魂 〜阪神ファン暦16年、魂のテキスト〜

 
昨年インターネットの個人サイトでふとこの文書を目にしました。
読んでみるとこれを書いた人と今までの自分が同じ様な経験を
重ね、 そして何より長年低迷期を味わってきた阪神ファンとして
の深層心理があまりにも自分と似すぎている、そう感じざるを
得ませんでした。心から「そうだよなぁ」と頷ける内容なのです。
長年のタイガースファンであればおそらく誰もが抱いた事がある
心境なのかもしれません。
そんな阪神ファン“心の叫び”とも言えるこのテキストに敬意を
表して本文に一切手を加えず引用し、掲載させていただきました。
なおこの文書の日付は2003年5月。それから半年後、阪神
タイガースは18年ぶり悲願の優勝に辿り着くことが出来ました。
あの優勝の瞬間を、この文書を書いた方はどんな心境で迎えた
んだろう?そう考えると非常に感慨深く思います。
前置きが長くなりました。それではじっくりとお読み下さいませ。
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魂 〜阪神ファン暦16年、魂のテキスト〜
今から18年前。大阪が、いや日本中が沸いた。そう、1985年阪神タイガースが21年ぶりに優勝、日本一になったのだ。真弓、バース、掛布、岡田を中心とした圧倒的な破壊力をもつダイナマイト打線。打たれても打たれてもそれ以上に打ち返して逆転する派手な勝ちっぷりが関西人の心を掴んだ。近年あのような勝ち方で優勝したチームは一昨年の近鉄ぐらいだろう。

当時の俺は8歳で小学2年生になっていた。もともと親父というか一家が代々阪神ファンだったので当然俺も阪神を応援していたわけだが、それほどプロ野球に興味があったわけではなかった。どちらかというとプロ野球中継は見たいマンガを邪魔する存在であったような気がする。そういうわけで優勝した年の盛り上がりとか試合の様子とか優勝の瞬間とかを俺は覚えていない。正直俺は阪神の優勝を知らないのだ・・・

俺が阪神ファンに目覚めたのはそれから2年後のこと。
なぜ俺が阪神ファンに目覚めたか、それは一本のビデオがきっかけだった。当時の親友Nが持っていた一本のビデオ「タイガースよ永遠に」。2年前の快進撃、優勝までの軌跡をつづったドキュメンタリー、球団公認の優勝ビデオである。それを見て俺は一発で阪神に魅せられた。真弓が(34本)バースが(54本)掛布が(40本)岡田が(35本)が打って打って打ちまくる壮絶な映像、甲子園の真っ黄色のスタンドの盛り上がり、ヒッティングマーチ、六甲颪の大合唱、優勝の瞬間、歓喜の涙を流すファンたち、吉田監督の胴上げ、日本シリーズの優勝、その全てに興奮した。ビデオをダビングして擦り切れるほど見た。テレビの前でバースや掛布の真似をしたり、仲田や福間のフォームを真似たりした。六甲颪をいつも歌っていた。ヒッティングマーチも全部覚えた。甲子園にも何回も行った。なによりも自分の目で強い阪神が見たかった。優勝する瞬間を味わいたかった。

しかし全盛を極めたタイガースもこの2年の間にすでに大きく状況が変わってしまっていた。真弓、バース、掛布、岡田は全員まだ引退はしていなかったものの衰えや故障が相次ぎ、もう以前の輝きを失っていた。

【1987年セ・リーグ成績】
チーム    試 勝 敗 分 率   差
巨人     130 76 43 11 .639  - 
中日     130 68 51 11 .571  8.0
広島     130 65 55 10 .542 11.5 
ヤクルト 130 58 64  8 .475 19.5 
大洋     130 56 68  6 .452 22.5 
阪神     130 41 83  6 .331 37.5 
歴史的大敗であった。ダイナマイト打線は見る影もなく、投手陣もことごとく火だるまのように打ち込まれる。負けて負けて逆転されて他球団からはカモのように扱われ、二線級のピッチャーを当ててくる。それでも勝てない。気が付けば巨人が優勝し、阪神は1シーズン見せ場という見せ場もなく37.5ゲーム差をつけられる借金42のダントツ最下位で俺のファン一年目は終わった。あのビデオと当時の阪神を重ね合わせていた俺は相当なショックを受けた。そして、追い討ちをかけるようにこの年から阪神タイガース暗黒時代と呼ばれる過酷な年月が始まろうとしていた・・・

