「ん…しょ」

 がちゃ。

 栞は赤くなった両手をぷらぷらしながら、その原因をねめつけた。

「むー…」

「あれ、どうしたの美坂さん。にらめっこの練習?」

 その脇を朴訥で大柄なクラスメイトが、栞と同じものを担いで悠々と歩いていった。

「むうぅぅー…」

 膨れる。

 とはいえ、それで何が変わるというわけではない。

 栞の目の前のもの——いわゆる典型的なパイプイスも、当然のことながら身じろぎ一つしなかった。

「美坂? どうしたんだ?」

 またも掛けられた声に、栞は振り返った。

「いえ…ちょっと」

 苦笑いを返しながら、相手を見る。同じクラスの男子生徒で、確か——サッカー部だったはずだ。ロッカーの上にスパイクを上げていて、先生に叱られているのを何度か見た覚えがある。

「椅子が重くて」

 栞は恥ずかしそうに答えた。こうしている今も、パイプイスを抱えた女子がえっちらおっちらと周りを往来しているのだ、女の子だから——という言い訳も立つまい。

 そうして男女の区別なく生徒が動員されているおかげか、現在の作業…体育館における卒業式会場の設営は順調に進んでいた。

 栞の返答に、声を掛けた彼は破顔した。あどけなさの残る笑みは、スポーツ選手らしく、清々しい。

「大丈夫? 持とうか」

「あ——えと、それは結構です。お気持ちは嬉しいですけど」

 やんわりと提示されたのは拒否の意志だった。

「いや、遠慮しなくていいんだぜ?」

「ひとりでやりたいんです。身体が治ってから、なるべく自分にできることは自分の力でしようと心がけてるんですよ」

 そう言って栞は笑ってみせる。

 当たり前のこと、実際は一人ではままならないことは星の数ほどあるのだが、栞は身体が治ってからそうした心掛けを欠かしたことはなかった。

「………あ、ああ。そっか」

 一瞬呆けたように動きを止めていたその男子は、場を取り繕うように何度も頷いて、去っていった。

「よしっ…」

 ぐっ、と決意をこめて、栞はパイプイスの方へと振り返った。

 そこでぴた、と止まる。

 今まで誰も居ないそこに制服姿がひとり、立っていたのだ。



Let's Date on the Days



「はー、ダメだ」

 首を振りながら戻ってきた男子生徒の肩を、他の男子たち数人がばっしばしと叩く。

「まーそう落ち込むなって」

「しっかし、美坂ってガード固えよなー」

 ダベりながら運ばれてきていた椅子を並べていく。

 話し込みながらちらちら見る視線の先には、一人の女子生徒が立っていた。

 ボブカットの小柄な少女。

 が、肌は陶磁のように美しいし、さらさらの髪。大き目の瞳はくりくりと動いて愛嬌があるが、時おり郷愁を帯びて遠くを見つめている。姉の美貌は、萌芽としてきちんと受け継がれているのだ。

「サッカー部、期待の新星でもだめとは」

「おい、よせよ」

 友人の揶揄に、照れたように苦笑いをする。

 つまり、普段はその身長や体型に子供っぽいと言われるこのと多い彼女——栞だったが、同じぐらいの身体条件である同学年の女子と比べると、容姿では少し抜きん出たところがあるのである。

 終業式まで何週間もないと言う時期に復学してきた彼女だったが、人懐っこい性格のおかげで男女共に人気を得ていた。

「——お。誰だ、あれ?」

 え? と彼は視線を飛ばした。いつの間にか、彼女に一人の男子生徒が近づいていた。

「二年じゃん」

「あ、あの人じゃねえの? 美坂と付き合ってるらしい奴」

「あいつがか…」

 彼は感慨深くその相手を眺めた。

 何しろ、彼女と彼の関係は有名である。昼休みに中庭で抱擁どころか、唇まで交わしていたというのだから。

「なんか、ふつーの優男じゃね?」

 彼の横で、よく彼とその健脚を競う陸上部の男子がそう呟いた。

「いや、俺らとくらべるとな…うーん、でも、確かに」

 全体的にしゅっとはしているが、何かスポーツをしていそうな程の肉体には見えない。帰宅部なのだろうか。

 その相手が何やら口をきくと、彼女の顔がぱっと華やぐ。

 それは今まで見たことのない、クラスメイトではなく、一人の女の子の彼女の顔だった。

(ふん…結構マジだったんだけどな)

