ぱぁん!
そんな破裂音と共に、智代の足元に飛んでくる紙テープ。
「む…?」
怪訝そうに眉をひそめる智代の下に、小さな姿が一つ、とことこと駆けて来た。
「ママー、たんじょうび、おめでとー」
「は、はぁ…」
智代は目をぱちくりさせながら、壁にかけてあるカレンダーを見るしかできなかった。
今は——七月。夏の始まりだった。
「ぬぅ——」
ごろごろごろごろ。
狭いアパートの一室で、ひとりの少女が右往左往していた。横になって転がって。
「あーつーい——…」
彼女が着ているのはノースリーブだったが、いかんせん部屋にあるのがおんぼろの扇風機一台だけなので、室内にはじっとりとした嫌な熱気が立ち込めている。
「あー、だめだ。アイス買いにいこ」
がばっ、と立ち上がってそう宣言する。
「ありゃ? ——あ、やべ」
拍子に掛け時計が目に入ると、途端、その少女は慌てだした。
「ともさんのお迎えの時間だ、っと」
少女はつっかけるように靴を履き、外へ出た。
「ひゃー、あっつー…」
早くも浮き出た汗を拭いながら、少女はドアに施錠して、アパートを飛び出した。
* * * * *
「こんちはー」
もはや見慣れた幼稚園に辿り着き、ひとりの保母に声をかける。
「あら? あなた…」
「ともさんを迎えにあがりましたー」
その声を聞きつけたのか、ぱたぱたと駆けてくる足音。
「あー、かなー、こんにちはー」
通園鞄の「とも」という名札を揺らしながら、女の子——ともが少女——河南子の足元に飛んできた。
「今日はお姉さんがお迎えではないんですね」
「先輩、いろいろ忙しいみたいで」
保母に挨拶をしてから、ともの手を引いて歩いていく。
「今日もあっついですねー、ともさん」
「そうだねー」
げんなりした様子の河南子とは対照的に、ともはにこにことして歩いている。
「というわけでともさん、アイス食べましょアイス」
「もー、だめだよー、かいぐいしちゃー」
「ま、ま。そういわずに。ね?」
「だーめーっ。パパもママもおにぃちゃんもがんばってるのにー」
「あーあーダメですよともさん。周りに振り回される生き方なんて」
「もー、かな、ダメだよー」
アイス食うがために園児を全力で懐柔しているいい年の少女。
…端から見たら実にヘンな光景である。
「もー、なんでかなはいっつもアイスたべるのー」
「病気なんですよ。三十分に一本食べないと、全身の毛穴から湯気出して死にます」
「えーっ! ほんとーっ!」
目を丸くして信じ込むとも。
河南子は顔に出さずにニヤリ、とほくそ笑む。
「んー、じゃあしょうがないねー」
「さすがともさん、話がわかるっ。さあ行きましょ行きましょ」
* * * * *
「ん…」
智代は伏せていた視線を窓の方へと飛ばした。
教室にはカリカリとシャーペンを走らせる音。
今日は土曜日。智代と鷹文の学校は模試の真っ最中であった。
「…どしたの、智代?」
隣の席から、親しいクラスメートがそう問い掛けてくる。
模試中は特定の監督者はつかない。本来休みの日に、何人も教師を出勤させるわけにもいかないのだろう。カンニングし放題だったが、進学校の連中にとっては一時の成績よりも正確な判定が欲しいようで、そんな様子は見られなかった。
「おい、試験中だぞ」
「まーまー、そうカタいコト言わずに。何か悩み? 智代、なんだか不安そうな顔してたから」
「いや、悩みというか、不安というか、心もとなさというか…」
珍しく歯切れの悪い智代におや、と首を傾げる。
智代はちょい、ちょいと、教室の時計を指差してやった。
「うわっ、まだ大問ひとつぶんあるのにっ」
慌ててテストに戻る彼女を見てから、智代は再び窓の向こうを眺めた。
「心配だ…」
* * * * *
はむ、と棒状の氷菓子に食らいつくと、ほぅとため息を吐く。
「あぁ…生き返る…」
奇妙に身をよじりながら、恍惚とした表情で呟く河南子。
「おいしいー」
先ほどの注意は何処へやら。
ともも、美味しそうにアイスを頬張っていた。
「いやー、しかし近頃は幼稚園児も大変ですねぇ。休日出勤とは」
「けど、たのしいよー」
「というか、なんの用でしたっけ?」
「もうー、あさはなしたよー、うんどうかいのれんしゅうー」
「あはは、そーでしたっけ」
すっかり忘れていた。
河南子はあっけらかんと笑うと、アイスをもう一口。