1987年もかろうじてバースと真弓はそこそこに打っていた。不振の岡田と手首を骨折した掛布の穴を埋めようと必死だったはずだ。俺も今年はダメだったが岡田が復調して掛布の怪我が治れば十分戦えると思っていた。しかし、次の年の1988年、事件が起こる。バースの子供が命にかかわる難病にかかったのだ。当然バースはアメリカへ帰国することになる、自分の子供が瀕死の状態なのだから。しかし、なんと球団はバースを身勝手だとして解雇してしまった。当時子供だった俺はわけがわからなかった。阪神にとって今でも(多分これからも)史上最強の助っ人をいとも簡単に切ってしまったのだ。

今だからわかることはフロントがアホだったということだ。バースの年俸が上がりすぎて困ってたのだ。何とか年俸をケチるためにその口実を探していたのだ。まったく呆れて物が言えないとはこのことだ。バースがいなくなって、人気と実力が落ちて観客動員数が減る、世間からも見放される。その経済損失とバースの年俸、どちらが重要かは俺でもわかる。この数年後に俺も気づくことになるが、関西人はシビアなのである。

何はともあれ阪神は前年打率.320 37本塁打の大砲を失った。そして怪我の状態が思わしくなく、調子の戻らなかったV戦士掛布も後を追うように引退してしまった。そして俺の応援むなしくこの年も阪神はダントツの最下位に沈んだ。

【1988年セ・リーグ成績】
チーム    試 勝 敗 分 率   差
中日     130 79 46  5 .632 -  
巨人     130 68 59  3 .535 12.0 
広島     130 65 62  3 .512 15.0 
大洋     130 59 67  4 .468 20.5 
ヤクルト 130 58 69  3 .457 22.0  
阪神     130 51 77  2 .398 29.5 
それから何年かは岡田が立ち直り、4番に座ってチームを引っ張った。ビデオの中のヒーローが今でも4番で(当時は5番)活躍している、そんな岡田が俺は好きだった。現在甲子園で真弓、掛布やバースのマーチは聞けないが、チャンステーマに岡田のマーチが使われているのだけは密かにうれしく思っている。

しかし、全盛時5番だったバッターがピークを過ぎて4番を張っているチーム、状態がいいはずはない。

その後の数年は地獄の日々だった。相変わらず低迷が続く阪神は球界のお荷物、世間の笑いものとなり、いつしかクラスの大半が関西であるにもかかわらず巨人ファンに成り下がってしまったのだ。子供はにわかファンが多いため、浮動票のほぼ全てが巨人に取り込まれてしまっていた。そんな中で俺と親友N他数人が孤軍奮闘して阪神を盛り上げていた。しかし時には野球の言い争いになることもある。岡田を馬鹿にされたらカッとくる。だが、言い争いで阪神ファンが巨人ファンに勝てる要素は残念ながら何も無かった。対戦成績6勝20敗、斎藤、桑田、槙原にいいように翻弄され、原、クロマティ、吉村、篠塚にボコボコに打たれる完敗の試合がほとんど。

友人の心無い悪口や、からかいを俺たちがどれだけ真剣に受け止めていたか、どれだけ俺たちを傷つけたか、どれほどの悔しさと怒りを感じたかわかるだろうか。3年に1度は必ず優勝し、Bクラスなど経験したことの無いチームを応援している友人に、3年に2度は最下位、万年Bクラスのチームを応援している俺たちの気持ちがわかるだろうか。わかるはずが無い。言ってもわかるはずが無いのだ。実際に最下位のチームを必死で応援して、大好きなチームが負けつづけることの悔しさを経験するまでわかるはず無いのだ。巨人ファンは一生味わうことの無い感情なのだ。そんな俺ができることはただ一つ、手を出すことだけだった・・・


