爪上手より龍田町まちまで、濱側通三町許の間なり。
          天神橋より下手は市場にあらず。市の側かはといふなり。
          世人天神橋より下手を西市場上手を東市場、といふは謬あやまりなり。
          東西の市場、天神橋より上手龍田町まちまでの中にての通偁つうしょうなり。
          問屋四十軒、中買百五十軒といふ。此市場は、日々朝毎に多く人聚あつまりて菜蔬を賈あきなふ。
          抑春のあした、春日野の若菜より売り始め、鶯菜・磯菜・嫁菜・杉菜・芥子若葉・蕗姑根・白草・
          早蕨・天花菜・独活芽・浜防風・狗杞・五加木・三葉・芹・蓬蓮草は、
          木津難波の名産、天王寺蕪・椋橋大根・海老江冬瓜・
          又時雨月上旬には紀の海士・有田の両郡より、蜜柑数百萬積み来たり、師走二十四日まで大市あり。
          原此市場は、往古京橋南爪に於て年久しくありしが、慶安の頃、其所官家の御用地になりて
          京橋片原町へ引き移す。
          商人の往来に煩ありとて、替地を免許ありて今の所へ引き移りて、日々店々飾り
          ゆききも労がはしきほど市人立ちふさがり、かふ人あり売る人あり、にぎはしき事は
          常にたゆむ事なし。清少納言の枕草子に、市は辰の市。椿市・おふさの市・しかまの市・あすかの市
          までは書き給ひぬれども、此市を書き遺されし事は大なる憾ならずや。
          市場は大川側にせり出すように建っており、荷船がその下についています。
          「天神橋より下手は市場にあらず」と断っているのは、当時すでに市場が天神橋を超えて拡大していた証明です。

天保新改攝州大阪全圖 天保8年(1837)
    
        天満橋と天神橋の間の右岸(天満側)に河川敷が広がり、青物市バとあります。
        この河川敷は単なる浅瀬や砂州ではなく、市場を拡幅したものなのです。
        なぜそう言い切れるかというと
           ①大川のあちこちには浅瀬や砂州ができ、流れを阻害するほどだったので
              明治期にいろいろな河川改修がなされるほどでした。
              従って、そんな砂州をいちいち地図に記載するはずがありません。
           ②明治初年の天神橋の写真には市場が川にまでせり出しているのが写っています。


浪華の賑い 安政2年(1855)
      
          天満蔬菜市
          此市場へ日々朝毎に
          数万の商人あつまりて
          蔬菜を売買ふを恰
          も●の涌くがごとしされど
          ●●の若葉より年の
          暮の葉●●●●
              以下略


明治2年の天満橋
      
      奠都てんと50年記念に発行された天満橋の絵葉書。
          (遷都と言うのが腹立たしい大阪・京都が「奠都」と言った。)
           ついでに言うと、遷都の詔が天皇から出されていないので奠都でよいのだ
           と、言い募る人がいますが、京都人は実は天皇には帰ってきてほしくないと
           思っているフシがあります。だって、メンドーなんだもん。
           建前と本音の使い分け、これが京都人です。
           ついでながら、ワタクシだって、オリンピックもG7も東京でいいや
           だってメーワクなんだモン。
      対岸が大川右岸の天満で、橋を境に上流側と下流側(市場側)で土手の形状が違います。
      市場側は石積の階段状で、これは水位が変わっても荷下し荷上げが容易にできる工夫です。
      その前には河川敷か砂州ができていますが上流側には見当たりません。
      民家・商家の屋根はすべて瓦葺きで、裕福だったことがわかります。

明治初年頃の天神橋
      
      明治初年ごろ、天神橋の下から天満橋・大阪城(天守閣はない)を望みます。
      左端に大川に沿って2階建てが並んでいるのが青物市場です。
      橋の上に立つ人は三度笠が1人、和傘が3人。着ているのは全員が着物。
      夏の暑い日差しでは日傘を差すのは当然だったのがわかります。(現代では女性だけ)

明治4年(1872)の天満
      
      青物市場の表示はないが大川ぞいの河川敷は相変わらず見えます。
      現場を見ないで昔の地図を下敷きに書いたのでしょう。

明治17年(1885)年の天満
      
      1872年の地図よりもっとイイカゲンです。 この地図から何かを読み取ってはいけません。

明治18年(1886)の天満橋
      
      明治18年に淀川左岸が決壊し大阪市内どころか東大阪全域が水没する大水害がありました。
      大川の橋も多くは流され、天満橋もこの通りです。
      注目するのは明治2年の写真とで背景の天満の家並にあまり変化が見られないことです。
            大きな違いは背景にあった森がなくなったこと。これが近代化というわけでしょう。

明治19年(1887)の天満地図
      
      大川右岸の天神橋から天満橋の手前(金屋町)まで浜通りの両側に家が並び、さらに河川敷にも境界線が
      ひかれており、市場として利用されていたことが明示されています。

明治後期~大正初期の天神橋
      
      流失後の明治21年(1888)に鉄橋に架け替えられた天神橋。この橋銘板が現在も橋のたもとにあります。
      橋の背景に市場の建物が写っています。
      拡大すると、大川ぞいには荷船がギッシリ並び、家と家の間には道路から河川敷に下りるスロープも見えます。
      市場を鉄筋コンクリートで拡幅するのは明治末~大正始なので、この写真はその直前のものであり
      市場の建物は木造で江戸時代からのままなのでしょう。
      行きかう人は洋傘をさすのが4人、菅笠が1人、帽子が2人。