「かなー、ママはどうしてがっこうへいってるのー?」
「模試だそです、模試」
「もしー?」
アイスをくわえたまま、うーんと首を捻るとも。
「模様替え段位検定試験のことです」
「わー、なんだかむずかしそー」
…ツッコミ不在のふたりの会話は自由自在だった。
* * * * *
がらがら…
「ねぇちゃん、居るー?」
上級生の教室に気後れもせず入ってきた一年に皆おや、と思うが、すぐ納得してそれぞれの会話に戻る。
その様子に気づいた智代も振り返った。
「ん…鷹文か。どうした?」
「いや、どうせだから一緒に帰ろうかと思って」
「あのな…」
智代は呆れたようにため息をつきながらメガネを直す。
「三年は午後もあるんだ。今朝話しただろう?」
「あ。あはは、そうだったっけ」
あっけらかんと笑う鷹文。
「もうともも帰ってきてるだろう。悪いがお前も、早めに帰ってくれないか」
「うん、まぁ河南子ひとりじゃ不安だからね」
「あ、いや、決してその…そういう意味ではないぞ?」
今度は鷹文が呆れたようにため息をついた。
「ねぇちゃんって、ホント嘘つくの下手だよね」
「こら、聞け鷹文!」
「なんか、にぃちゃんのからかいたがる気持ちもわからなくもないかも」
「とっ…朋也は今関係ないだろう!」
生徒会長時代のときとうってかわって騒がしい智代を、級友は苦笑しながら楽しそうに見つめていたそうな。
* * * * *
「…ぁっくしょい!」
でかいくしゃみが出た。
「あー、何だ今の? 風邪か?」
仕事中の朋也は、咳払いでのどを整えながら、怪訝そうに首を捻った。
* * * * *
「ぶぁっくしょい! …うぇーい、こんちきしょーめ」
完全にオヤジのリアクションで、自らのくしゃみに悪態をつきながら、河南子はドアの鍵を外した。
「ほらー、アイスのたべすぎで、かぜひいたんだよー」
「大丈夫なのですよ、ともさん。馬鹿は風邪ひかないのです」
がちゃり、と戸を開けて、アパートの部屋の中へと入る。
「ただいまー」
誰もいないのだから返事も返ってこない。が、ともはきちんとそう挨拶をした。
「ともさん、おかえりなさーい」
「えーっ、かなもおかえりなさいだから、ヘンだよー」
「返事がないよりかはいいっしょ」
「…うーん、そうかも」
ともは自分で靴を脱ぐのに四苦八苦していた。手伝ってやる。
「よし、おっけーい」
「ありがとー」
すると、ふたりの背後でまたドアが開いた。
「おじゃましまーす。…あ、もう帰ってるね、二人とも」
顔を覗かせたのは鷹文だった。
「なんだ、てめぇ。サボリか、サボってんのか」
「模試だって言ったろ。三教科しか受けないんだから、そりゃ昼過ぎに終わるよ」
「先輩は?」
「三年はセンターで使う教科全部。だから、結構遅くなるよ」
「うへぇ…朝から晩までテスト…」
「かなー、だいじょうぶー?」
「さっき食ったアイスまた戻しそうです、ハイ」
「わー、たいへんー!」
「というか、また食ってたのかよ…」
「いいのー、おにぃちゃん。かなはー、アイスたべないとしんじゃうんだよー」
「そんな嘘信じさせるなよっ」
「嘘じゃないです。食べないと、ハイパー化してその後に死にます」
「あれー、さっきとちがうような…」
「しかもむちゃくちゃ適当な嘘かよっ」
* * * * *
ごろごろごろごろ。
「う゛あ゛——…」
「どんな声出してんだよ…」
奇声を上げながらごろごろ転げまわる河南子に、タイピングの手を休めて振り返る鷹文。
ちなみに、ともは絵本に熱中していてそれどころではない。
「ひまだあぁぁぁぁぁ…」
力尽きたかのように回転を止めた。
かと思うと、がばっと身を起こして、
「おい、お前。なんかイベント考えろ」
「何で僕が」
モニタから目を離さずにあしらう鷹文。
「ちっ、使えねーやつだな、まったく」
「なんだってっ」
そこからは、いつも通り子供のような口ゲンカにもつれこむ。
するとさすがに、とももその騒動に気づいた。
「もー、ケンカはだめだよー」
怒り顔を作り——もっとも可愛らしさが強調されるばかりで全然怖くない——、ともはふたりの間に割って入る。
「なんなのー、ともがきくよー」
「ああ、聞け、とも。こいつ、イベントがないとかなんとか、さっきからうるさいんだ」
「いべんとー?」