 一転してぷんすかと怒っている彼女。

 それを軽くいなす彼。

 彼女は、しまいには拗ねてそっぽを向いてしまった。

「美坂ぐらいレベル高けー奴って、結構いないよな」

「せめてお近づきになりたいもんだけど…上級生がなー」

 そんな雑談を聞き流しながら、彼はぼーっとふたりを見ていた。

 何やら会話は膨らんでいるようだ。

 ほぇ? という表情で固まった彼女の足元のパイプイスを、相手がさっと持ち上げる。

 あわてて遠慮しようとする彼女は、何事かを囁かれ、赤くなって俯いてしまった。

「よっこらしょ…と」

 その相手はこちらにつかつかと歩いてきて、パイプイスをかしゃりと置いた。

「ここに置いときゃいいのか?」

「え…あ、はい。そうですけど」

「そうか。じゃ、頼むな」

 どっちかといえば、中性的な顔立ちの優男。

 それが、最後まで変わらなかった彼の、相沢祐一に対する印象だった。

 ただ。

「祐一さんっ」

 とてとて、と駆けてくる栞。

「おう」

「あの、ありがとうございましたっ」

 ぺこり、とお辞儀をする。

「律儀だなぁ」

 なでなで。

「えぅー…」

「けど、さっきも言った通りあんまり無理はするなよ。ほら向こう、演壇の設置終わったから飾り付け始めてるよ。あれ手伝えって」

 ぽんぽん。

 それでも尻込みする彼女を、祐一は笑って送り出す。

 優しく頭を撫でて。

 それは、愛情と心配と独占の証だった。



「…それでも、明日もいつもの時間に登校だからなー。

 よし、じゃこれで終わりだ。委員長」

 石橋が自前のファイルをぱたんと閉じる。

 起立、礼、の号令がかかって、HRが終わった。

 担任は去り、教室は例外なく喧騒で満ちる。

「ふあーあ。疲れた」

 祐一は席に座ったまま、大きく伸びをしていた。

「確かに、疲れたな…」

 北川は首を捻ってごきごきいわせている。

「ふたりとも、まじめに会場準備したんだね〜」

 年寄りくさい二人がおかしくて、名雪はいつもよりもにこにこしとしていた。

 一方香里は、そんな二人に懐疑的な視線を送っていた。

「…信じられないわ」

「ひどいなー、美坂」

 普段が普段だから、香里の感想ももっともだと言えよう。

「あ。わたし、北川君はちゃんとしてるとこ見たよ」

「だろ、水瀬。ほらな」

「名雪、ホント?」

「うん。最初はしぶしぶしてたけど、そのうち没頭してきちゃったみたいで、周りの人が辟易するぐらい張り切って取り組んでたよ」

「……」

「単純ね…」

「純粋だと言ってくれ…」

 頭上の触覚もこころなしかへなっ、と崩れ落ちた。

「けど、相沢くんに関してはますます疑わしいわよね」

「うん、わたしもそう思うよ」

「確かに、オレもそう思うな」

 北川まで瞬時に立ち直って、じっと祐一を見る三人。

「反論の隙ぐらい与えろっ!」

「あら、反論あるの?」

「俺は真面目にパイプイスを運んだぞ」

「嘘ね」

「嘘だな」

「ふふっ、祐一、そんなはずないよ〜」

「反論の隙を設けろ、だからっ」

 名雪の反応がある意味、一番失礼である。

「嘘じゃねーっての。イスが重たくて困ってるいたいけな女生徒を救ったりしたんだからな」

「…それ、ホント?」

 目一杯うろんげな顔を見せつける香里に、祐一はため息をついた。

「お前な…。疑うなら直々に言っておいてやってくれ、いくら何でももうちょっと筋力つけろってな」

 その時、がらがら、と後ろのドアが開いた。

 当然、近場の連中の視線を集め、その小柄な女子生徒は少し身をすくめる。

「…噂をすれば、ね。いつもごめんなさい、相沢君」

「気にすんなって。べったりしてる口実になるからな」

 祐一は悪戯めかして言うと、鞄を持って待ち人の方へ足早に去っていった。

「そっか…栞ちゃん、そんな重いものとか持てないのか」

 一連の事情は、いわゆる美坂チーム内では分かち合われている。北川が祐一のセリフを反芻しながら呟いた。

「だいじょうぶなの?」

「ええ」

 応えてから、香里は思わず笑みを深めた。

 友人の妹の容態を、ここまで気遣ってもらっている。

 相手に余計な心配をさせているという負い目も感じたけれど、それよりも単純に、そんな幸福な自分が嬉しかった。

 今なら、そう思える。彼のおかげだ。

「まだ通院が必要なんだけどね。それも、事後の経過を見たり、今後の生活のアドバイスをもらったり…そういうものよ。

