藤村由加 人麻呂の暗号 (1989, 1992)

2017.6.2

 藤村由加は、トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックス(略してトラカレ、1984年に設立)で学ぶ、佐まなつ、北まりえ、榊原布、高野津子の4名の執筆者集団のペンネームです。

 彼女たちは、ヒッポファミリークラブ(略してヒッポ、1981年に設立)で朝鮮語を学びました。

 ヒッポは、子供のときからの日本語、英語、スペイン語、韓国語などの多言語環境生活と、海外へのホームステイなどにより、多言語を母語のように自然習得することをめざします。

 その多言語活動をベースに、「ことばと人間を自然科学する」をテーマに、いろんな研究活動を実施しますが、1984年に、研究部門として、新宿にトラカレを開校(1985年に渋谷に移転)します。

 トラカレは、「自然科学フィールド」、「音声フィールド」、「記紀万葉フィールド」などの分野で、研究活動を行い、自然科学の分野の研究成果は、『量子力学の冒険』『フーリエの冒険』などの出版となります。

彼女たちは、トラカレの一期生として、言語交流研究所フェロウの中野矢尾さんの指導のもとに、万葉集と朝鮮語の関係を学びます。

彼女たちは、中野矢尾さんのことを、アガサと呼びます。これは、アガサ・クリスティのアガサです。

このアガサの指導のもとに、藤村由加が研究した成果が、「人麻呂の暗号」という題で、1989年に新潮社から出版され、大ブームを起こしました。1992年に、新潮文庫になりました。

第一章 開かれた古墳・万葉集

 物語は、下関から釜山に向かう関釜フェリーの場面から開始します。

韓国には、これまでに二度飛行機で訪れたことがあるのですが、この船旅のほうが、気分としては、かえって近く感じられ、フェリーの大きな広間の一角で、乗客のおばさんたちが話す韓国語に魅かれるように仲間入りしていたそうです。

 彼女たちも、ヒッポの多言語教育のお蔭で、韓国語が理解できます。少し引用します。

 韓国語に親しみ始めた頃、初めは雑音のように聞こえていた韓国語の音声も、繰り返しテーブを聴くことで、一年もたつとずいぶん耳に残るようになってきた。

そのころになると音楽をハミングでもするように、韓国語の断片が口をついて出るようになった。

言える部分が増え、自分の言っている韓国語の大まかな意味も見えてくるにつれ、そのことばを解る人、受けとってくれる人に無性に会いたくなった。

韓国とのホームステイプログラムに、私は一も二もなく参加したのだった。四年前のことである。

(中略)

しかし一週間も過ぎるころになると、オンマの話す韓国語もほとんど解るようになっていた。そんな自分が天才のように思えてきたことが昨日のように思い出される。

無意識に私の中に溜まっていたテープの韓国語が、そのことばが通じる空間を得て、溢れるように話し始めていたのである。

 日本語と韓国語には、似ている部分がかなりあります。白っぽいのぽいは、韓国語のポイダ(見える)に似ています。もぐもぐ食べるのもぐは、モゴ(食べる)、など。

 江戸時代の新井白石も『東雅』の中で、日本語の中に韓国語の転じたものが多いことを述べています。

 古代日本でも、様々な言葉が飛び交っていたのですが、知らず知らずのうちに、私たちは、「日本は単民族、単言語国家である」という今日の常識に馴らされていたのです。

 万葉集には、読解が難しい歌があり、第一巻冒頭の雄略天皇の歌は、一般には、『通りがかりの雄略天皇が、若菜摘む少女に声をかけ、堂々と自分から身分を明らかにし、求愛した』と解釈されるのですが、和歌山市在住の郷土歴史家、宮本八束さんは、これを朝鮮語で読み解き、

『至急告知するぞ。知りて服しつかえよ・・・世の人を安堵せしめる泊瀬[はつせ]朝倉の高御座に至急服しつかえよ。なんじ臣民よく聞け。この大和の国に、法令によって我は王座にある。我こそは天皇なり。・・・』という意味で、即位宣言を裏に隠した歌だと指摘しました。

