————空が高い。
それは、如何様な感傷だったか。
視界に入る存在で、最も色彩豊かなものだった。
それが、いつも空を眺めていた理由だった。
広がる青空。
通り過ぎる夕空。
覆いかぶさる夜空。
降り注ぐ星空。
そして——燦々と微笑む、黎明。
絶え間なく移り変わる空は、わたしとまったく対照的で、
だから、きっと世界で二番目に遠い存在だった。
+ + +
—— Vacancy Air ——
+ + +
「———来年の誕生日。そのころに、あなたは死ぬのよ」
わたしの死神は、理知的な面(おもて)と波打つ艶髪を纏った実の姉だった。
最初は冗談だろう、と思った。
わたしは、今まで一度も見たことのない顔を貼り付けているその人を、本当に姉ではなく死神の扮装だと思ったからだ。
けど、そうして感情を押し殺す意志の堅さはやはり慣れ親しんだ姉のもので。
膝上に乗せたストールだけを取り落とさないように、ぎゅっと手に力を込める。
「———…そう、なんだ。…うん、そっか」
その自らの力のあまりの弱々しさで、わたしはその宣告を真実のものとして飲み下した。
それは同時に、敬愛する姉を失うことも受け入れることに他ならなかった。
そうして、独り暮らす。
お供は備え付けのテレビと、テレビ番組情報雑誌。
この二者がわたしの趣味につきあってくれる頼もしい相棒だった。
アイスクリームを食べながら、ドラマを見ている。
ここにきて諸々の制限が徐々に緩くなってきていた。
つまり、自分が現在身をおいている状況は、末期療法的論理の結論らしい。
「………」
そうして、安定しているような日々を送る。
ただし、手に入るものは何もない。
「…ふぅ」
——それが何だというのだろう。今手元にあるこのストールと引き換えに、わたしは一番大きなものを失った。
それから後の収支決算なんて、気にするほうが難しい。
…プチン。
急にブラウン管のちらつきが苦痛に思えて、押しボタンの主電源からテレビを切った。
わたしにあてがわれた個室は、それだけで静かになる。
「……ん、ぅ———」
軽く伸びをすると、その拍子に、もうひとつの趣味の相棒が目に入った。
二十四枚の画用紙を束ねるリングがひしめく背を手に取って、胸の前まで持ってくる。
最近は、ご無沙汰だ。
なにせ、書くべきものがない。
——————。
「、——あ」
素朴な管楽器のような音がして、外を見ると、名前も知らない小鳥が、すぃと窓の外を上昇しながら飛んでいった。
「空を飛ぶ…か」
こどもの頃、考えたことがある。
どうして鳥はあんなに自由に空を飛べるのか。
漢字を習って、「空」の別の用法を知ったとき、その理由を思いついた。
———何もないのだ。
そこには何もない。だから、自由に動き回れる。
そんな安直な幼い考えを省みくすくすと笑いながら、筆を手に取る。
久しぶりに、書こう。
ココロの動きはわからない。
ただ、その昔のころに戻りたいと思ったのかもしれない。
「…あ、れ?」
そして、愕然とした。
其処が空っぽだというのならば、一体わたしは何を書けばいいんだろう———?