本当に、涙が出るほど悔しいんだ



試合の中継が終わって、次の日の新聞で勝ったことをさも当たり前のように確認する巨人ファンもいる。でも中継終了後、入りの悪いラジオにかじりついてボロ負けの試合にかすかな期待を抱き、ゲームセットの声を聞くまで諦めない小学生もいるんだ。

毎日大きく贔屓のチームの写真が載った勝利のスポーツ記事を流し読みする巨人ファンもいる。でも、すっかり扱いの小さくなった文字だけの勝利記事を楽しみにしている小学生もいるんだ。その記事だって、下手すれば2週間以上も負けっぱなしの時だってざらにあるというのに。

だが、これだけは言える。この泥沼の時代を知るコアな阪神ファンは他のどの球団(セ・リーグ)のファンよりも勝つことの喜びを知っている。

阪神が勝った日、巨人ファンの友人がとっくに眠りについている頃、俺は深夜のスポーツニュースの阪神が勝った試合のシーンをビデオに撮って編集していたのだ。

阪神が負けた日、巨人ファンの友人がとっくに眠りについている頃、俺は悔しさを紛らわすためにその編集したビデオを一人見ていたのだ。擦り切れるほど見ていたのだ。ビデオの出だしの方は映像にノイズが入りまくっていたのを覚えている。シーンも鮮明に覚えている。

ホームランなど珍しくも何ともない巨人ファンにはわからないだろう。再放送の野球中継、岡田がホームランを打つとわかっているシーンをビデオを構えて待っている気持ち。俺はリアル放送のホームランシーンを撮りたかった。それほどまでに阪神が勝つシーンに飢えていた。

誰にも言えなかったけれど今でもちゃんとそのビデオは持っている。

また暗黒時代全盛期にはこんなこともあった。今では考えられないことだが、友達と見に行った甲子園の広島戦、消化試合だったこともあったが観客が4000人だったのだ。今では平均4万4000人も入るというのにだ。しかもどう見てもあれは4000人もいるはずなかった。なぜなら俺たちはこう会話していたのを覚えているから。「今日、500人ぐらいしかおらんよなぁ?」と。本当に想像できないぐらいガラガラなのだ。さらに消化試合のため一軍半の投手が先発し、序盤から大量点を奪われる最悪の展開。嫌気が差した俺たちは寝っ転がってゲームボーイをしていたのである。ひどい話だ。応援するチームが弱ければ関西人は応援にも行かないのである。魅力のないエンターテイメントにはびた一文払わないのが関西人なのだ。シビアである。
ちなみに当時の甲子園はライトスタンドとレフトスタンドが繋がっていて自由に行き来できた。いつも俺たちはレフト自由席の小供400円を買ってライトスタンドに回って見ていたのをよく覚えている。

またこんなこともあった。あまりの低迷ぶりに家族がそっぽを向いてしまったのである。どうせ見ても負けるだけや、たまに勝っても意味あらへん、今年も最下位確定や。お前もそんなもん見るのもうやめてしまえ。

悔しかった。阪神を応援する親父をずっと見てきた俺は、今更なんでそんなこと言うんや、と子供ながらに猛抗議した。さらに夏、田舎へ帰省するとじいさんまで同じことを言うようになっていた。じいさんの時代は空前の長嶋ブーム、どこの球団のファンを問わず誰もが長嶋ファンだった、という中で長嶋を忌み嫌っていたというじいさんまで。

でも今から考えるとファンに見放されてもしょうがないような成績であった。強くなるような要素もほとんどなかった。連れてくる外人はどいつもこいつもポンコツばかり、ドラフトは毎年失敗、トレードにいたっては目も当てられない失敗っぷり。それでも俺はテレビの前でハッピを着てメガホンを叩いて応援していた。今思うとあの当時の阪神を応援するのに、純粋すぎる子供には少しばかり酷だった気がする。


ところが、そんな阪神に転機が訪れる。1992年である。前年勝率.369 借金34のダントツ最下位からなんとこの年は優勝争いを繰り広げるのである。俺もついに阪神ファンになって初めてのAクラス、優勝争い、貯金を経験することになる。この年は新庄、亀山、久慈らが元気いっぱいに暴れ回り、八木、和田ら中堅と助っ人オマリー、パチョレックが大当たり(打たないのはキャッチャー山田ただ一人)、さらに投手陣も仲田、湯舟、中込、野田らが大活躍で131試合目まで優勝を争ったのである。この年は130試合制で、延長は15回までで引き分け、その場合は再試合を行うというルール。阪神は引き分け2だったので最終戦の一つ前の試合まで優勝を争っていたのだ。