大正3年(1914)の天満
      
      濱通りに「市ノ側」とあります。

大正3年(1914)の青物市場
      
      濱通りはこのとおりの賑わいです。 道路はゴミが散乱し、舗装もされていないようです。
      行きかう人の多くが菅笠を被っており、洋傘を差すのは1人だけ、麦わら帽子が4人。

大正12年(1923)の天満
      
      町名や通りの表記はありませんが、大川に面して天満橋から天神橋まで「床」のような建物が建ち並んでいます。
                      ですが、天神橋から西側には土手上に建物が並ぶだけで、これは現在もあります。

昭和9年(1934)以前の天満市場
      
      浜には荷船が並び、荷物と人で通ることも難しそうです。
      背景に鉄骨トラスの天神橋があるので、撮影年代は明治21年(1887)~昭和9年(1934)の間です。
      撮影時期によるのでしょうが、笠を差す人はおらず、ハンチングあるいは鳥打帽が多いようです。

昭和3年(1928)の天満
      
      地図では上記パノラマと同じ内容です。

昭和3年(1928)の天満空撮
      
      次の地図との違いは
        1)濱通りと大川との間に建物が3列、その間にはアーケードも。
        2)天神橋より西側で堀川までは建物が1列で大川と建物との間には庭らしきものがあり、浜はないので
         この頃には天神橋を境にして浜の使い方が変わっていたのです。
      大正時代の地図では記載されていない新市場(大川埋め立てと市場拡幅)が写っています。
      この拡幅は大正5年に許可されているので、実際の工事はその1~2年後には土台コンクリートが完成し
      上部の市場建物はそれからの工事になります。

「北区東天満 番地入地図」昭和4年4月8日発行(1929)
   
   一番下(南端)に「天満新市場」 その上に並行して「天満市場濱筋」とあります。

昭和5年頃(1930)の新市場
      
      影の方向からこの写真は西を向いての撮影だとわかります。
      左手の建物の裏側が大川になるわけです。 地面は土のままで舗装はありません。
      アーケードのように屋根代わりに葦をかけています。
      季節は晩秋でしょうか、寒そうに見えます。

<昭和4年頃(1931)の市場 天満橋より
      
      道路より下は鉄筋コンクリートになっています。
      看板は「天満市場貨物電車荷捌所」
             電車とは何を指すのでしょう? すぐ側を走る市電に貨物電車があったのでしょうか
                            それと市場内を走る電気自動車? そんなハズはない
                            よくわからないのです・・・
      大川に並行に3列の建物が見え、その向こう側が浜通りです。

<昭和4年頃(1931)の市場 天神橋より
      
      道路面から浜へ下りるスロープが見えます。
      鉄筋コンクリート建替えは濱通りより南側なので、以前にあった木造店舗は撤去されたはずです。

<昭和4年頃(1931)の市場
      
      行きかう人の服装は洋服のように見えます。
昭和8年頃の新市場
      
      新市場床下の浜での立売りだそうです。かなたに薄く天神橋が見えます。
      市場の建物は通りまでは鉄筋コンクリートになっており、明治初年の写真では木造でした。
      建物の影がこのようにできるのは朝です。

昭和8年の青物市場
      
      朝日新聞が撮影したものです。
      手前の橋が天満橋、かなたに中之島や天神橋があり、その間の青物市場にはアーケードがありますが
      濱通りではなく大川側の新市場で続いています。

大大阪地図  昭和11年(1936)
      
      ここでは天満市場は「天満配給所」と表記されています。
      昭和6年(1931)に中央卸売市場ができて、天満市場はその出先として配給所の名前に変えられ
      昭和18年(1943)に中央卸売市場天満分場と名称変更されます。

昭和17年(1942)の天満
      
      濱通りはありますが、大川沿いの建物はありません。もちろん公園も。
      明らかに間違いなのですが、理由が想像できません。軍事施設と何の関係もないのですから。

昭和22年(1947)の天満
      
      敗戦後の昭和22年(1947)の天満では、堀川沿いに焼け残った区域が結構あります。
                       天満宮は残りましたが、天満別院や天神橋筋商店街は焼失しました。
      大川沿いの市場跡が見え、上記1942年地図は間違っていることがわかります。

昭和23年(1948)の天満
      
      翌昭和23年(1948)では復興が少しづつ始まっていることが読み取れます。

昭和25年(1950)の天満地図(商店名入り)
      
      青物市場の大川側大半は空白です。(何もなかったかどうかは不明です。地図は存在証明なのです)

昭和35年(1960)7月25日の青物市場
      
      関西大学図書館の資料にありました。予想されたにわか雨でも店先避難する人を写したものです。
      この場所はどこなのでしょうか? 店名「ミドリ」「ヤシマ商店」を古い住宅地図で探すしか・・・
      この写真は濱通りの南側の建物2階から撮影されています。そんな建物は戦後は菅原町にしかありません。
                                    天神橋から天満橋までは焼失した
      注目するのは、道路の端が石で舗装されていて、その一部が現在の菅原町に残っています。
         

昭和36年(1961)の天満
      
      昭和36年(1961) 戦後16年経ちます。
         焼け跡はなくなり、建物で埋まっています。
         濱通りと大川との間は南天満公園となりました。
         川ぞいの新市場は完全に撤去されています。

昭和46年(1971)の天満       
      昭和46年(1971) ずいぶん変わりました。
         道路が拡幅され、市電が廃止されました。
         堀川が埋め立てられて上を高速道路が通りました。(大川への出口部はまだ残っています)
                                   その後、完全に埋め立てられます。
         あちらこちらにビルが目立ちます。