 中野矢尾さんも、同様の読解を行い、1983年5月5日付けの毎日新聞に、

「主婦がユニークな新解釈 『万葉集』は恨みの"政治歌" 『大和三山歌』など 古代朝鮮語で解読」

と紹介されました。

 宮本さんの説も、中野さんの説も、学界からは完全に無視されたわけですが、藤村由加は、宮本さんとコンタクトし、彼は無念をこめて、「物的証拠を見つけなさい」と忠告してくれたそうです。

第二章 枕詞が解けた

 藤村由加は、意味不詳の枕詞の研究に進みます。

 「あしひきの」という枕詞は、「山」などに係りますが、古語辞典には、その意味は、「足を引きながら登る」「裾野を長く引く」などいろいろな説があるが不明。従って、係り方も不明。と説明されています。

 藤村由加は、古代朝鮮語では、足は、タリ、引くも、タリ、山は、タルなので、タリ・タリ・タルの語呂合わせになっていると指摘します。

 

 

 

 藤村由加にとって、不幸なことに、中野矢尾さんは、1999年に、お亡くなりになってしまいます。

 ヒッポのホームページに、赤瀬川隼さんが、アガサを偲んで という文章を書かれています。

https://www.lexhippo.gr.jp/what/supporter_detail013.php

 その後半部分を、以下に引用して、紹介します。

 アガサこと中野矢尾、ヒッポファミリークラブ創設以来のフェロウで、トラカレ発足と同時にシニア・フェロウとしても講義を受け持った。

藤村由加は、『人麻呂の暗号』に続いて、『額田王の暗号』(90年)、『枕詞の暗号』(92年)を続々と上梓し、5年後の97年には満を持して『古事記の暗号〜神話が語る科学の夜明け』を出した(いずれも新潮社刊)。

このいずれにも、アガサは颯爽(さっそう)と登場する。颯爽とはしているが、常に目立たぬように控え目に。

そして藤村由加を叱咤し示唆を与えるために出没する回数が、徐々にだが減っていた。藤村由加の自立と成長の度合いに応じたものだろうと思っていたが、それだけではなかった。

『古事記の暗号』が世に出てまもなく、中野矢尾さんが入院したということを聞いた。そして99年4月に中野さんは永眠された。

 僕らが生まれた時代、一般の家庭では、赤ん坊はたいてい自宅の畳の上で生まれた。

僕も僕のきょうだいも皆そうだった。そのとき家に来てくれる人を、「おさん」といった。

必ずしもお婆さんではなく、中年の人が多かった。今では「助産婦」というのだろうが、語感もイメージもまるで違う。 

「そろそろ・・・」という知らせを受けて家に来てからも決してあわてない。万事に余裕があり、産婦だけでなく、家のなかで緊張している家族たちを無言のうちに落ち着かせる。そうこうするうちに、子供は寄りつけない奥まった部屋から、けたたましくも元気な産声が聞えてくるのだった。

 唐突だが、アガサこと中野矢尾さんは、藤村由加が産声を挙げたときのお産婆さんではなかったかと思う。

お産婆さんが、医者ではないけれども医者に負けない医術を備えていたように、中野さんは、学者ではないけれども、並みの学者が及びもつかぬ科学的な知識と洞察力と、何よりも人格を備えていたと僕は断言できる。

そして、中野さんは藤村由加のお産婆さんであったと共に、育ての親でもあったと思う。その役割を彼女に託したのが、祭酒こと榊原陽さんである。

『人麻呂の暗号』の巻末に「アガサからの手紙」が載っている。

その書き出し。

「万葉集というおおきな歴史の中を、今日まで手さぐりで旅をしてきましたが、この本はそんなあなた達のささやかな、しかし精一杯の旅行記だといえるでしょう。

しかし旅行記を書き終えたことで、あなた達の旅が終わったわけではありません」  

そして末尾には、

「あなた達の旅行記に、私の小さな旅を重ねてみました。参考になれば幸いです。

若いあなた達を見ていると、いつも故郷は未来にあるのだなあとつくづく思います。近々またお会いしましょう。アガサより」  

今読み返すと、この手紙は若い人たちへの遺書でもあったと思う。

「若いあなた達」とは、今のトラカレの学生諸君でもあり、それに続くヒッポのこどもたちでもある。

 

 

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/

 


自分のホームページを作成しようと思っていますか?
Yahoo!ジオシティーズに参加