この年は野球の世界が変わったような気がした。応援するチームが勝つということがどれほど胸のすくことかをはじめて知ったのである。負けつづけることの悔しさは経験しないとわからないと書いたが、勝ちつづけることの喜びもまた経験しないとわからないのだ。阪神を応援して初めてシーズンが楽しいと思ったのである。

いつもは6月には既に定位置にいたのでそれからの3ヶ月は完全に消化試合、ペナントからは完全に蚊帳の外。各球団ともに阪神戦は貯金シリーズ。阪神を取りこぼしたチームが優勝争いから脱落するとまで言われる始末。オールスターなどそれはもうなんにも楽しいことはなかった。まずファンに愛想尽かされてるからファン投票で選出される選手がいない。監督推薦にしても苦肉の策で中継ぎ投手が一人と野手が一人程度しか出ない。もちろん活躍などするはずもなし。

それがだ、1992年は6月、7月、8月になっても勢いが衰えない。ペナントは混戦でヤクルト、阪神(巨人もいたかな)の日替わり首位、全球団が団子状態でどのチームにも優勝の芽はあった。そして話題の中心にいつもは脇役の阪神がいたのである。ファンも一斉に帰ってきた。オールスターファン投票にいたっては投手、野手ともに阪神選手がほぼ独占した。阪神に勢いが戻り、ファンも戻ってきた。これはいいことだが、調子のいい時も、どん底の時も(ほとんどどん底しか知らないが)ずっと休むことなく一途に応援を続けてきた俺は複雑な気分だった。世間のにわか阪神ファンにひとこと言ってやりたかった。お前ら今まで巨人応援しとったんちゃうんか、今更戻ってこんでもええぞ、と。ガラッガラの甲子園知らんやろ、と。なぜなら


俺は誰にも負けへんぐらい応援してきたっていう自負があったから。



そのころ中学生になっていた俺はさすがにプロ野球で言い争いをすることはなくなった。嬉しかったのが、その話題で馬鹿にされるいつものパターンではなかったことだ。プロ野球は人の3倍は詳しかったのでその年は話が尽きることはなかった。元来俺はプロ野球の話をするのは好きだった。しかし、どうしても巨人ファンが弱い阪神をなじり、煽るのでカチンと来てしまっていただけなのだ。

正直その時まで俺は巨人ファンが羨ましかった。いつも首位争いをして常にペナントの話題をさらい、新聞には自分のチームの勝利記事が毎日のように踊る。野球でストレスが溜まることはないんだろうな、巨人ファンは。と思っていた。しかしそれが1992年にそっくりそのまま阪神になった。それはもう、えもいわれぬ喜びだった。巨人ファンは毎年こんな思いをしてプロ野球観戦をしてるんか。と羨ましさは倍増した。

しかしその考えは間違いだということに気づいた。先ほども言ったがその年のペナントは団子状態だったのだ。阪神も巨人も同じぐらいの成績にいる。だとしたら巨人ファンも同じぐらいの喜びをもってペナントを楽しんでいるはずである。だが、極端に喜んでいるのは俺のような阪神ファンだけであった。つまり、巨人ファンはいつも優勝争いをするぐらいの成績だから一つ一つの勝利に喜びを感じないのである。一つ勝つことの本当の喜びというものを知らないのである。ここまでこれを読んでいる巨人ファンはほとんどいないと思うが一つだけ言っておきたい。


この喜びは巨人ファンには一生味わえない感情なのだ。


今は巨人ファンを羨ましいと思うことは全くない。
と、感情論はこのぐらいにして、この年のペナントに戻ろう。実はこの年ほど幕切れが悔しかった年はなかった。もう一度強調して言うと幕切れの悔しさである。本当にもう少しのところで優勝を逃したのだ。