現在はこの濱通りの道路だけが残り、大川との間は南天満公園となっています。
      
      天神橋北詰めの東側にある建物は交番です。江戸時代なら橋番所とでも言いましたか。


大阪市中央卸売市場の歴史年表
  卸売市場内の水産物卸協同組合が示している卸売市場の年表には
大正12年11月 中央卸売市場法施行
大正13年3月 市会において中央卸売市場創設の件可決
大正14年3月 本場の位置決定、市場開設の件許可さる
昭和3年9月 中央卸売市場冷蔵庫竣工・冷蔵利用組合発足
昭和4年7月 本場建設工事に着手
昭和4年4月 世界恐慌
昭和5年11月 卸売単複問題に関する市長の裁定案発表  単複問題とは何か、アトデ
昭和6年3月 本場建設工事竣工
昭和6年9月 大阪青果仲買組合 結成
昭和6年10月 大阪海産物仲買組合 結成
昭和6年11月 木津・天満両配給所を設ける
類似市場12ヶ所に対し閉鎖を命じる
昭和6年11月11日 卸売市場本場開場
昭和8年3月 国際連盟を脱退
昭和8年6月 天満配給市場利用組合結成
昭和10年2月 東京市中央卸売市場開場(築地・神田・江東)
昭和10年10月 天満配給所新築完成・業務開始
昭和18年8月 天満・木津両配給所を買収し分場とする。
昭和20年3月 空襲により木津・天満分場焼失(5月廃止)
    中央卸売市場が昭和6(1931)年3月にできた後も天満青物市場は名前を変えて存続します。
      天満配給所と呼ばれたのは昭和6年(1931)10月~昭和18年(1943)8月まで
      天満分場 と呼ばれたのは昭和18年(1943)8月~昭和20年(1945)3月焼失
                  昭和20年5月には完全廃止



大阪朝日新聞  昭和6年(1931.7.23)
    解決への大阪市場問題
    居残りを許さず単一制を貫く
       希望の市場は『配給所』に
         柴田知事より申し渡し
       久しく大阪市政界を陰鬱にしていた大阪市中央卸売市場の開業問題はいよいよ柴田府知事、関市長の名をもって
       二十二日午前十時知事官邸別館に木津難波の加入反対組たる大阪南市場連合会の代表者を、同十一時四十五分
       その他の市場の代表者を招致、息詰るような緊張裏にそれそれ知事、市長から最後的の懇談を試みた
    憤慨した代表者関市長を怒罵 木津難波組との『懇談会』
       まず木津難波の加入反対組の懇談には府側から柴田知事、坂間内務部長、沖野商務課長、
       市側から関市長、児玉助役、矢柴中央市場場長、伊東同次長出席
       業者側の大阪南市場連合会から会長法心善四郎、副会長和気栄次郎、伊藤栄彦、書記長住沢米太郎四氏
       ほかに傍聴者として業者六名、酒梅組代表宇佐美政重氏ほか一名出席し
       法心会長から加入反対の理由および事情を述べこれに対し柴田知事は「本日の懇談はこの際中央市場へ
       参加してもらいたいというのが趣旨である」と前提し
    決定した方針
       一、中央市場の「分場」は遠い将来はとにかくこの際大体つくらないという市長の方針であるから
       監督官庁の府としても、商工省としてもとやかくいうべき筋合のものでないと思う
       一、中央市場は天満、雑喉場、木津難波などの三大市場を含して収容するのが大眼目であるから
       事情はあろうがどうか参加してもらいたい
       木津難波市場で困る事情はどこの市場にもあり、ひとりあなた方にのみ無理を強いるわけでなく
       他を収容して木津難波のみを残すということはできない
       とて懇々と居残りを認めることのできぬ理由を説いた後、最後の解決案たる「配給所」設置問題を持出し
                 中略
    天満その他は静かに懇談 『至極結構』と挨拶す
       さらに同十一時四十五分から同署で天満青物市場浅井熊次郎、同魚市場豊田粂蔵、雑喉場魚市場吉田猪太郎
       靱海産物市場桜井亀次郎靱西海産物市場近宮利吉、雑喉場靱青物市場西村愛之助、木津青物市場林長次郎
       同魚市場西川元治郎の各市場代表と会見、柴田知事から配給所の設置につき
       木津難波市場のみに特別の取扱いをするのではない、靱、雑喉場は中央市場に近すぎるのでどうかと思われるが
       天満市場にその希望があれば認めてもよいなお天満市場の名を存続させたいとあればそれも差し支えないと懇談し
       浅井天満青物市場取締は「至極結構で、業者の多数もそれを希望しているようであるがなお罵と相談の上、明日確答する」
       旨を答え午後零時二十分会見を終った

       年表に出てくる天満配給所の所以は中央卸売市場への集中に反対する勢力への懐柔策であることがわかります。


卸売市場単複問題
   「中央卸売市場の成立と展開」書評
   中央卸売市場の開設と単複問題について
   中央卸売市場法により卸売市場を集約することになったが、従来からの卸売・仲買を全て新設市場に収容することができなかった。
   青物・鮮魚・塩干魚・乾物・食肉・鳥卵などの品目ごとに株仲間あるいは組合に分かれており
   品目ごとに卸売人を単数にするか複数にするか、大論争となった。
   議論の発端は大正元年(1912)の魚市場法で、生産者(産業資本)=複数派
                           問屋(前期商業資本)=単数派 にあったが
   青物市場では大した論争にはならなかった。生産者が小規模農家なため問屋の力が卓越していたからである。
   ところが、大阪の中央卸売市場開設をめぐっては、とんでもない逆転がおこる。
                       鮮魚卸 神平商店=日本水産の総代理店(産業資本)=単数派
                                対
                       綿末商店=大洋漁業の総代理店(産業資本)=複数派
   という2大漁業資本の対立になった。
   これは、当時すでに日本一の漁業会社であった日本水産が、生産だけでなく卸売市場(流通)まで占有しようとする動きだった。
   結果として単数派が勝利するのだが、それは卸売人の話であって、実は仲買人は現在に至るまで多数が卸売市場にいる。
   要するに、たった1社の卸売では流通を支配管理することはできず、実質的には複数に近い。
        ただし、戦災をきっかけに残っていた天満市場・木津市場はなくなります。