+ + +
「…もし。そこな小柄で可愛らしいお嬢さんや」
「——ふへ?」
意識を外界へ割いていなかった栞は、突然の声に動揺した。
「はわわっ、わわっ」
腰掛ける場所の面積の無さが悪い。あっというまに体勢が崩れて、
——ぽす。
後ろから、誰かに抱きとめられていた。
「おっと、危ない危ない」
「、わわ…」
顔がかぁぁ、と赤くなる。
聞き慣れた声から背後の人物が誰かは明らかであり——だから、恥ずかしい。
「祐一、さん…」
「よぅ。奇遇だな」
首だけ捻って見上げるように相手を見つめる栞。
その相手、祐一はいつもどおりの能天気な笑い顔で簡潔に答えた。
「——お。今日も無駄な努力か」
彼の両脚は彼女の後方、きれいに整えられた芝生の中に立っている。公園のシンボルを張る柱時計と、小さな丘になった芝生地。そこは低くレンガで囲われている。栞が腰掛けていたのはその一部分だった。
つまり。いきなり声をかけたらどうなるか、重々承知して受け止められる位置に居たらしい。
…と、自分の恥ずかしい状況の経緯を探っていた栞は、危うく聞き逃すところだった。
「む、無駄な努力とは何ですかっ!」
「いや、無駄な努力というか、殺人的(ムーダー)な努力というか」
「そんなこと言う人嫌いですっ!!」
大声を張り上げる。が、祐一に後ろから抱きかかえられ、おまけに小柄な四肢をばたばたいわせたりしているものだから、どうにも締まらない。
「だってなぁ、今回も凄い絵だろ……おりょ?」
栞を完全に抱きしめて——わ、と呟いて栞は顔を真っ赤にした——肩越しに彼女の膝上のスケッチブックを伺う。
開かれたページは完全に白紙だった。
「…白紙だな」
「え、あ、はい…そうです、けど」
祐一が何にひっかかっているのか、いまいち分からない。
「いやしかし…こう、筆を手に取ってから随分と経ってるじゃないか」
「それはそうで——って祐一さん、見てたんですか?!」
「うん」
あっさりと頷く。
「あ、悪趣味ですよっ…。もっと早く声かけてくれればよかったのに——」
「栞の絵にかける情熱に水を差しちゃいかんと思ってだな」
「…無駄な努力、と言いましたよね?」
「……ぐ」
祐一の薄っぺらい言い訳はたやすく論破された。
本当は、疲れやしないか心配なぐらい首を上に向けて、ぽけーと空を眺めている栞が妙に愛らしくて、しばらくその姿を堪能していた、という事情なのだが——
「…そんなこと、」
正直に言ったら確実にヘソを曲げるよな、と祐一は独想する。
「む。祐一さん?」
しかし、詰め寄ってくる栞は、黙秘を決め込むだけではどうも引き下がりそうにない。
仕方がないので——不穏当な部分を削って、差し障りなく答えることにした。
「いや、栞が可愛いから思わず眺めてたんだ」
「…え————?」
臆面もなく言う。
言ってしまってから、祐一は自らの発言がまるで阿呆みたいな彼氏のそれであることに気づいた。
いろいろ削ったら、本人の意思を離れていろいろと予想外の効果を持ってしまった。
「え、ぅ…ぅあ、あの…」
まあいいか、と祐一は栞の横に腰掛けて、茹でダコのような栞の頭を撫でた。
空を見上げた。ぷかぷかと浮かぶ子供のように雲と、磨き上げたようにきれいな青の空。
いい天気である。おまけに栞も可愛い。今日はいい日だ、と祐一は呑気に欠伸を漏らした。
「…何を描こうか、迷ってたんです」
ぽつりぽつりと、栞は語り出す。
何だかんだいって、祐一を信頼して——いや、それより単純に、祐一に自分の気持ちを知っておいてもらいたいのだ。
「何って——空を描くことにしたんじゃないのか?」
「それは、そうなんです、けど」
栞の口は重い。
…耳たぶに朱が差しているあたり、どうも幼少の自分の発想を他に教えるのが恥ずかしいらしい。
「ふむ。空っぽ…ね」
「えと——その、可笑しいでしょう?」
「んなことは別にないと思うが。…というか、俺なんかがガキのときなんてそこまで考えなかったな。
おお、飛んでるなぁ、で終わりだ」
「あはは…」
苦笑い。祐一さんらしいです、的な感想が、喉元までせり上がっているに違いない。
「しかし、何を描けばいいかわからない、か…。
あ、そうだ。香里でも描けばいいんじゃないか?」
「お姉ちゃんを——ですか?」
「ああ。空バックにこう——な。半透明で、必要以上に爽やかな笑顔で。
見守ってる感バツグンな感じ」
「それ故人じゃないですかっ!!」
がーっ、と突っ込んで…ふと栞は馬鹿らしくなって溜息をついた。
——それで、自分が把握している以上に思いつめていたらしいことが分かる。
「まぁ、とりあえず描いてみればいいんじゃないか?」
「うーん…けどやっぱり、何を描けばいいのかがそもそも…」
栞の苦悩に、祐一はふむ、と考え込む。
「別に、分からんまま描き出してもいいだろ。手当たり次第描いてみりゃいいんじゃないか?」
「なんだか大雑把ですー…」
「そうかもな…。
けど、何をすべきか見当もつかなくたって、とにかく走り出したい、って時は——あるよ」
「そう…ですか?」
「ああ。それが真剣に好きだったらな」
「……」
今日いままでで一番真摯な祐一の言葉を、栞はゆっくりと咀嚼した。
筆を、取る。
画用紙の上の白面を睨む。
そして、空を見上げてみた。
「あ…」
ほぼ無意識のうちに、すっ、と筆がその開拓地に入った。
+ + +
すぐ横で、お、という気配。
祐一さんが、まるで自分のことのように喜んだ笑顔で。
私が祐一さんのほうを伺うと、目を合わせて、満面の笑みに変える。
だから、わたしも楽しくなって、笑ってしまう。
描こう。
描ける。
「ふふ……」
空を見上げる祐一さんを見て気づいた。
何故かは知らないけれど、わたしの隣で、何だかとっても楽しそう。
だからわたしも楽しくなる。
空がきっと空っぽだって、
描くべきものはわたしが全て持っているのだ。
真実空っぽだったのはあの日のわたし。
何て責任転嫁、とかつてのわたしに苦笑する。
————空はこのスケッチブックと同じ。描き手が描くものを、文句も言わずに受け入れてくれるのだ。
+ + +
「えーと、栞」
「…むー、何ですか祐一さん」
「……その物体は、あっーと…金ダワシか何かでいいのか?」
「そんなこと言う人嫌いですっ! 雲です雲っ!