残り15試合を残して阪神はヤクルトに3ゲーム差をつけて首位を走っていた。3ゲームぐらいは簡単にひっくり返ると思いがちだが、残り試合との兼ね合いを考えると数値的に阪神が圧倒的に有利だった。5割でいけば十分優勝ができる、そのぐらいの余裕があったのである。誰もが7割がた阪神が優勝すると思っていた。しかし、阪神はこの後世紀の大失速を演じるのである。ここから阪神は上位チームの巨人、ヤクルト相手に4連敗を食らいあっという間に首位から陥落する。次のゲームに何とか勝って再び首位に立つものの中日に連敗、それもお粗末なエラーやらサヨナラ負けやらが続いた。今まで優勝はおろかAクラス争いも経験したことがないチーム、あきらかに経験不足だ。しかし横浜三連戦に勝ち越し、残り5試合を残してヤクルトに1ゲーム差をつけて首位にいた。ところが残り5ゲームのうち4ゲームがヤクルト戦だったのだ。ヤクルトの監督は後に阪神の指揮をとる知将野村、対する阪神はフロントの犬、中村勝広。何もかもが不利に思えた。騒いでいるのは俺を含めたファンだけ。そして嫌な予感は的中し、ヤクルトに連敗、続く中日にも敗れ逆にヤクルトにマジック1が点灯。もし残りのヤクルト二連戦に連勝すれば並ぶ計算だった。しかし、それを跳ね返すだけの勢いはもはやタイガースになかった。甲子園でヤクルトに優勝を決められた瞬間、初めて悔しくて泣いた。

選手の経験不足と監督の手腕がモノを言った幕切れであった。最終戦こそ二日酔いでベロンベロンのヤクルトに4-3で勝ち、なんとか巨人と同率の2位を死守した。もし負けていれば巨人に抜かれ、広島と3位同率、前年度の成績から地元開幕権まで失うという悲惨な結果になっていたところだったのだ。
結局残り15試合は4勝11敗であった。

とはいえこの一年はプロ野球を本当の意味で楽しむことができた。優勝争いもしたし、選手に実力もついてきた。なによりレギュラーはみんな若いし経験をつめばこれからどんどん阪神は強くなる、もうあんな弱い阪神に逆戻りすることはない。その確信は俺だけのものではなかった。

しかし、これから更なる第二次暗黒時代がはじまろうとは・・・

フロントが史上稀に見る大失敗トレードを惜しげもなく繰り返し、これでもかというほどにポンコツ助っ人を次々に連れてくるのである。野田(後にオリックスで最多勝)の放出に始まり5年連続三割のオマリー(後にヤクルトでシーズンMVP)を解雇、代わりにオリックスから来た松永はほとんど試合に出ずにダイエーにFA。中村監督の次に来た藤田平は新庄と折りが合わず、へそを曲げた新庄は「ボクは才能がないから引退するんだ!」とか言い出すし、次の吉田監督は完全に過去の栄光を背負い込んだまま85年と同じ戦い方をしようとした。広くなった甲子園の申し子、若い関川と久慈を放出、代わりにやってきたロートル大豊は大型扇風機、ピークをとっくに過ぎたパウエルも使い物にならず、老化に拍車をかけ最下位を爆進した。対する星野中日は同じく広くなった名古屋ドームでスピードのある元阪神勢をフルに起用し、開幕11連勝から一気に優勝。(矢野は取っておいて大正解だが。)そのほかピークを過ぎた石嶺、山沖などを果敢に獲得するもチームの老化を促進するだけであった。更に個人的意見だが岡田を放出したのも選手への愛情が感じられないショッキングな出来事であった。

外人にいたっては酷いもの、阪神ファンからも野次が飛ぶディアーに始まってグレン、クールボー、マース、クレイグ、ハイアット、書くのも嫌になるグリーンウェル、まだまだ続くポンコツ外人オンパレード、中日のお下がりコールズ、シークリスト、クリーク、ハンセン、外人史上最も暗かった超問題児メイ、メジャーの超大物と噂された世紀のダメ外人ブロワーズ、さらにミラー、ラミレズ、バトル、タラスコ、名前だけはイカツかった弱腕外人ジェイソン・ハートキー、日本ハム時代は凄かったフランクリン、後に西武で大活躍エバンス、脅威のオープン戦だけ男、現中日のクルーズと見渡す限りのダメっぷり。