   最初にあげた2つのHPのうち2番目は当時の論争をドラマチックに書いています。一読を。


「青物市場旧管理法」「天満青物市場管理法」 明治36年(1903)発行
   天満市場株仲間(業界団体とでも理解しておいて下さいもっとスゴイのですが)が幕府あるいは明治政府に出した願書です。
   ①青物市場舊(旧)規則書
      一 当市場問屋之儀●天正慶長之以前ヨリ石山本願寺門前唯今之土手下ニテ青物干物●勿論其外種類問屋業市売仕来ル所
        元和元年(1615)戦之砌銘々離散仕同弐年(1616)元々之場所ヘ立戻り再商仕来候然ニ慶安四年(1651)住居地御用地ニ相成所替被仰付承応元年(1652)片原町
        ヘ引越候得共商売向不勝手ニ付天神橋ヨリ東龍田町迄之間市場町奉願上候処御聞済相成傍示杭為御●被下同弐年(1653)七月三十日
        天満市場ヘ引移連綿問屋業市売仕来候事
        100年前に奉行の許可のもと現在地に引っ越した古い市場だと主張している。
      一 去る明和九壬辰年(1772)正月十二日株御免被成下御冥加銀毎年銀廿枚宛年々十一月上納仕来候事
        「去る」という言葉からこの書類は多分安永元年(1773)のものだとわかる
      一 古来ヨリ青物干物類売捌方規則市場問屋商法●申候者諸国在々ヨリ積送リ又者歩行荷ニテ持参リ候青物干物類不残問屋共ヘ
        引受候而其上市場中ヘケ様之品参リ候●触流候得●仲買又ハ出買之者其外町方荷ひ売八百屋小店ニ迄寄集リ市ヲ立売渡申候事
      一 右売渡問屋手数料青物類売高銭一貫文ニ付九拾文宛干物類同断一貫文ニ付七拾文宛荷主方ヨリ請取其内弐拾文宛ハ仲買方ヘ
                      青物は9%・干物は7%の手数料で、そのうち2%は歩引き。
        歩引と唱問屋ヨリ相渡候事
        売買システムが違います。荷主から問屋が販売手数料を受け取り、そのうち2%を仲買に渡す。
        つまり買い取りではないわけです。売れ残りはどうするのでしょうか?

      一 諸荷物売払候而荷主方ヘ●問屋ヨリ何程ニテモ仕切致候而金子相渡売先之義ハ現金も有之又ハ問屋ヨリ掛ケ金ニ致
        毎月三十日取集候事
        現金払いだけでなく月末までの掛け払いもできた。
      一 生青物類●市場之外ニテ市立売買一切致間敷候事
        但干物類市立場所銘々可為勝手事。
        生野菜は場外での売買しないが干物は場外もOKということ。
      一 仲買並ニ市在共代価不払之商人又ハ問屋ヨリ仕入金先金貸渡有之荷物猥々●取直売買ニ致不実之所業致候者ハ仲間中ヘ
        及通達ニ示談中取引可見合●書付差出候事
                    中略
      一 素人直売買相増市場所淋敷困窮致候度毎御触面相願候事
         よほど素人の直売が増えたので取り締まってほしい  これがこの書類の目玉では?
      一 往古ヨリ御触面相願御聞済之上三郷町々並ニ続在領ヘ御触面ニ被成下年号左ニ記ス
          天明三卯年三月  寛政十二申年二月  文化二丑年十一月
          天保四巳年二月  嘉永五子年四月   安政六未年四月
        直売禁止の触書は何度も出ている、ということは効き目がなかったということ。
      一 仲間年行事役ヘ袴摺として年ニ銀5枚宛仲間中ヨリ相渡候事
        組合の仕事でハカマもすり減るほどなのでその手当というわけ。株仲間50軒あれば銀150枚
                                                    40両弱となる

      右者旧仲間規則書ニ御座候也
        最後の1行から、明治になってから何かの願出をするときに昔の規則・届出書を引用添付したものと思われる

    大坂天満青物市場沿革並に管理法
     大坂天満青物市場ハ往古明応ノ頃石山本願寺建立ノ際ニ當リ始テ開市シ摂河泉三ケ国ノ農商民ノ者衆合シ青物乾物魚鳥其他日用品一切
     売買シ之レヲ青物市ト名称シ天正ノ頃迄維続ス然ニ天正八年ニ至り本願寺ハ紀伊鷺の森ニ移転シタル跡御用地ニ相成青物市場ハ
     方今字御城土手下ヘ引移シ慶長ノ末迄凢百年間継続スルモ大坂戦争ニ一旦離散シ元和二年鎮定シ之レニ依テ再ヒ京橋南詰土手下ニ
     於テ青物市願済免許ヲ得テ開市営業凢三拾年間継続然ニ慶安四年ニ町奉行所ヨリ市場所御用地タルニ依り立退ヲ命セラレ
     則同所京橋北詰片原町方今相生町ヘ所替被仰付同所ヘ引越開市セシモ京都街道ニテ往来ノ妨害不勘随
               以下略

