残った雪が目立つこの街では、桜が舞うには少しばかり早い季節。
初春。
主である冬の名残雪が消え、静かに地中へと解けてゆき、
入れ替わるように、あちこちから新芽が息吹きだす——そんな季節。
それは、長い長い一年遅れの、
彼女の始まりの日。
「——…えーと、それからこないだのテキストの代金の徴収だが。
会計係…おい、岡田——」
安っぽい引き戸の向こうから、担任の声が流れている。
それにノイズを加えるのは、彼の生徒たちの他愛ないおしゃべりだ。
胸元に手をあてがう。
恐ろしいくらいの早さで脈動をしている。とても自分の器官だとは思えない。
ごくりと息を飲んで、気づく。喉がからからだった。
(アイス食べたい——…)
本能的な欲求に一時の思考を委ね、落ち着こうとする。
「えー、それから最後に、昨日教えてあったと思うが——…一日遅れでお前らに合流する生徒を紹介する」
落ち着かないままに時が来てしまった。
教室のざわめきが増す。
担任の足音が戸の向こうに迫る。
がらがら——。
「——、自己紹介」
「は、はいっ」
彼女は唇をぎゅっと引き結ぶと、恐る恐る教壇の上に上がった。
そして、頭を下げる。
「えと、始めまして。———です。
健康上の都合で一からやり直すことになりました。
今はもう元気なので、短い間ですが皆さんといっしょに頑張りたいと思っています」
早口でまくし立てそうになる自分を制し切ってそう告げ、
「——よろしくお願いしますっ」
もう一度おじぎをした。
一拍置いて、顔を持ち上げる。
と、彼女はその妙な空気に気づいた。
自分が入ってくる前よりもしんとしている。
凪を迎えた波の無い海のような不気味さ——。
彼女は、自分がとんでもない間違いでも犯してしまったのかと思って、落ち着かない気分になった。
「よし。じゃあ何か質問でもあるか?」
そんな空気を読んでいるのかいないのか——ほとんど転校生のノリで担任は話を進めていく。
なおもしんとしている教室。
ますます彼女が落ち着かなくなると、不意に一人の男子生徒が、恐る恐ると手を上げた。
「お、田上。なんだ?」
「あ、あの——」
ごくり。
彼女はもう一度、息を呑んだ。
不自然に途切れた言葉尻から、じわじわと重苦しさが漂っていく。
(な、何だろう…)
やがて——。
男子生徒は、意を決したように口を開いた。
「その————ほんとに同い年ですか?」
「——ほんっとに、失礼極まりないですっ」
周囲に微笑ましさしか振りまかないような怒り方で、彼女——栞は手中のバニラアイスをかきこんだ。
「〜〜〜〜〜っ」
頭を抱えてうずくまる栞。
…急いで食べ過ぎたらしい。
「お前な…」
横で栞の愚痴に付き合っていた男子生徒——祐一は、呆れたような声を漏らす。
「えぅ〜…きーん、って来ました…」
実に情けない声を上げる。
うずくまったままなので、祐一が笑顔を浮かべ——その目じりには涙がにじんでいるのには気づかない。
「……」
「…祐一さん?」
彼の異変に気づいて栞は顔を上げようとする。
「…ていっ」
「わっ」
祐一は顔を見せまいと栞を抱き寄せた。
「い、いきなり何ですかっ」
「嫌か?」
「………嫌ではないです」
もにょもにょと答える栞。
「…祐一さん」
「何だ?」
「胸の辺り、湿ってます」
「それは…自業自得だろ」
「そうですけど…」
しばらく、ふたりでそうしていた。
「…あったかいです」
「もう春だからな」
「そうじゃないですー」
甘えるようにほお擦りをする。
「祐一さんが、あったかいです」
「当たり前だろ。——俺も、栞も、生きてるんだからな」
「そうですね…」
少し身を離した。
「もう、春ですね」
「それ俺が言った」
「いいんです、何度言っても」
「何だかなぁ…」
「冬が過ぎて、春が来る———素敵なことです」
「そりゃ…」
茶化そうとして、祐一は口をつぐんだ。
その言葉に共感している自分をだませなくなったから。
「…ん、そうだな」
「そうですよっ」
顔を見合わせて、ふたり笑う。
そのまま、見つめ合った。
「祐一さん、目、まだ赤いです」
「栞だって。うさぎみたいになってるぞ」
「えへへ…」
恥ずかしさを誤魔化すように、栞はそっと目を閉じた。
一時鼻白むものの、祐一は彼女の口元に自分の唇をそっと寄せた。
「ん……」
互いの吐息を交わす。
「……えへ、恥ずかしいです」
「またえらく脈絡がなかったな…」
ふにゃっと笑う栞の顔を直視できず、祐一はぽりぽりとこめかみを掻く。
「そうですね…
始まりの合図、なんてどうでしょうか?」
「何の始まりだ?」
「新年度、私の学校生活、祐一さんと一緒の日々…どれでもお好きなのをどうぞ」
「どうぞって、全部ほんとのことじゃねーか」
「えへへ、そうですね。たくさんのことが始まって、わたし、楽しいです」
「俺は学校が始まるのはアレだけどな…」
くすくす、と笑う栞。
「でも、始まりの合図がその…キスなんて、ドラマみたいで格好いいですよね」
「格好いいかどうかは知らんが…ドラマみたいなのは確かだな。
どれ、念のためもう一度合図しておくか」
「え……、んっ」
今度は不意打ちで栞の唇を奪う。
「…ぷはっ。…うー、いきなり過ぎです」
「嫌だったか?」
「わかってるのに訊かないでくださいっ、嫌じゃないですっ」
飛びつくように、彼女は三度目の合図を奪い返した。
残った雪が目立つこの街では、桜が舞うには少しばかり早い季節。
初春。
主である冬の名残雪が消え、静かに地中へと解けてゆき、
入れ替わるように、あちこちから新芽が息吹きだす——そんな季節。
それは、長い長い一年遅れの、
彼女の始まりの日。
四時限目が始まる前の教室で、
或いは彼女の姉に、
或いは彼女の級友に、
はじまりの合図を冷やかされる。
それだって、きっとこれから始まる日々のひとかけら。