祐一さん…



 ……



 あの、ひとつお願いがあるんです…



 あのっ…



 祐一さんの、第二ボタン、…わたしに、くださいっ…!



 ———ずっとっ、ずっと好きでしたっ!!


澄み渡る空に思いを放つ  - an Farewell Day -



「……」

 校舎裏の、うら寂しい風景。

 まだ少し寒い大気とは裏腹に、暖かい日差しが降り注ぐ三月の季節。

 祐一は目の前の少女の告白に、ただ、呆然としていた。

「栞…」

 彼女の名が、自然とこぼれ出た。

 しゃくっ、と溶けかけの雪を踏みしめ、一歩を踏み出す。

 うつむいていた少女が、恐る恐る、顔をあげた。

 あげて、驚く。

 愛しいあの人は、今や目と鼻の先だった。

「祐一さん……」

「ああ、栞…」

 栞に向かって、祐一はゆっくり手を伸ばした。

 包み込むような、暖かい両の腕。

 それを待って、栞はうっとりと目を閉じた。

「話したいことがあるんだ、栞…」

「はいっ…!」

 ——むんず。

「へ…?」

 期待とはぜんぜん違った感触に、栞は目をしばたかかせた。

「よーく聞け、栞」

 祐一の手は栞の後ろの襟首にあった。

 彼はその手を離さないまま、ずるずると栞を引きずって歩き出した。

「俺は来年もこの制服を着るからボタンは必要だ」

「えうーっ! わたしのあこがれがあっ」

「せめて来年やれっ、来年」

 ずりずりずりずり。

 えぅえぅ言いながら、栞は祐一に引きずられていった。



 広々としたその空間は、今はあちこちの喧騒で満たされていた。

 本来は素っ気無いはずの両壁は、紅白の幕で飾られている。

 ぼぉぼぉとジェットヒーターの稼動音が響く中、生徒たちは思い思いに式までの時間を潰していた。

「…で、時間ギリギリに入場ってわけね」

 はぁ、とため息をついて、香里はかぶりを振った。

「お前ら、たぶん石橋と金沢に睨まれてるぜ」

 対照的に、北川は随分と愉快そうだった。

「金沢?」

「あの子の担任」

「あぁなるほど。…ま、俺は大丈夫だろ、石橋だし」

「ちっ、そうか。あいつならあっさりと流すだろうなぁ。残念だ」

「……」

 祐一は北川に刺すような視線を送るが、ケロっとしたままなおも悔しがる。名雪はそんな二人を見てくすくすと笑っている。卒業式の日と言えど、いつものおなじみの光景だった。

