大阪をホジクル  27.北向き地蔵 その5

地蔵調査 再開です。 なにしろ春ですから毛虫なみじゃね
場所は 13.北向地蔵で調査した区域の南側です。
ローラー作戦といいますか、能無し作戦とでも呼んでください。
青色が調査済のエリアで、ピンクが今回の対象区域です。 ①中津  ②天満寺町  ③堀江  ④中崎町



調査区域を拡大すると

赤線枠内が実際に歩いた道路で、地蔵を見つけたのは5か所
                                      は興味をひいたもの
                                      はお稲荷さん
                                      は大ネタにつき次回以降で
   調査面積 0.507km2
   地蔵数   4(東向き1、西向き2、南向き1)
   面積当たり 7.9体/km2
         大阪市223km2x7.9=1760体 となり、推計1500体に近いです。
天神橋筋商店街にあるかと期待したのですがハズレです。
個人の住宅前というのもなく、マンションの敷地内ばかりです。マンションの管理組合が地蔵堂を新たに建てるのは考えにくく
地主あるいはマンション全体の所有者が建てたものとしてよいでしょう。
町内会が地蔵盆を今も開くのが1つ見つかりました。地域全体が子供を見守ることがまだ続いている証拠です。


滝川公園内の子安地蔵
   
      なぜ公園内に石垣の段差があるのか?  それは別項で解決予定デス。
   
 公園内にやや大きめの地蔵堂があります。鍵がかかっていてガラス戸越しにしか見ることができません。
 地蔵盆には子供が大勢集まるとか。
 平成5年新調とあるのでそれから23年。地蔵さんの姿はちょうどそれくらいの古さです。
 西向き

天神橋に近い超高層タワーマンションの火除地蔵
   
   
 謂れは不明です。なぜここに地蔵堂が?
   大規模マンションでは「デベロッパー」と呼ぶ開発会社を中心に、設計会社・土建会社・販売会社などなどが組み
   住民で構成する管理組合も最初から用意されているのが普通なので、地蔵堂があるのはよっぽどの事情なのです。
   いろんなコトを妄想してしまいそう。
 東向き

厄除地蔵
 マンションの玄関前にあり、立派な屋根が二重にかかっています。
 謂れとか世話人の名前を探すと、般若心経がありました。
 南向き
   
   
 お堂に比べて地蔵様は新しいように見えます。以前の地蔵さんはどこへ?

名前のない地蔵
 こちらもマンションの敷地内ですが交差点なので小屋に守られています。
 西向き
   
   

マンション敷地内
   
   
 敷地に入らずに望遠で撮影したので、地蔵かどうかも不明ですが
 屋根の上の千木を見ると地蔵堂ではなく稲荷だと思います。
 花立にある紋「三つ鱗」が気になるのですが、多分所有者の家紋では?
 東向き


今回範囲外ですが、たまたま見つけたので
マンション敷地内
 地蔵堂だと思ったのですが稲荷さんでした。
   
   

阪神高速高架下
 これは「お吉稲荷」。元の樽屋橋の親柱と一緒にあります。
     「おきち」なのか「およし」なのか?
 世話をするのは老松町1丁目自治会で、この稲荷堂から西側にあり、かつては西樽屋町と呼ばれていました。
   
   



もちろん、これだけでは区域を歩いた意味がないので
それ以外に見つけた「面白そうな場所」「ヘンなもの」を以下に紹介します。
道路を通せんぼする電柱
   
         うっかり見逃しそうですが、この電柱は歩道の真ん中に立っているのです。
         アスファルト部分が歩道で、タイル貼りは左側ビル敷地(公開空地であって道路ではない)です。
         私が気がついてもう10年。
         関西電力かそれとも電柱工事会社か、どっちの責任だ?

堀川寮
 新築の和風建物ですが、一体何なのか不明です。
   
 名称からすると、どこかの会社の接待寮かとも思えるのですが。
 調査するほどのものでは・・・

小唄教授所
 駐車場を挟んだ奥に住宅らしき長屋があり、看板が見えます。「小唄教授所」
 検索すると「和敬糸小唄・三味線教授所」とありました。
        何と読むのでしょうか?
   