「天満市場誌 上巻」 昭和4年9月15日(1929)発行
   天満青物市場の歴史を膨大な史料と共に書いています。地史はこうあるべきで、ヘタに資料の取捨選択をするのは感心しません。
   天満市場を調べるには必須の資料です。

   第2章 諸商の分離
   京橋から天満に移転してからのゴタゴタが紹介されています。
   元和2年(1616)に京橋南詰の淀屋个庵屋敷跡にまとめられた市場は、慶安4年(1651)城周辺の整備のため京橋の片原町に移転を命じられたが
   地代・家賃の暴騰や京街道沿いの通行の多さ・野菜商魚商の混在などの問題から、天満への移転を奉行所に願い出る。
   同時に、生魚商塩魚商の大半は東区伏見町(当時の靱町)に移転を願い出ます。
   承応2年(1653)7月晦日に町奉行から呼出を受けた
      尼ケ崎屋是三・尼ケ崎屋治郎右衛門・木屋源左衛門・吹田屋仁右衛門・灰屋忠兵衛・榊道意・総代九兵衛・その子右左衛門等
      先頭から5人が青物市場商人でないのは明らかで、町年寄ではないかと推測します。
   に移転の許可がおりた。
   即ち市場の区域を天神橋北詰東角より東へ、濱通りを龍田町西角迄と定められ(現今の天満旧市場のある区域)
   尚移転の後は決して不当の利を貪らず、専心市場の発展、市街地の繁栄の為に尽力すべしと諭される。
   此の時引越せし問屋の人数は久寶寺源右衛門外31名にして、何も町奉行より市場の区域内に於て営業住居すべき旨の
   御達を受けた。
久寶寺源右衛門 山家屋彌兵衛 山家屋市左衛門 山城屋八郎衛門
山城屋仁右衛門 池田屋次郎兵衛 蓮屋新右衛門 くにい屋治兵衛
山城屋太兵衛 山家屋三郎兵衛 山家屋嘉右衛門 泉屋庄左衛門
灘屋仁兵衛 山家屋七右衛門 丹波屋彌右衛門 諸福屋治左衛門
吉野屋九右衛門 灘屋新右衛門 高 源兵衛 山家屋與右衛門
菰笥屋友右衛門 打かき吉左衛門 久宝寺屋與兵衛 酢屋嘉兵衛
紀伊国屋浪左衛門 森口屋伊兵衛 紀伊国屋仁兵衛 伏見屋甚左衛門
中島屋作右衛門 蓮屋小左衛門 万屋作左衛門 大根屋忠右衛門

   蓋し此の時市場の創設の頃より、恰も付属商の地位にありし魚類商の大部分は靱町(東区伏見町)に移転し
   乾物及海魚類の一部は共に天満の地に移り、天満七丁目裏町近傍に於て細々営業を続けていたが、後天神筋町に
                         そこは許可区域外のはず
   移って現今の「天満魚市場」となり、煎雑魚・イカナゴの類は依然天満市場に所属して、俱に明治初年の頃まで
   営業を継続してたものらしい。ここはハギレ悪い

   けれども独り魚類商の内、川魚商のみは依然片原町に残り、而も後年久しく営業を継続していたやうだ。
   即ち寛保4年(1744)4月 京橋川魚問屋仲買ハ近来雑魚場生魚問屋中、川魚ヲ売買スル者多ク、鮒市場特許ノ権利ヲ
              犯スモノデアルトシテ、之ガ停止ヲ町奉行ニ出願セリ、然レドモ雑魚場問屋ハ
              鮒売仲間ニ於ケル当時ノ営業範囲ガ未ダ後年ノ如ク確定サレテ居ナカッタノデ
              改メテ五月官鯉・鮒・鱣こいノ3種ノ川魚ヲ生魚問屋ニテ売買スルヲ禁ジ
              事落着スルモ、其後又雑魚場町・江之子島・敷屋町・野田村等ニ於テ右ノ品ヲ売買スルモノアリ
              其ノ都度鮒市場ヨリ訴ヘラレ、之ヲ停止セシメキ云々

   川魚ですら何度も区域外売買でモメていたのだから、大本である野菜はもっとスゴイことになります。
   この件は「第3章 類似市場の停止と市場の脅威」 にありますが、長いので省略。