何で青空に金ダワシが浮いてるんですか——!!」
「よく考えればそうなんだが…視覚から入ってきた情報を素直に解釈したら金ダワシに」
「〜〜〜っ! もう、祐一さんヒドイですっ、お空さんとは大違いですっ!」
「…?」
そうして二人がじゃれあう間にも、空は移ろいその装いを変えていく。
栞が完璧に空を描くのは、ますます難しくなるだろう。
(そうかもな…。
けど、何をすべきか見当もつかなくたって、とにかく走り出したい、って時は——あるよ)
(そう…ですか?)
(ああ。それが真剣に好きだったらな)
(……)
克服し難い病魔の存在を真正面から見つめ、
日常という彼女が最も欲していたものを共有しようと努め、
終末に等しい誕生日を、少しでも幸せにするため、プレゼントに苦心した。
祐一が「真剣に好き」なもの。
それが何だったのか、栞は今のところ気づいていないらしい。
とりあえず自分だけが分かっていれば良いか——と祐一は思う。
+ + +
「まったく…」
ポピュラーなスライドショウ・エディタが起動しているPCの前で、香里はため息をついた。
押し付けられた仕事というのは、どうにも楽しくない。
「いいわよね——遊び歩いてる人たちは」
辛辣なはずの愚痴が、何故か少しだけ嬉しそうに弾む。
——がちゃ。
聞きなれた玄関のドアの音。香里はがばっとイスの背もたれから身を起こして、手早く身なりを整えた。
クーラーの利いた自室を恋しく思いながら、仕方なく階下へ。
来訪者は、宅急便でお客さんでもなく、この暑い中ベタベタとくっ付いた馬鹿っぷるだった。
「あら、もうデートはおしまい?」
壁の時計を眺めて、香里は首を傾げた。日が落ちるにはまだまだ余裕がある。
「いえ、これが仕上げです」
「…?」
栞が、なにやら意気込んでいる。
「ま、なにも言わず見てやってくれ」
そう言って、祐一がす、と栞愛用のスケッチブックを差し出した。
——固まる。
「…え゛?」
「ああ香里——大丈夫だ。俺が既に見た。危険はないぞ」
「むー、どういうコトですかそれ」
そのまま犬も食わないような言い合い——というかじゃれ合い——を始めた二人を他所に、恐る恐るページを開く。
「———へぇ」
そこにあったのは、何の変哲もない青空だった。
特別な技巧は見当たらない。
だが、そもそも人々は、何の変哲もない青空を見てさまざまな思いを馳せるものだ。
「そっか」
これが、今栞の見てる空——か。
ちょっとした感覚の共有。それがこんなにも嬉しい。姉バカだなぁ、と自覚しつつも、香里は慈しむようにスケッチブックをぱたりと閉じた。
「上手な絵ね、栞———」
+ + +
世界で一番遠かったひとが、わたしの絵を見て笑ってくれる。
それがこんなにも嬉しい。
お姉ちゃんがスケッチブックをそっと返してくれる。
手と手が届く距離。今はこんなにも近い。
ああ、わたし今、幸せなんだな——と、改めて思ってわたしも笑った。
会心の出来、わたしの自信作。
ずっと、こんな絵が描けたらいいな。