   
   通路(道路ではない)中央に立派な石張なのですが、ひょっとして市電の軌道にあったヤツ?
   ストリートビューに見える看板は現在は外されています。

和田萬
 ゴマ専門店で有名です。創業は明治16年(1883)だそうです。
 本来の店は左端に2人いる場所です。右端は近年に蔵を改造してショールームにしています。
   

道路の石畳
 菅原町にほんの少しだけ石畳が残されています。道路の管理者は大阪市。個人の所有物を道路に設置することはできません。
 これが何なのか、なぜ残してあるのか、いつごろのものか、一切の説明がありません。
 市電の軌道敷石かと思ったのですが、ここ濱通りには市電は走っていませんでした。
 昭和初期の天満青物市場(天神橋より東)の写真を見ると舗装はなく地道でしたので、戦後に石舗装したとは思えないのです。
 菅原町では事情が違ったのでしょうか。
   
   石畳の部分に注目していて気が付きました。側溝も石なのです。
   なぜか国道・市道の縁石を石からコンクリートに置き換える工事が進んで、ほとんど見かけません。

蔵の街 菅原町
   
      この蔵の裏が堀川で、道路の突き当たりが大川です。
      蔵の出入口が1箇所なのに窓が多いのは単なる倉庫ではなかったはず。
      酒蔵だったのでは、とニランではいるのですが正体不明です。
   
      右側の店は雲州堂といいます。秘密の隠れ家なのです。
   
      これが古い蔵を改造したのなら、やりすぎで危険ですらあります。
      多分、蔵っぽく改装したのでしょう。
   
      これを補修するにはトンデモナイお金がかかります。
      単に漆喰を塗れば良いというものではありません。
      痛んだ土壁を補修する職人がいないのです。
      緑ネットの奥の建物は蔵を改造して店舗にしています。ナンの店だったかなあ。

   蔵の街菅原町と自称していますが、昔は蔵なんて商家ならごく普通に持っていました。
   このあたりは戦災に会っておらず、建て替えされずに残ってしまった、というのが正解です。
   なので、菅原町に限らず天満のあちこちには蔵が残っています。
       

   もともと蔵は敷地の奥に建てたので、表通りからは見えませんでした。
   表の店がなくなって、ようやく姿を現すのです。がすでに手遅れで解体することもママなりません。


天神橋
   
      これは古いトラス橋時代の銘板です。
         

      実は同じものがもう1枚、天満宮の裏の星相池の傍にあります。
   
      天満橋の橋名板も同様に保存されています。(橋のそばらしい)

フジハラビル
  クラシックな外観だけでなく中身も相当です。
   
   
   
  何の建物か? 行けばわかります。仕事を放棄したね?

天満宮の坂
 天満宮の境内は周囲よりも1mほど高くなっています。
 過去の大水害でも助かっているのはこのためです。
 正門から入ると気が付かないのですが、裏側からはハッキリ分かります。
   
   
 あなたの自宅の敷地は周囲より高くなってます?

万華鏡
 万華鏡屋さんなんて初めて見ました。商売になるほどの客がいるわけです。
 狭い狭い客筋ですが、逆に固定客を掴めばシメたもの♪
   

ノースタワービル
 鳥居筋に古そうな酒屋「清水一酒店」があり、軒先に杉玉があったので、若主人らしき人に聞きました。
   すると
 「この店は創業100年くらいで、最初から酒屋をしており、蔵元ではありません。
  近所にも蔵元など聞いたことがないです。」


空中に浮かぶビル
 南森町交差点近くにこのビルはあります。「MST南森町」
   
   設計が生業なりわいなのでこの下に立つのはコワイです。
   他人の設計は信用ナラン・・・

とりゐ味噌
   
 子供の頃の市場の味噌屋には大きいのから小さいのまで数多くの味噌樽が並んでいて、量り売り(死語だな)でした。
 とりゐ味噌は今も量り売りをしています。
 なぜ「とりゐ」か? この通りが「鳥居筋」だからです。
 幕末の地図には、この先の四つ辻に鳥居が描かれています。(現在は場所が違います)

