系図の穴埋めのため、先日父と話しをしました。
次郎正時は金子権太左右衛門家よりの養子であり、三男は樋口家への養子である。 また、父の叔父正潔は金子家へ養子に出ているが何れの金子であろうか。そこで、父が子供の頃内堀の家から祖父に連れられて、十念寺に向かう途中に『ここが潔おじさんの実家にあたる金子だよ』と聞いたことを覚えている。格式を重んじる武家のこと、同じ内堀で十念寺への道中にあるのは、金子権太左右衛門と言うことになる。
しかし、正潔叔父は北海道は倶知安に養子に行っているとのことであった。
さらに、戊辰戦争当時の足跡をたどってみると、金子権太左右衛門は会津戦争ののち、塩川から米沢を経て、立見鑑三郎らと共に函館戦争に参加している。
函館五稜郭陥落後の足取りは、不明であるが金子権太左右衛門が蝦夷の地倶知安まで落ち延び、居を構えたと考えることが出来よう。となれば、正潔の養子先が倶知安というのも符合するではないか。
また、演廣翁については、小川家からの養子とのことであるが、これも同格の家とすると、内堀ではないが赤須賀堤に小川家がある。
この可能性についてはまだ調査が必要。
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