■「白色革命」からイスラム革命へ
イランでは、国王パフレヴィー2世(位1941~79)が53年から「白色革命」と呼ばれる上からの近代化をすすめていました。農地改革、工業化、女性参政権の付与などさまざまな改革は、西欧化と脱イスラム化をめざしたものでした。しかし、その独裁政治と貧富の差の拡大に対する国民の不満は大きく、イスラム教シーア派を中心に国王への抗議行動が全国に広がり、79年、国王は亡命しました(イラン革命)。
かわってシーア派の宗教指導者ホメイニ(1901?~89)が革命政権の最高指導者となり、イラン=イスラム共和国が成立しました。ホメイニは、イスラム教を指導原理とした政教一致の政治運営をおこない、また、国王を支援していた合衆国とは厳しく対立しました。
近代政治の脱宗教化の流れに逆行するイランの「革命」は世界を驚かせました。しかし、イスラム圏では、イスラムの復権を掲げるイラン革命に刺激されイスラム原理主義運動がひろがっていきました。
■イラン=イラク戦争から湾岸戦争へ激動する湾岸地域
周辺のイスラム諸国の政府は、原理主義の広がりと革命の波及を恐れました。イラクはサダム=フセイン大統領(任1979~2003)のもと、1980年、革命の転覆をはかってイランに侵攻、イラン=イラク戦争がはじまりました。88年までつづいたこの戦争で、多大な犠牲を強いられながらもホメイニはイラン革命政権の基盤を固めました。
一方、湾岸諸国や合衆国の援助によって戦争を継続していたイラクは、戦後、経済がゆきづまると、90年クウェートに侵攻しこれを併合しましたが、翌91年米軍を中心とする多国籍軍の攻撃を受けて撤退しました(湾岸戦争)。その後、合衆国は、イラクを敵視しつづけ、2003年にはイラク戦争でサダム=フセイン政権を崩壊させました。
「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より
第133回 イランのイスラム革命 おわり