 (天満)宮前大根を使った大根飴を豊川製菓が製造し、それを売っているとあります。
 くいしんぼの僕は大根飴を買いに行ってきました。のど飴ですね♪
        宮前大根といいながら、天満宮の前で植えていたはずはありません。昔から繁華でしたから。
        商売上手な人がいたのでしょう。
 ものはついでと、近所に地蔵がないか店員さんに尋ねると、古いことを覚えておられる会長(女性)を呼んでいただきました。
    商店街には地蔵はなく、現在75歳の会長の母親(故人)も天神橋を渡って坂を上った所にある地蔵堂にお参りしていたと。
    近所にあるのは滝川公園の中の地蔵堂で、地蔵盆をいまだ開いているそう
    さらに公園の東側にもあると。
    一番近所では、鮨屋のおかみさんが守をしている地蔵さんがあったが、今はなくなったと。
 とりゐ味噌は創業300年(元禄)という個人のHPがあちこちにありますが、とりゐ味噌自身は江戸時代としか謳っていません。
 失礼を顧みず創業は?の質問に、年代の分かっている範囲では文政年間(1820頃)とのこと。
 ここ数年、大阪市内の地蔵を調べてまわっていると事情を話すと、なんと自分が個人で持っている地蔵があると。
 わざわざ部屋からその小さな地蔵を持ってきて、謂れを説明までしていただき、恐縮でした。
 さすがにそれには手をあわせるだけで、写真はチョット・・・

川端康成
  川端康成の生誕地(生家ではない)として大阪市の説明板が看板の下にあります。
   
  現在は天満宮会館の一部として「相生楼」の看板をあげて大阪最古の料亭と言っていますが、さて・・・
  相生楼は戦前はもっと西の鳴尾町今はないの菅南小学校の東隣今は超高層マンションにありました。
  相生楼をちょいと検索してみると 大女将の一族が見つかりました。
        相生楼の女将(2007年に96歳で亡)の孫で、現在は池田の不死王閣の大女将 がブログ主
        女系一族で、相生楼の若女将・北新地蘆月の女将・南地料亭南の女将・有馬花結の若女将・・・
  この元あった相生楼の場所こそがの地蔵堂なのでは?
        マンション植え込みには小学校の塀に使っていたと思しき石柱が多数飾られています。
        従って敷地が小学校だったことは確かです。
        では、地蔵が火除地蔵というのが不思議です。小学校と相いれないのです。
        とはいえ、料亭と地蔵堂も似つかわしくありません。
  相生楼が移転した時期はマンション計画のはるか昔、新天神橋筋と松屋町筋をつなぐ道路ができた昭和5年(1930)頃でしょうか。
  なので相生楼と地蔵堂は無関係でしょう。
  結局、の地蔵堂の由来は想像つきませんでした。降参

  相生楼が今あるこの場所には何があったのでしょうか?
      明治7年の地図(大阪天満宮史の研究 所収)には天満宮社家の土地とあり、多分芝居小屋あるいは茶屋に貸していたのでは?
         その後、どうしたのかは不明ですが、天満宮会館の一部とあれば、以来ずっと同じ状態だったわけで
          相生楼が元あった鳴尾町から大正始(1912〜1914)に移転してくるまでの約50年間が不明です。
                          鳴尾町に広い道路ができた時期
           幕末と同様に店に貸していたのでしょう。

寒天屋
 天満青物市場と並んで乾物問屋もかつては多数あったそうです。
 その名残の店がいくつか残り、寒天屋も数軒(それだけでも異常に多い)。
 そもそもあなたの身の回りに寒天屋なんてあります?
   