この頃の俺はもうシーズンの成績は潔く諦め、自分が甲子園に行くときだけ勝てばいい、とそんな考えに変わっていた。(実際は甲子園でも同じように負けるのだが。)阪神を応援するには普通の考え方では無理である、とまで思っていた。ほとんどが負け試合なのだから凡人の忍耐力では務まらないのだ。俺はもう修行僧のような境地で応援していた。

しかしプロ野球の記録には残らないが俺の阪神ファン人生で衝撃的な出来事が起こった。阪神が早々とリタイアしたシーズンの終盤、相手はヤクルト神宮球場、スコアはよく覚えていないが20-3ぐらいでもちろん阪神が負けていた。そして大量失点した次の回の阪神最後の攻撃、力なく倒れる阪神打線に空しく響くトランペット。それに合わせてなんとヤクルト側のファンからメガホンの音と声援が飛んできたのだ。わかるだろうか、相手ファンから同情を買っているのだ。あれほど悔しかったことはなかった。負けることの悔しさではない。俺の悔しさの矛先は何よりも阪神の選手に対してのものだった。相手ファンから応援されているのだ、その意味がわかっているのか、なめられている、馬鹿にされている、勝負の世界でこれ以上ないというほどコケにされているのだ。


なぜ奮起しない・・・



その時を境に俺は阪神の応援をやめた。情けない、そんなんやからダメトラ言われるんや、毎年毎年期待はずれ、こんなチーム応援しててもなんもえーことあらへん、ストレス溜まるだけや。お前らなんかずっとボロ負けしとったらええわ。

そうつぶやいて俺は阪神の試合を見るのをボイコットした。唯一、俺の阪神ファン人生の中で阪神ファンをやめようと思った出来事だった。(実際は三日もしないうちに戻ってきました。十数年しみついたファン魂はそんなに簡単に消えません^-^;)


しかし、そんな中またもや阪神に転機が訪れる。1999年である。弱小ヤクルトを2年で再建し、4度のリーグ優勝を成し遂げた野村克也氏が阪神の監督に就任するというのである。ここまで阪神は歴代OBを監督に起用してきた経緯があった。これではどうしてもフロントに文句の言えない立場の人間が監督をすることになり、思い切った改革ができない。関係もナーナーになってしまい、勝つことを第一としたチーム作りが阻害されてしまう。それがだ、フロントが過去の悪しき習慣を断ち切って外様の野村の起用を決断したのだ。ようやく首脳陣が勝つ気になったのだ。しかも野村は3年契約、手腕も実績も文句なし。否応にも期待は高まるというものである。俺もこれで阪神は変わると思った。すぐには無理でも3年の間に何とかしてくれるだろう。

そしてペナントが始まり、ナインはいつもと違った戦いを見せるようになった。野村再生工場、XX年ぶりの首位、巨人を3タテなど、少しは紙面を楽しめるようにはなった。その話題性から集客力もあり、大阪は再び活気付いた。だが、現実はそんなに甘くはなかった。

3年連続最下位

それが野村阪神に叩きつけられた現実であった。確かに野村の采配は悪くなかった。弱者が強者を倒すことに価値を見出す。一人一人は弱くてもやるべきことをしっかりやれば強者に勝てる、それが野球だ。そのノムライズムは随所に見られた、見どころのある試合を何度も見せてくれた。しかし、それが実を結ぶことはなかった。あまりに阪神が弱すぎたのだ。ノムラの考えを実践するレベルに達したチームではなかったのだ。加えて阪神というチームに野村が合わなかったというのもあったのだろう。巨人長嶋監督が無差別に有力選手を取りまくり、戦力差が歴然としてしまったというのもある。俺は失意にくれた。あの野村がやっても一緒だった。もう誰がどうしようと弱い阪神は変えられないのだろうか。

そして野村の任期の3年が過ぎた。阪神側は4年目も野村に依頼しようとしていた。俺も賛成だった。野村監督も「これまで3年は戦力がそろっていなかった。でもようやく楽しみな戦力がやっとそろいつつある。」と漏らしていた。しかし、沙知代がバカをやらかし野村は球界を追われた。