   第7章 市場濱先新築地
     明和8年(1771)11月17日に町奉行より、貨物の水揚積込に使っている濱先付州の使用料を払えとの命令に
     同年11月23日の回答は
         一、私共儀数年青物市場問屋の儀ニ御座候ニ付、荷物等水揚仕候節ハ、右付州有之候ニ付
           商売筋勝手宜敷、乍恐兼々御隣りっしんべん慇之程難有仕合奉存、依之市場中ヨリ為御冥加、初年
           銀二十枚差上、翌年ヨリ銀五枚宛永々奉差上度候御事
             最初の年は銀20枚、次の年からは5枚でカンベンしてよ
         一、濱側問屋共、兼々御願奉申上度段申罷在候ヘバ、浜納屋下ヘ昼夜非人共寄寄リ候テ、火
           之元之儀無心奉存候故、右納屋下ヘ葭簀張置申度奉願上候、何卒右之段御赦免被成
           下候ヘバ、濱側之者トモ一統安心仕リ、難有仕合ニ奉存候、此段御聞届被為成下度乍恐
           御願奉申上候  以上
             床下に非人がいついて火災の恐れもありヨシズ張で締め出したい
         明和8年卯11月23日   市場問屋連判三十九人
         右之通御願奉申上度旨申立候ニ付乍恐奥印仕候  以上
                     天満十町目年寄  外七町年寄
     これに対して、掛り与力の杉浦長左衛門
         非人云々の事は本件とは関わりがない ごもっとも
         冥加金が少ないので再考せよ
     と願書を却下した。
     市場は増額交渉で、初年度銀20枚、次年度以降銀7枚を申し出たが、許されず
         一、私共儀、古来ヨリ青物市場問屋之儀ニ御座候ニ付、青物等取扱候節ハ、右付州有之候ニ付
           是迄勝手宜敷乍恐兼々御隣慇之程難有奉存候、依之市場中ヨリ為御冥加銀子奉差上
           度候ニ付、是迄両度書付ヲ以テ奉申上候ヘトモ、銀高些少ニ付、右書付御差戻シ被遊、此
           上随分出精仕候テ可申上旨被仰付奉畏候、尚又私共度々打寄相互ニ進合、又ハ是迄御
           冥加之利害抔為申聞候ニ付、又々此度ハ銀高相増、初年度銀二十枚ニ、翌年ヨリ銀十五枚
           宛永々可奉差上候、此上ハ従右場所御取払被遊候與欠、青物取扱御差留メ被成候トモ、又
           ハ外方望ノ者有之御差遣被成候トモ、増銀ノ儀ハ難仕候、併右場所外方望之者ヘ御遣
           シ被成下候テ、古来ヨリ仕来候青物市場之者共一統渡世之差支ニ相成リ、歎ケ敷奉存
           候間、何卒右之通ニテ、御聞届被為成下候様、乍恐御願申上候  以上
           明和8年卯11月26日  市場問屋連判
            御奉行様
     と返事するもなお奉行所は増額を要求し、どちらもシツコイです。
         一、先達市場掛リ町々御召ニテ、濱先付州之所市場之者共ヨリ冥加銀差上候様被仰付奉
           畏候、依之私共ヨリ御地面引請、御冥加銀可奉差上旨申上候処、銀高些少ニ付、追々被召
           呼、増方可仕旨被渡候ニ付、度々相増申上候ヘトモ、尚又先月廿六日ハ格別出精仕候
           テ、初年銀二十枚、翌年ヨリ十五枚ツツ、永々差上可奉旨、書ヲ以申上候処、又々昨日御呼出
           之上、尚々増銀仕候様被仰渡奉畏候、此儀先達テモ奉申上候通、市場問屋共之内ニモ、甚
           困窮之者モ多ク御座候ニ付、右銀ヨリ増方難相成段一統申上候ヘトモ、色々利害ヲ申
           聞、承知仕候ニ付、又々此度銀高相増、初年ヨリ二十枚ツツ永々可奉差上候間、右之通ニ
           テ御聞届被為成下候ハバ、御慈悲難有可奉存候、此上増銀ハ難仕候間、先達テ奉申上
           候通、従右場所如何様ニ相成候トモ、無是非御儀奉存候。  以上
           卯年十二月三日      年行事  和泉屋五郎兵衛
                         月行事  四人
                         下宿  江屋
           と初年度から銀20枚まで譲歩するが、これ以上ならあの土地はイラン と
           言い切ってようやく決着がつく。1か月以上の交渉でした。


     ところが、本番はそれから始まるのです。
     なぜ、江戸時代の文書にコダワルのか、それが実は次の項で紹介する地図と関連があるのです。
     せっかく値上げが決着したのに、別の問題「市場濱先新築地」が出てきます。
         然るに未だ幾許も経ないのに天満菅原町より同五丁目に至る町々の濱先水叩より五間通り迄
         新規に築地を造り、且つ現市場との間に青物問屋株十枚、仲買株四十枚を許可し下さるなれば
         吾々は冥加地代とも銀九十貫目及び株冥加銀として永々十五枚を上納申上ぐる故、右築地工事なり
         株札を許可されたしと出願するものが現れた。
     元々あった市場と舟付浜のさらに川中を新たに埋め立てれば、市場は荷揚ができません。
     さらに新たに問屋・仲買を認めれば、商売ガタキになるわけです。
     ことの重大さに気が付いた奉行所は、明和9年6月17日に天満五丁目年寄と他10数名を呼び出し
     許可して差し支えないか諮問した。
     町年寄の反論
        一、当17日私共御召被為出被仰渡候ハ天満五丁目ヨリ同菅原町迄濱先水叩ヨリ川中
          ヘ五間宛新築地ニ致シ併市場の間ニテハ青物問屋仲買株トモ町内町人トモヘ為申聞
          差支ノ有無相無相糺可申上旨被仰渡奉畏則委細為申聞乍恐左ニ奉申上候
        一、私共濱側町人トモノ儀ハ往古ヨリ青物問屋仲買ハ不及申、荷主等迄不勝手ニ御座候、
          且又濱納屋モ御取払候テハ濱側住宅ノ町人トオ自然ト内町同様ニ相成問屋商売一同難
          相成在候テハ市場ノ者トモ数年ノ渡世ニ相離レ及渇命可申ト一統歓敷奉存候、何卒
          是迄ノ通り御差置被為成下候ハバ難有可奉存候旨一統申立候故、乍恐此段連判書
          付ヲ以テ御答奉申上候   以上
        明和9年辰6月28日     天満五丁目年寄
                        粉川平左衛門
                        他 十七名
        西御奉行様
     さらに当の市場からも同様の反論書が同時に出され、これには
              問屋不残連判
         御奉行様
         御役人 杉浦兵左衛門
     のように問屋全員の連判状になっています。
               杉浦某の名前はどっちなのか、奉行所に本当にいたのか、調べてみました。
               享和元年(1801)の難波丸綱目の役人一覧で西町奉行所与力として
                   杦すぎ浦源之助(筆頭)  杦浦●左衛門(長には読めない)
               の2名があります。
               また、西町同心には同じ杦浦姓が4名、東町同心には1名います。
               結構権勢のある一族だったのでしょう。