 乾物屋がいろいろある中でなぜ寒天屋をとりあげる?
 実は、叔父(故人)が京都の山奥で20年前まで寒天作りをしていたのです。
 山奥の冬の寒さと昼夜の寒暖差が寒天作りには必要で、丹波から職人さんに来てもらっていました。
 工業化した現代の製造法と違い、水は谷川の清水・動力は水車・燃料は木材。
 以前は数軒あったそうですが、地区で最後の1軒となり、年齢のせいで続けることができなくなりました。
 そんなわけで、寒天にはほんのチョットだけ思い入れがあるのです。

プラモデル店
   イタリアの自動車モデルばかりの店だそうです。飛行機なら入ってみたのになあ。
   

鹿肉カレー

   近所には馬肉屋さんもありま〜す

古本屋 駒鳥文庫
   
   鳥居筋の一番よい角にある「映画関係古本専門店」なのです。
   ちょいと覗くだけだったのに、隅から隅までタイトルを見てしまいました。
                 ゴダールのDVD付き写真本が、 ウッ高い・・・
   喫茶店かなにかと勘違いして入ってくる人がいます。現に僕がいた10分ほどの間にも。

   写真でようやく気が付いたのは碧色の自転車。Bianchiですね♪ 店主のものに違いない!

 本のアトリエ
   
   本屋さんではなく製本屋・装丁屋さんです。フランスではよくある職業らしいのですが。
   サン・テクチュペリの原書の装丁をお願いしてみようかしらん。値段が恐ろしいけど。

うなぎ屋?
   「うなぎ」の看板があるのですが、どうみても普通の住宅なのです。
   ところが「いし多」の看板の隅に赤い↓が。
   
   
   そうなのです、1人がようやく通れるこの階段を下りると店があるのです。
   僕の鼻は、イケル、と言ってます。


おまけ
   天神橋筋商店街はワザと紹介していませんが、天満宮近くの土産屋でキレイなガラスコップを
   見つけたので中に入ってよ〜く見ると、すごく良いんです。ですが値段が・・・
   切子グラスで15000円も。 2個なら・・・
      

   説明によると、天満切子、かつて天満には20軒もあったのが現在では唯1軒だけが製造しているとか。
   土産屋はそれを仕入れて販売しているわけです。
   ふと、実家にもよく似たコップがあったことを思い出しました。
   僕が子供の頃から見ているので、昭和30年頃です。
   戦前には祖父と一家は天満に住んでいたので、その頃からあったかも。
   戦後から大阪市内に住みだした家内の実家にも切子があったそうです。
   切子はそれほど貴重なものではなく、客用として一般的だったのでは?
   祖父も父も切子と呼んではいませんでしたが、普段使いはしていなかったですね。
   なぜ、その天満切子が売れなくなったのか、考えさせられます。



以下は別の項で紹介します。 大ネタなのです・・・

興正寺
   現在の滝川公園が興正寺だったことは公園内の記念碑だけが示しています。
   まして、その寺の一角を借りて関西大学があったことなど・・・
   
定専坊
   地図を拡大してみてようやく気が付いた変わった名前の寺。
   浄土真宗には同じ名前の寺がもう1つあります。なぜ2つあるのか気になりませんか?
   
天満組惣会所
   江戸時代、大阪の町は3つに分けられ大坂三郷(天満組・北組・南組)と呼ばれていました。
   その中の天満組惣会所(区役所みたいなもの)がここにありました。
   
天満青物市場
   江戸時代は天満青物市場は大阪の台所どころか、日本でも一番の市場でした。
   紀伊国屋の屋号の店もありましたが、アノ紀伊国屋と関係があるのかないのか

堀川の樽屋橋
   天満宮前の鳥居筋の西側が樽屋町で、堀川に架かるのが樽屋橋でした。
   堀川が埋め立てられ高速道路になって橋はすべて撤去されましたが、この橋の親柱は残っています。

堀川の太平橋
   堀川にかかっていた橋で最後まで残されていたのが大川への出口に架かる太平橋です。
   公園内に親柱が残されています。