『それなあに?』といった様子で首を傾げるとも。
「えっと、なんて言えばいいのかなぁ…。
要は特別な日だよ。誰かの誕生日とか」
「たんじょうびー、おめでいたひー」
「そうそう。たとえばそういう日」
なんとかわかってもらえたようで、一安心していた鷹文は、ふと対面の河南子が妙におとなしいのに気づいた。
「…そうだ!」
「な、何だ?」
「思い出したーっ、今日先輩の誕生日じゃん!」
「は……はぁ?!」
予想だにしない発言である。
鷹文は訂正してやろうとおもったのだが、それより早く、
「ほんとー、ほんとにー?」
「そなのですよ、ともさん」
「じゃあー、じゃあおいわいしないとっ!」
ぴょんぴょんと跳ね回るとも。
「あーあ、信じちゃった…」
頭を抱える鷹文。
あれだけ喜ばれると、本当のことを教えるのがつらい。
「にしても、異様なはしゃぎようだなぁ…」
「——やったことないんでしょ。他の奴の誕生日祝いなんて」
河南子のあっさりと言った一言は、それゆえに鷹の胸に深く突き刺さった。
「……」
胸が締め付けられる。
ともは——ほんとうに楽しそうにはしゃいでいた。
「はぁ…」
「何よ」
「いや、多分薄情者の弟扱いされるだろーな、って」
「事実じゃん」
「なんだってっ」
鷹文の返しをよそに、すっくと立ち上がる河南子。
「うし、あんた買い出し班ね」
「ええっ…お前は?」
「ともといっしょに飾り付けー。ほらさっさといけっ」
「うわっ、尻を蹴飛ばすなっ!」
* * * * *
「ん…あー」
背筋を伸ばして、今までのコリをほぐす。
「すこし一服してきまーす」
返事が返ってきたのを確かめ、朋也は外へと出た。
今日の仕事は順調だった。この分だと、わりと順調に帰れるだろう。
「お…」
ふと首をめぐらすと、見知った顔がこっちに向かって歩いてきていた。
「やぁ、にぃちゃん」
「鷹文じゃねーか。どうした、こんなところまで」
「うん。実はすこし話すことがあって」
「そうか、ちょうどよかったな。俺はこれから一服だ」
近場の自販機でコーヒーを買う(ちなみに各自払い)。
「ふーん…そりゃまた突拍子もない考えだな」
「まぁ、ね。それはアイツに言ってよ」
苦笑する鷹文。確かに、話には乗っかったものの、どう考えてもヘンな計画である。
「まぁ、いいんじゃねぇの?」
「いいんだ」
「悪い気はしねーんじゃねぇか?
…それに、俺もまだ一回も祝った事ないからな、あいつの誕生日」
「ああ…そっか」
「三ヶ月ばかし先取りってことで」
「うん、そうだね」
顔を見合わせて、にっと笑う。
「じゃ、俺が智代を準備の時間に合わせてやろう」
「どうすんの?」
「あいつ、今日遅いんだろ? こっちは早くあがれそうだからさ、迎えに行く。
何時ごろならOKだ」
「うーん、そうだね…」
こうして、将来義兄弟予定のふたりは本格的な打ち合わせに入った。
* * * * *
「ふぅ…」
智代は多少、疲れのにじんたため息をついた。
今しがたテストを終え、級友に挨拶をして昇降口を出たところである。
智代の成績は尋常じゃなく良いが、それでも大変なものは大変だったのだ。
「ん…?」
後ろ姿だったが、智代には遠目でも一発でわかった。
先ほどまでの疲労感も忘れて、駆け寄る。
「朋也っ」
人影が振り返る。
「おう。来たか」
確かにその人物は朋也だった。
「待っていて…くれたのか?」
「偶然こんなところを通りがかったりはしないだろ」
苦笑する朋也。
「そうか。…ありがとう、すごく嬉しい」
微笑んで、自然と朋也と肩を並べる。
それを合図に、ふたりは歩き出した。
「それにしても、珍しいな」
「ああ。今日は早くあがれたんでな」
智代に答えながら、ちらちらと腕時計を見る。
(もういいな…)
「どうしたんだ、朋也? そんなに時間を気にして」
「いや……。えらい遅くまでかかるな、と思って。疲れたか?」
「少しな。うん、けど朋也と一緒に帰れるなら、それくらい何の苦にもならない」
そう言ってのけた智代を、たまらなく愛しく感じて、朋也は珍しく自分から彼女の手を取った。
「あ…」
「暑かったらやめるが」
「ううん、夏とはいえもう日も暮れたからな…。構わないぞ」
ふたつの影は、ひとつに寄り添って帰途についた。
* * * * *
そして——
ぱぁん!