 両親も私も、身体が開かないことが多いから…。もちろん、その気になればかわせる用事ばっかりなんだけど、相沢くんが『なら引き受けた!』って…」

「ちゃっかりした奴だな、あいつも」

「純粋に栞ちゃんを心配してるところもあるんだと思うよ〜」

 従兄弟のフォローをする名雪も苦笑していた。

 が、実際のところは祐一の思いなど、一連の事情と彼の人柄を知る三人にとっては無論明らかなのであった。



 それは、祐一が廊下の窓から差し込む午後の光を眺めているときだった。

「あ」

 ぴた、と前を弾むように歩いていた栞が止まる。

「どした、栞?」

「えぅ…えっと…」

 栞は気まずそうな面持ちでぎぎぎ…と振り返る。

「教室に忘れ物、しちゃいました」

「んん?」

 眉をひそめる祐一。

 何だそんなことで、と疑問符でも浮かべんばかりだ。

「取りにいきゃいいだろ? どしたんだ」

「………せっかく、お昼で終わりなのになって」

「それか」

 祐一はくすぐったそうに笑った。

「あのな、」

 祐一はぽん、と彼女の頭に手を乗せた。

「焦るなって」

 栞は未だ通院を言い渡されている。

 必要なことと理解してはいても、大切な時間を削り取られているような気がして仕方がないのだろう。

「ほら、取りにいこうぜ。付き合ってやるよ」

「………えっ」

 勇みよく一歩を踏み出した祐一は、思わずひっくり返りそうになった。

 ぱっと見てみると、栞は驚愕に固まっている。

「…行かないのか?」

「か、構わないんですか?」

「構わないも何も…そんな大した手間でもないだろ」

「あ、えとあの…そうゆうことではなくて」

 ごにょごにょと言いながらちらちらと祐一を伺っていた栞だが、

「祐一さんがいいなら…じゃあ行きましょう」

「? おお」

 てくてくと歩みを再開する。

 一緒にいくと決まると栞は満面の笑みになっていたが、祐一はただただその変化についてゆけず首を傾げるのみであった。



 そして。

「……こういうことか……」

 祐一はがっくりとうな垂れた。

 そうしている最中にも、周りから無遠慮な視線がぐさぐさと突き刺さっている。

 その大半は好機のまなざしだった。

 断じて、珍しく上級生が一年の教室のあたりに突っ立っているというだけでは、ここまで視線は集めない。

「うぅ…拷問だ」

「中に入って待ったらどうです?」

 すぐ横からかけられた声に振り向く。

 壁に寄りかかって腕組みをしていた祐一がそんな声を聞くのは、すぐ脇の戸口からしかない。

 そこから一人の男子がこっちを伺っていた。

 髪は短く刈り込まれていて、まだ幼い顔にも精悍さを与えている。

 見覚えのある顔だった。

「おっ。お前、確か…」

「ええ。式場の準備のときに」

 その男子はなんだか複雑な表情をしていたが、祐一は上級生にアガってるのかな…などと当り障りのない予測を立てて思考を切り替えた。

「だろ。でー…えっと、何だっけ」

「いや、中で待ったらどうですって。彼女を——」

 くる、と振り返って教室の中を確かめ、

「美坂さんを待ってるんですよね」

「う…ま、まあな」

 名前も知らない奴の前で何照れてるんだ、と祐一は自ら思う。

「折角の提案だが、遠慮しとくよ」

「そうですか?」

「ああ、だってな…あれ」

 ちょいちょい、と彼の背後、教室の中を指差す祐一に、その男子も肩越しに振り返る。

「………」

「………」

「………」

 栞の級友らしき女子たちが何人か、今や今やと何か待ち構えるかのようにじっと佇んでいるのだ。

「あんなとこに飛び込んでいく勇気はないからな」

「…」

 男子生徒は苦笑。

 彼の級友でもあるのだから、よく心得ているのかもしれない。

「…ん」

 たたた、と足音が近づいた。

「お、来たな」

 祐一が微かに微笑んだ。

 男子生徒はそれに気づいてから、後ろを振り返る。

「あ、じゃあ、おれはこれで」

「ああ。気遣いどうもな」

 ひらひらと手を振る祐一。

 男子生徒が移動して開いた戸口から、やがて栞が飛び出してきた。

「お待たせしましたっ」

「おいおい、あんま無茶するなよ…」

「こんなの無茶のうちに入らないですよっ」

 弾むように言う栞に、祐一は相好を保てなくなる。

 ——浮かれてるなぁ。

「じゃあ、行こうぜ栞。メシ食って検査に行ったら、あとは遊び放題だ」

「はいっ! いきましょう」

 ……。

「…なんか賑やかだったな」

 どちらかというと物静かで控えめな級友のイメージを少し改めて、その男子生徒は教室のドアをがらがらと閉めた。