しかし、阪神がこれで終わったわけではなかった。野村が最後の置き土産をしてくれたのだ。野村と同時期に中日の監督を退いた星野を次期阪神の監督に推薦したのだ。悪しき体質を変えるには私と180度違うタイプの人間を起用するのがいい。星野がいい、と。

正直俺は野村にやっていてほしかった。采配では星野をそれほど買っているわけではなかったからだ。実際采配は野村のほうがうまいと今でも思う。しかし、星野起用は大正解だった。星野の成功の真意は別のところにあったのだ。星野はグラウンドの中の監督という枠を越えたところで素晴らしい力を発揮した。星野が優れているのはマネジメント能力だ。星野はまずフロントに介入した。勝つための考えを徹底的にフロントに説いたのだ。勝つためには現場に任せているだけではダメだと。一体になって勝ちにいかねば勝てないと。そして、積極的な選手獲得が必要なんだと。しいては選手のモチベーションの高め方、メディアの使い方、生まれもつカリスマ性。俺は脱帽した。シーズンが始まる前に阪神の体質を変えてしまったのだ。

そして幕を開けた2002年、宿敵巨人に連勝し、その勢いで阪神は開幕7連勝という最高のスタートを切った。過去に開幕7連勝したチームで優勝できなかったチームはほとんどない。優勝を逃したチームも全て2位でシーズンを終えている。これはAクラス入りは間違いない、優勝もある。アリアス、片岡を取って戦力もアップした。

しかし、過去のデータのこれ以上ないというほどの後押しがあったにもかかわらず阪神はやっぱり阪神であった。シーズン終盤に、ずるずると後退し4位のBクラス。最高12あった貯金も全て使いきり、逆に4つの借金を抱えた。開幕当初は完全に阪神が主役だったペナントも原巨人が就任一年目で日本一という巨人ファンにはたまらない形で終わってしまった。どうしていつもこうなるのだ。

ここで俺が応援し始めてから阪神がどれだけ弱かったかを見ていただきたい。まずは年ごとの順位から。

年  阪神  巨人
87     6    1
88     6     2
89     5     1
90     6     1
91     6     4
92     2     2
93     4     3
94     5     1
95     6     3
96     6     1
97     5     4
98     6     3
99     6     2
00     6     1
01     6     2
02     4     1
---------------
平均 5.3   2.0       
ひどい。改めてみるとひどすぎる成績だ。よくこれで16年も応援しているものだと自分でも思う。応援した16年のうち最下位に沈むことなんと10回、5位が3回。Aクラスは92年の一度だけ。この年でさえ巨人と同率だったのだ。

次に16年間の勝敗を見ていただく。比較のために巨人のデータも載せた。

【阪神】
試合数   勝   負 分 勝率 借金 平均借金数 平均順位
  2126  885 1219 22 .416  334       20.9     5.31


【巨人】
試合数   勝   負 分 勝率 貯金 平均貯金数 平均順位
  2120 1182  918 20 .558  264       16.5     2.00
この不公平さは何とかならないものか。いかに阪神が弱いかがわかると思う。絶対値で見ると、あれだけ強いと思われていた巨人の「強さレベル」も阪神の「弱さレベル」には到底及ばないのである。数式で書くとこうである。

|阪神の弱さ|  >  |巨人の強さ|

少しはわかっていただけただろうか。阪神を応援し続けることにどれほど強靭な精神力が必要であるかを。思い返せばこれまで俺は16年間阪神には色んな事を教えてもらったと思う。勝負の厳しさ、勝つことの難しさ、負けることの悔しさ、我慢、忍耐、精神力、もはや人間形成にかかわっているといっても過言ではない。人間、痛みを知らなければ人に優しくなれないのだ。

しかし、もういい加減違うことを教えてもらってもよいのではないか。何を隠そう俺もそろそろ限界である。85年を知っている親父世代や、ファン暦5〜10年のヒヨッコ阪神ファンはまだいい。こっちは16年だ。もういいだろう。小学4年生から26歳の今まで全くと言っていいほど日の目を見ていないのだ。これまでに負の遺産から学ぶことは全部吸収した。はっきり言ってこりごりである。ここらで優勝の感動を味わってもバチはあたらないはずだ。人間、痛みばかりでは生きていけないのである。だからもう一度いう。


もういいだろう?




