個人の権利の尊重

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学」から
カントの記述を参考


普通の人権感覚からして、どんな人間だろうと、どこに住んでいようと、人間はみな尊敬に値するのであるから、国民の中から被差別対象者を人為的コントロールで創り出し、実態を曖昧にした権利侵害行為を容認するという事などは許されない事です。僕個人の事だけではなく、広い視野で見たら「人間は等しく尊敬に値する」という人権感覚からしたら、外国人に対する差別や日本国内に存在する被差別部落問題や男女差別問題は撤廃されて当然の事として、学歴・知能・収入・見かけ・ファッションセンス・社会的立場からの行使可能な権力の違い・身体能力の違いなどによる世の中に当然のごとくまかり通っている差別についても「単に表向きには言いづらいけど、そんなのあって当然だ」という「人間は生まれながらにして自由かつ平等であり等しく尊敬に値する」という本来の人権意識に反する個人に対する見方も訂正していかなければならないのではないでしょうか。
権利の道徳的規準からして、人間を他者の福祉の単なる手段として利用してはならない、というのがリバタリアンの考えのようです。そのような行為は、自己所有権という基本的権利を侵すからです。個人の人生、労働、人格は個人のもの、もっと言えば個人だけのものであり、社会が意のままにしてよいものではない。
民主主義的な判断により多くの人に喜びを与えるものが正しいものとは限らないし、選挙によって選ばれた国会議員の与党多数派の賛同を得ようと、その法律が正しいとは限らないのです。
カントは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった理由を道徳の規準にすべきではないと言う。こうした要因は変わりやすく偶然に左右されるため、普遍的な道徳原理(普遍的人権など)の基準にはとうていなりえないように思われます。
道徳の基準として、神が最高の基準になる可能性があります。完全なる愛と正義の存在であり、すべてを知る者という存在が、最高の道徳の基準となりうる可能性があります。しかしそうした存在と人類は日常的に応答できるわけではないし、いくつかの宗教の聖典の中にそうした神との応答と歴史と、現在の法体系や倫理観や人権意識とは異なる道徳の基準が書かれてあったりする事もあるのでしょう。(これ以上書くのは勇気のいる事です。「書いたら懲役2年にする」と綿矢りささんの声で聞こえ、書かなかったら「これ以上私より上に迷惑をかけるな!犯す!」という脅迫を入れられました)
カントの答えは神ではないようです。彼はキリスト教徒だったが、神の権威を道徳の基準にはしなかったようです。
カントだけでなく全ての人が持つべき人権感覚として、人間はみな尊敬に値する存在であるが、カントの言うような「合理的に推論できる理性的な存在だから」ではなく(その表現には知的障害者や麻薬中毒者や精神異常者や、事実を充分に伝えられていない情報の格差のある存在に対して、軽蔑や人権の軽視があるように思われるから)全ての人間は生まれながらにして人間であり、みな尊敬と同等な法権利からの保護が必要である、というのが当然の人権感覚であるように思われます。人間は自由に行動し学び情報を発信する権利を持ち物理的な暴力の脅迫行為や不当な隔離拘束や不当逮捕などあってはならないのです。拷問による偽りの自白行為への誘導などあってはならないし、国家権力が科学警察系の音響研究所や精神医学と連帯してそのような事をやりつつ、個人の妄想として処理しようと「根拠がないし意味不明で病状活発」などと言いしらばっくれるとしたら、そこに正義があるとは全く思えません。

(つづく)



戻る