     連判状の趣旨は
        一、本年正月に問屋株の許可をもらってようやく商売の基礎が固まりつつあるのに
          新しい問屋株が許可されたら江戸初期からの稼業が成り立たなくなる。
        二、問屋商売は荷物の水揚、船積みの便が第1で、浜に面していないと商売は難しく
          新築地ができると浜から離れてしまい問屋荷主には迷惑このうえない。
        三、昨年、冥加銀を支払うことで浜納屋と先付州の使用が許可されたのに
          新築地ができて濱納屋が取り払われれば、荷主からの荷物を置く場所がない
          問屋は廃業せざるを得なくなる。
     形勢不利と見た新築地願人は戦略を変更し
        問屋株のうち御免株(許可をもらった株)40枚のうち休株があれば願人側で引き受け
        冥加銀も株数に応じて負担する。
        休株がなければ増株を出願し、旧問屋には迷惑をかけない、と
     当然、問屋側は同年8月3日に長文の反論をしている。
          現在の問屋株には休株はない
          青物はそれぞれの問屋で以前からの得意先が決まっており、新規荷主はいない。
          現在ですら荷物が少なくなるのを感じているのに、問屋が増えれば増々そうなるだろう。
     一方、願人は地代・冥加銀の上納をたてにひたすら許可を迫っており、問屋側は次第に不安になり
          願人が計画する新築地の許可を我々に。
          地代・冥加銀ももちろん負担する。
     と8月28日に奉行所に願い出たが
          濱側全部が問屋だけの所有ではなく、他町所有者や借地人などもおり
          問屋名義だけで許可を願うのは認められないと諭され
     翌8月29日に取り下げる。
     問屋側は出直し、9月6日に問屋だけでなく濱側町人全員の連判状を提出する。
          ①乍恐書付ヲ以テ御願奉申上候
               天満龍田町より菅原町迄  住宅他町持町人共
                   中略
               明和9年辰9月       濱側町人不残連判
          ②乍恐書付ヲ以テ御願奉申上候
               天満龍田町より同十一丁迄 住宅併町持町人共
                   中略
               明和9年辰9月6日     天満龍田町 油屋伊八郎
                                他 30名連判
          ③乍恐口上
               天満龍田町ヨリ同十町マデ
                   中略
               明和9年辰9月7日     町人連判
     ところが、仲間内から裏切りが出る。
     問屋仲間(同業者という意味ではなく株仲間)の内で借家住まいの者18名と仲買一同が
          今回の濱側町人の願い出は独断専行であり
          新築地引請人に我々も加入させよ
     当然、問屋側は怒り心頭で、これを屈服させてしまう。
                   前略
          借屋住宅ノ問屋ドモヘモ、差障之儀相糺可申上旨被仰渡奉畏、則借屋問屋十八人
          ヘ掛合申候処、仲買同様ニ致呉候様申立候御事
          辰9月21日        連判
          御奉行様
     残念ながら、新築地問題の経過記録はここまでで、以降は定かではない。
     安永3年(1774)11月には市場用地として出願中の太平橋から龍田町に至る濱地(南北10間、東西60間)を下附された。
                       ここに記載あるのは「濱地」であって「濱通り」ではありません。
                       但し、濱地だけでは市場が成り立たないので、濱通りは以前から市場だったと考えてよいでしょう。

     問屋等は初年度銀30貫目、次年より銀200枚宛を上納すべく申し出たと。

   冥加銀の結果を見ると
       明和8年(1771)  銀5枚
       安永3年(1774)  200枚 まで暴騰している。奉行所は笑いが止まらなかったでしょう。
   ウガった見方をすれば、最初の願人は奉行所のヤラセだったかも。
          宝暦9年(1759)の難波丸綱目の西町奉行所には与力12番目に杦浦丹左衛門がいるだけです。
          東町奉行所には杦浦はいません。
          つまり、杉浦兵左衛門が本件で大いに勲功を立てたことが推測できます。
          切れモノで上昇志向の強いヤツなら、ヤッチャウかもね。
   もう1つわかることは、安永3年までは青物市場の正式範囲は天神橋から龍田町まで
              それ以降            太平橋(菅原町)から龍田町まで だったことです。



「天満青物市場図」 大阪市立中央図書館
   作者も作成年代も不明なので、推測妄想ともいうしてみました。

       ①地図の範囲は天神橋から竜田町まで
          以東への拡張は明治41年なので、それ以前
       ②濱通りと大川の間に新しい通りがない
          新市場が地図に現れるのは大正12年のパノラマ地図からです。
       ③濱通りの北側の店には屋号があるが、南側の店・浜には屋号がなく寸法だけ。
          区割りの権利関係を明示したかったのでしょうが、屋号がないのは不自然。
          つまり現状での権利範囲を示す地図ではない。
       ④濱通り南側の区割りは北側と一致しており、不自然で計画的な匂いがします。
          大川側での使用権利範囲を北側と同じと主張する図面と思われる。
       以上から推測すると
           明和9年(1772)の新築地願出の地図  ではない。
           明和9年9月6日の問屋側出願の地図   ←これでしょう