『あー、全員席につけー』

 据え付けの古臭いスピーカーが教師の声を吐き出すと、各自めいめいに自分の席のパイプイスに散っていった。

 祐一も、どっかと自分の席に腰を落ち着ける。

 彼にとっては非常に不本意なことに、隣は北川だった。

「…で、ホントのところはどうなんだ? 相沢」

 ほれ来た、と祐一は思う。

「なにが」

「栞ちゃんと二人っきり、人気のないところなんかで、いったいナニをしてたんだ?」

「…さっき言ったとおりだって」

「へー。ほほー。あれ、本当の話かぁ? お前、オレにナニか隠してないかぁ?」

「……」

 うぜえ。

 と、祐一は思った。

 所詮、退屈しているだけなのだろうが、あいにくと相手をしてやれるほど彼の気力は回復していなかったのだ。

「…つまりお前は俺の彼女、即ち香里の妹をダシにして一瞬でも不埒な妄想を働かせたわけだな。

 うん、よし、そう香里に言っといてやろう」

「……! ………!!」

 北川は言葉を失ったように口をぱくぱくいわせて、真っ青になった顔の中の目で祐一に「ごめんなさい止して下さい」と必死に訴えかけていた。

 それでいいのだ、と大仰に頷く祐一。

 その目がおっ、と丸くなり、ある一点を見つめた。

「〜〜♪」

 一年生席の辺りから、ボブカットの見慣れた顔がにこにこと手を振っている。

「………」

 仕方ないのでひらひらと手を振り返す祐一。

 ぶっちゃけ晒し者である。

 一年生は苦笑しながらほんわかと見守っている者が多数。

 二年はこそこそとゴシップを囁きあう者と、祐一にだけ恨めしげな視線を投げかけてくる独り身に分かれていた。

「…あ」

 祐一がつぶやく。

 何がそんなに楽しいのやら、満面の笑みで手を振っている栞の背後に、鬼の形相で立っている教師。

「あちゃー…」

 向こうで始まった捕り物に、えぅー、と言う声を祐一は幻聴した。

「北川」

「何だ?」

「あれがそうか?」

「ああ、金沢だ」

 がっくりと肩を落とす祐一。



 ちなみに、ふと気になって香里の方を伺った祐一は、

「わたしに妹なんていないわ」

 と書かれた背中をピンと伸ばし、ただ真っ直ぐに前を見詰めている女生徒の姿を目撃したとか、しないとか。



 ぱちぱちぱちぱち…

 盛大だった拍手も徐々に止んでいく。

 囁きあう者や、しゃくりあげる者。感傷的な空気の只中にあって、祐一の態度は少々不遜だった。

「あー…手が痛ぇ」

「あ、あいざわ、お゛、お゛まえなぁ…」

 身も蓋もない発言に、隣の北川が食ってかかった。

 両目を泣き腫らして迫る姿は、怖い。かなり怖い。

「お前、どしたんだよ…」

「どうしたもこうしたもあるかっ」

 と訊いてはみたものの、祐一にはおおよその理由の見当はついていた。

 卒業生が退場していく際、ある男子の卒業生が堪えきれずにしゃくりあげているのを見て、北川の涙腺が一気に決壊したのだ。おそらく、お世話になった先輩なのだろう。

「ほら…俺は、こないだ来たばっかりだから」

 転校してきたのが一月。まだ、一ヶ月弱しか経っていない。

 いくら馴染みやすい環境だったとはいえ、あまりつきあいのない三年生と、別れを惜しむほどの思い出は醸成されていない。

「そりゃそうだが…」

「俺だって泣ければ泣くさ。なんか疎外感感じてるし」

「疎外感? …同じ思い出がない、ってことでか?」

「ああ、まあな」

 答えてから、なんとなく気恥ずかしくなった祐一はそっぽを向いた。

 子供みたいな単純な心理だ、と思う。けど、嘘は言っていない。

「……ふふん」

 泣き顔から一転、にんまりと笑う北川。

「何だよ、気持ち悪いな」

「いやいや、相沢よ。

 いいか、例年この後はこのままここでHRをやって、すぐに解散になる」

「…ああ。それがどうした」

「行ってやれって」

「………」

「語れるほど栞ちゃんのこと知らないけどさ、たぶん合ってるよ、お前の考え」

「……」

 ちっ、と舌を打つ祐一。

 ますますそっぽを向いた祐一に、北川は微苦笑を返す。

 あとは、二人の間には沈黙が落ちた。



 校門の辺りには、がやがやと喧騒が渦巻いていた。

 HRのあとすぐさま飛び出した在校生が、卒業生たちを捕まえているのだ。

 特に耳を澄まさなくても聞こえてくる。泣き腫らした顔をばかにし合う者、いまだに別れを惜しんで泣きじゃくり、最後まで先輩に世話をかけている後輩、卒業後の進路について、一方は不安を、一方は羨望を抱きながら語り合う者…。

 栞はそんな喧騒を眺めながら、ぽつんと下足箱に寄りかかっていた。

「ふぅ…」

「待ち人来たらず…ってか?」

「はいそうです…って、はれ?」

 突如頭上からかかった声に、ふるふると左右を伺う栞。

 ぽんぽん。

「お待たせ」

「あ…」

 栞の頭を軽く撫でて、祐一が栞の横に立っていた。

 ぎこちなく微笑む。

「あの、えっと…」

「ま、仕方ないって。栞は、次からきちんと見送りしてやればいいよ」

 やっぱり見られてた、と栞は思った。

 彼女の目の前では、今もなお別れの光景が続いている。その中には、彼女の級友たちももちろん加わっていた。

「えと、ごめんなさい」

「ん?」

「その…心配させてしまいました。割り切ってたつもりだったんですけど、やっぱり少し寂しいです」

 ひとくちにしゃべって、栞はほぅ、と息をついた。

「悪気の有る無しとかは関係なく、わたしだけ置いてけぼりっていうのは…寂しいです」

 目を伏せる栞を、祐一はやさしい目で見つめていた。

 ちゃんと話してくれた——その嬉しさと安堵がごちゃまぜになって、祐一の中にある栞への思いを突き上げる。

 きゅ。

「わ…」

 手を包む感触に驚く栞。

 三月とはいえまだ寒い空気の中、その手は驚くほどあったかかった。

「がんばれ…としか言えないけどさ。がんばれ、栞。

 きっと、お前のクラスメイトだって、学年が違ってもきっと仲良くしてくれる。

 だから元気出せ、な?」

 栞の手を握ったまま祐一はまくし立てた。

「祐一さん…」

 きゅ、とその手を握り返してくる愛しい感触が何よりも勇気をくれる。祐一は続けた。

「ついでに一年後のことだけどさ…

 俺は、置いてけぼりにしないよ」

「……………留年する、んですか?」

 がくっ、となる祐一。

「あのなぁ…。…まあいいや。

 ま——なんつーか、"置いてけぼり"じゃなくて"待っててもらう"ことが出来たらな——

 とか思って」

「え…」

「言葉遊びじゃないぞ、これは」

「は、はい。それは…わかります」

 もちろん、栞に疑いはなかった。

 目の前のこの人は今と同じような瞳で、あの噴水の前で、誓いを立て、そして誓いを果たしてくれたのだから。

「あ——…と。ん…なんか、自分でも意味が解らねーな。忘れてく——」

「待ってます」

 手をつないだまま、栞は祐一に向き合った。

「し、栞?」

「祐一さんが卒業して、いなくなっても。二年間、ずっと待ってます」

 ——祐一さんは、あの中庭でずっと待っていてくれたから。

「だから、迎えに来てください。絶対です」

 強い口調。

 ぽかんとしていた祐一は、やがてくすぐったそうに笑った。

「わかった。迎えに来るよ」

 つないだ手に力を込める。

「忘れてなかったら」

「——そんなこと言う人、嫌いです」

 それでも、手はつないだまま。

 新しい誓いは彼女の拗ねたような笑顔のもとで成されたのであった。