鳥飼氏の起源を求めて renewaled by M.Toirkai 2010/11/18

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家紋:丸に三盛右三つ巴


鳥飼次郎正時
立見尚文中将直筆の書

このホームページは桑名藩士であった、鳥飼次郎正時(とりかいじろうまさとき)を中心とする、桑名鳥飼氏(うじ)の起源について、子孫の一人が後世のために書き記したものである。
掲載に際しては、極力出展や情報源を明らかにするようにしますが、記載漏れ等があった場合にはご容赦願います。
鳥飼家一族の事についてご存知のことや、記載内容へのご意見はメールでお寄せください。

Web日記帳
2008年4月12日(土)
福島正則の末裔に会う

第8回郷土歴史まつり、水上パレードがあり、慶長15年(1610)名古屋城築城に伴い、堀川の開削に従事した福島正則の末裔福島正秀氏が、正則役を演じられ甲冑姿で行進されました。
福島正則の家臣であった鳥飼助衛門の末裔である私鳥飼正幸も馳せ参じ、昔話をさせていただき記念の写真を撮っていただきました。



2007年8月17日(金)
正浩・瑠美夫婦に長女誕生

去る8月6日甥の正浩・瑠美夫婦に長女美空(みく)が誕生しました。
兄正秋はおじいちゃんに、父正義にとっては初ひ孫の誕生です。
また、8月16日には十念寺にお墓参りに行ってまいりました。
そこで聞いたお話を元に『平成由緒』を改定しました。

2007年2月21日(水)
父の子供の頃の記憶より

系図の穴埋めのため、先日父と話しをしました。
次郎正時は金子権太左右衛門家よりの養子であり、三男は樋口家への養子である。 また、父の叔父正潔は金子家へ養子に出ているが何れの金子であろうか。そこで、父が子供の頃内堀の家から祖父に連れられて、十念寺に向かう途中に『ここが潔おじさんの実家にあたる金子だよ』と聞いたことを覚えている。格式を重んじる武家のこと、同じ内堀で十念寺への道中にあるのは、金子権太左右衛門と言うことになる。
しかし、正潔叔父は北海道は倶知安に養子に行っているとのことであった。
さらに、戊辰戦争当時の足跡をたどってみると、金子権太左右衛門は会津戦争ののち、塩川から米沢を経て、立見鑑三郎らと共に函館戦争に参加している。
函館五稜郭陥落後の足取りは、不明であるが金子権太左右衛門が蝦夷の地倶知安まで落ち延び、居を構えたと考えることが出来よう。となれば、正潔の養子先が倶知安というのも符合するではないか。
また、演廣翁については、小川家からの養子とのことであるが、これも同格の家とすると、内堀ではないが赤須賀堤に小川家がある。
この可能性についてはまだ調査が必要。

2006年7月18日(火)
会津若松旅行

7/15〜17の3日間、父正義の米寿の記念に息子(正秋・正幸)が両親を、次郎正時終焉の地会津若松の旅に連れて行くことができました。
7/15到着後最初に、次郎正時の首を納めた塩川山阿弥陀寺を訪問し、明治戊辰戦死供養塔の前で、ご住職の読経のもと子孫繁栄のご報告をして参りました。
7/16には、会津最大の激戦であり次郎正時の最後の1日である8/23の新政府軍と会津軍および桑名兵の軌跡をたどりました。
十六橋→戸の口原→滝沢峠→滝沢陣屋→蚕養神社→博労町通り→鶴ヶ城→七日町阿弥陀寺

2006年6月19日(月)
古文書の解読

桑名藩の古文書「天明由緒」に鳥飼の由緒が記されていることを知り、桑名中央図書館で閲覧し該当する部分のコピーを入手したのです。
いざ持ち帰って読んでみたところ、全体の1/4程度しか読めず困ってしまいました。
くずし字辞典なるものがあるとのことで、早速入手して解読にあたっています。
話は変わりますが、この土日に神戸・有馬温泉へ旅行にいって、現代の建築家安藤忠雄の建物と近代の建築家フランク=ロイド=ライトのヨドコウ迎賓館を見ることができました。建築に携わるものとして改めて建築のすばらしさにふれることができました。

2006年6月16日(金)
会津若松訪問を計画進行中

父、正義の米寿のお祝いを兼ねて、7月15日から17日まで鳥飼次郎正時最後の地、会津若松の歴史散策を計画中です。
戊申戦争の会津決戦(慶応4年8月23日)の桑名藩致人隊の足跡をたどってみたいと思っています。



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