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これを書いている2003年5月26日現在、阪神タイガースは31勝15敗1分、2位巨人に6.5ゲーム差をつけて首位を独走している。17年連続負け越している巨人にも7勝1敗1分と大きく勝ち越している。今岡、赤星、浜中、藤本、桧山ら生え抜きと金本、片岡、アリアスら補強した戦力がバランスよくかみ合い、若きエース井川を中心にムーア、伊良部、復活の藪ら先発陣が充実し、押さえに安定感抜群のウィリアムスが控える。そして守りの要に矢野が座る。毎年言うことだが、ひょっとすると今年こそは本当にあるかも知れない。いや、あってほしい。待つには、耐え忍ぶには、16年という年月はあまりに長すぎた。


85年に入団、優勝を経験しそれからの悪夢の時代を阪神一筋で17年間戦ってきた男が2001年、引退した。和田豊、地味なバッターだが俺は大好きだった。どん底のチーム状態の中、17年間チームを引っ張ってきた責任感の強い男だった。俺も苦しかったが選手である和田はそれ以上に悔しい思いをしてきたに違いない。忘れもしない和田の引退試合、2001年甲子園最終戦(対巨人)。一番セカンド和田。2打席目に放った伝家の宝刀流し打ちライト前ヒット。最後に見せた職人の技、絶対に忘れない。6回に凡打で退いたとき、和田コールが鳴り止まなかった。試合後のセレモニー、和田の最後の言葉に俺は涙が止まらなかった。和田の志は確実に次の世代に受け継がれたと思った。その瞬間を俺はしっかりと見届けた。サンテレビに感謝したい。

和田、引退セレモニー最後のメッセージ

昭和60年、入団1年目で先輩たちに優勝の喜びを教えてもらいました。
自分が現役のうちにもう一度優勝したい、後輩たちにあの喜びを教えてあげたい、
ファンのみなさんと思いきり喜びたい。
ここ数年、その思いだけで野球をやってきました。
「失意泰然」。この言葉をモットーに野球をやってきました。
志半ばで背番号6を球団にお返しするのは心残りですが、
私の夢を、後輩たちに託したいと思います。
これから強くなっていくタイガースで、後輩たちとともに頑張っていきます。
球団関係者、監督、コーチ、選手のみなさん、
日本一の球場を常に用意してくれた阪神園芸のみなさん、
陰ながら支えてくれた裏方のみなさん、マスコミ関係者のみなさん、
そして日本一、世界一の温かい応援をいただいて、
私自身に120%の力を出させてくれた阪神ファンのみなさん、
本当にありがとうございました。
17年間、阪神タイガーズ一筋の現役生活を全うできることを誇りに思います。
17年間、本当にありがとうございました。 

阪神タイガース 和田 豊

100点満点のスピーチだった。

そしてもう一人、87年俺が阪神ファンになった年に入団し、暗黒時代のみを今まで16年間戦っている男がいる。勝負強いバッティングで魅了するかつての虎のスラッガー、代打の神様八木裕。俺の大好きな男である。和田と八木。何度二人のヒッティングマーチを歌ったことか。俺が阪神ファンになって常にその男の背中があった。頼りになる男だった。しかし八木もそう長くはない。「代打の神様」その称号は引退が近いことを意味するのだ。かつての真弓、和田がそうであったように。志半ばで引退せざるをえなかった和田。しかし八木には今年、そのチャンスがある。コーチとしてベンチに座る和田と一緒に、和田の意志を引き継いだ選手の一人として、勢いよくマウンドに飛び出す姿を見せてほしい。あわよくば、八木のバットで優勝を決めてくれたらこれ以上嬉しいことはない。

さあ、期は熟した。迷うことはないだろう。

これから強くなっていくタイガースよ、最後まで、全力で突っ走れ!


この熱き想い、ナインに届け!
2003年5月26日
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