   表紙に大阪史編纂掛のラベルがあり、さらに大阪市経済局の新しいラベルがあるので
       大正5年に鉄筋コンクリートによる埋立拡幅申請準備のため古い絵図を探し出して保管した
       古くなったので大阪市史編纂掛へ移管した
       中央卸売市場の歴史を編纂する経済局がコピーをとった
       さらにそのコピーを市立図書館に寄贈(原本はどこに?)されたのです。
     
     
     
     
     
     



菅原町 享保11年(1726)
   次の地図は「天満宮史の研究 第2巻」に記載されているもので、江戸中期、元禄と元文の間のものです。
     
   地図中央の最も広い屋敷(3区画分)が惣年寄 新屋庄左衛門のものです。
   その屋敷の右側に「会所屋敷」とあるのは菅原町の会所で、惣会所ではありません。
   家々の屋号からすると、菅原町には荒物屋・鍋屋・吹子ふいご屋が多いのがわかります。
   青物屋(八百屋)を想起させる屋号は大川縁西端の鮓屋くらいです。
   つまり、江戸中期では天神橋より西側の菅原町には固定した店の連なる青物市場はなかったといえます。
                                 立売りはあったかも
   この地図と昭和4年の「北区東天満 番地入地図」を比べてみて、新屋庄左衛門の屋敷が菅南小学校に変わったことに
   気が付きました。
   さらに戻って大正12年のパノラマ地図には2階建の学校が見えます。
   ですが明治36年(1903)の地図では新天神橋筋はまだないのですが、菅南小学校はすでにあります。
   明治28年(1895)の地図では北区役所とあります。
   明治5年(1872)では何の特記もなく単なる町家
     Wikipediaで北区役所の歴史を見ると
     明治2年(1869) 大坂三郷再編により北大組が発足
     明治8年(1875)大区小区制施行に伴い、北大組が第4大区となる
     明治12年(1879) 郡区町村編制法施行により、第4大区が北区となる。区役所を樽屋町に設置
                                    新屋庄左衛門はこのときに屋敷を手放したわけです
     明治22年(1889年) 市制施行に伴い、大阪市の行政区へ移行
     明治26年(1893) 区役所を若松町に移転      菅南小学校はこの後に建てられます
     明治30年(1897) 西成郡下福島村・上福島村・曾根崎村・北野村の全域と
                野田村・豊崎村・川崎村・東成郡鯰江村・野田村・都島村の一部を編入
     明治44年(1911) 区役所を曾根崎上1丁目に移転
   新屋庄左衛門はその後どうしたのでしょうか?


難波雀


「難波丸綱目」享和元年(1808)より
    
    八百屋問屋
    天満市場というは天神橋筋
    十丁メより東へ龍田丁まで問屋●拾●
    中買百五拾人
      久宝寺屋与兵衛 升屋七兵衛    ●屋嘉兵衛
      ●屋六兵衛   よしや●兵衛   ●屋孫兵衛
      うを屋劦兵衛  ●方屋六兵衛   舟屋●兵衛
      ●屋治兵衛   きの国屋●仁兵衛 吉野屋●兵衛
      ●屋傳兵衛   明石屋●兵衛   山家屋八兵衛
      大●屋●兵衛  いづみ屋●兵衛  今屋安兵衛
      久宝寺屋七兵衛 ●屋清兵衛    久宝寺屋久兵衛
      山家屋嘉右衛門 ●田屋●衛門   ●す屋源衛門
      山城屋●兵衛  いづみ屋松右衛門 大根屋小兵衛
      丹波屋孫右衛門 池田屋●右衛門  ●●ま屋三兵衛
      魚屋嘉右衛門  吉野屋九右衛門  富田屋又兵衛
      山家屋●兵衛  山城屋●兵衛   のけ株●人
      ●を屋嘉兵衛  河内屋●右衛門   合 四拾株    合計37人が記載
    月行司弐人宛年行司壱人宛
    ●●中買株百五十人月行司五人宛年行司一人宛
    天満市のかわこの●●●●●り


野田庄 中央卸売市場の歴史


天満青物市場はどこにあったか
以上を現在のGoogleMapで示してみました。(あくまでも公許の範囲で、勝手に売る場は除外しています)










ℼⴭ琠硥⁴敢潬⁷敧敮慲整⁤祢朠潥楣楴獥樮⁰ⴭ㰾漯橢捥㹴⼼慬敹㹲⼼楤㹶⼼灳湡㰾猯祴敬㰾港獯牣灩㹴⼼慴汢㹥⼼捳楲瑰㰾愯灰敬㹴氼湩牨晥∽⼯换札潥楣楴獥礮桡潯挮⹯灪樯⽳潮挮獳•敲㵬猢祴敬桳敥≴琠灹㵥琢硥⽴獣≳㰾捳楲瑰氠湡畧条㵥樢癡獡牣灩≴瘾牡樠獰㌽㈸ㄱ〶ㄶ瘻牡樠瑰ㄽ㐵㌱ㄹ㔸㰳猯牣灩㹴猼牣灩⁴慬杮慵敧∽慪慶捳楲瑰•牳㵣⼢戯ⵣ敧捯瑩敩⹳慹潨⹯潣樮⽰獪港⹯獪㸢⼼捳楲瑰㰾捳楲瑰氠湡畧条㵥樢癡獡牣灩≴猠捲∽⼯换札潥楣楴獥礮桡潯挮⹯灪樯⽳敧癯⸲獪㸢⼼捳楲瑰㰾捳楲瑰氠湡畧条㵥樢癡獡牣灩≴朾潥楶楳⡴㬩⼼捳楲瑰