そんな破裂音と共に、智代の足元に飛んでくる紙テープ。
「む…?」
怪訝そうに眉をひそめる智代の下に、小さな姿が一つ、とことこと駆けて来た。
「ママー、たんじょうび、おめでとー」
「は、はぁ…」
智代は目をぱちくりさせながら、壁にかけてあるカレンダーを見るしかできなかった。
今は——七月。夏の始まりだった。
「えへー、びっくりしたー?」
「あ、ああ…。なぁ、とも」
「なにー? どうしたのー?」
「その…大変盛大に祝ってもらってるところ悪いが、わたしの誕生日は…十月なんだ」
「え…」
——ここまでは予想通り。
残りの三人がいっせいにフォローに入った。
「ああっ、ごめーんともさん! 河南、間違えちゃったー!」
「ま、まぁでも、せっかく用意したんだし、祝わないともったいなくないか?」
「そうだねぇ。誰にでも間違いはあるし、ここはひとつ——」
しかし、智代はジト目で三人を睨んでいたし、ともにいたっては泣きそうだった。
「と、とも?」
「ママの…」
「ん? わたしの?」
「…ママの…たんじょうび、はじめて…っ、っ、いわ、える、って……」
「——っ」
智代は言葉を無くした。
そして、わかってしまった。きっかけが何だったのかは知らないが、三人がこの誕生日会を強行しようとしたわけが。
「…っく……」
めったに泣いたりしない明るいとものこの姿に、誰も何も言うことが出来ない。
いや——
「…ともさん」
ともの前に進み出たのは河南子だった。
「実は、今日のは練習なのです、練習」
「れんしゅう…?」
「そなのです。ともさんも、運動会の練習したですよね?」
「うん…」
「そうそう。ママの誕生日だから、俺たちもちゃんと祝ってやりたかったんだよ」
「だから、今日はその練習なんだよ」
「もちろん練習と言っても、ホントの誕生日のつもりで練習ですよ、ともさん」
「…うん。がんばろうねー」
泣いたカラスがもう笑った。
(河南子、ナイスフォロー)
(お前にしちゃまともな発言だったな)
(いちおー言い出しっぺの責任を取ったのですよ)
「…ほら、智代。お前が居ないと練習にもなんないぞ。座れ座れ」
「わっ、朋也っ、あんまり引っ張るなっ」
* * * * *
朋也と智代は、夜風に当たりに外へ出ていた。
「……」
目を閉じると、さっきまでの楽しい情景が浮かんでくる。
——はっぴばーすでーとぅーゆー
——はっぴばーすでーとぅーゆー
——はっぴばーすでー、でぃあママぁー
——はっぴばーすでー、とぅー、ゆー…
とても拙い発音が、まぎれもなく世界一の調べに聴こえた。
「ふふ…」
思わず笑みをもらす智代。
「楽しかったか?」
「ああ。当たり前だ」
智代につられるように、朋也も笑う。
「けど、きっかけはいったいなんだったんだ?」
「さぁ。河南子らしいが、俺にもよくわからん。
——ま、いつも頑張ってる智代をねぎらうっつーこともあって、話に乗っかったわけだ」
「えっ…? そ、そんな意味もあったのか」
「ああ。いつもお疲れ様、智代」
不意に優しい顔を見せられて、智代はどきっとした。
「あ、うん…」
「それに、よかったな。楽しみができて」
「楽しみ?」
「ああ。三ヶ月待てば、またあんな風に祝ってもらえるんだぞ?」
「あ…。うん、そうだな。それは、すごく楽しみだ」
智代はもう一度、微笑んだ。
この楽しくも騒がしい日常をずっと大切にしていきたい——そう思って。
* * * * *
——Someday, the summer with us five will have gone. If no one sorround her and him, they will continue to walk together.
Wait for November 25th, 2005!
* * * * *
後日。
「そういや河南子、なんでいきなり誕生日なんて大ボラ吹いたんだ?」
「いやー、ケーキ食べたいなーって思って」
…おしまい。